200年ライフ終活のゴエス|法事と法要

供養
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「法事」と「法要」は同じ意味に使われることが多いですが、「法事」は遺族が故人を偲び、冥福を祈るために故人を供養するという意味で、「追善供養」ともいいます。

「法要」はお坊さんにお経を唱えていただくことです。

「法事」とは遺族・親戚・知人などに故人を偲んでいただくために、お集まりいただいて行う「追善供養」のことで、供養の後の会食まで含んだものを「法事」といいます。

つまり、法要+追悼供養(会食含む)=法事ですね。。

仏壇は、家の中にあるお寺です。
お寺は、仏像が祀られ、仏教の出家者が起居し、修行を行う施設です。
これを仏壇に置き換えるとどうなるでしょう。

位牌が祀られ在家の者が起居し、修行を行う施設になります。

故人を偲び、故人が冥土で幸福でいられるように祈るため。
故人に感謝し、故人と自分、故人と人と現世を見つめなおす。

つまり仏壇は、故人を媒体に、自分の冥土(死)と現世(生)を考える入り口だといえます。

お坊さんが早朝から寺院の手入れをするようにご仏壇の手入れをして、華瓶の水を替え、朝を迎える。茶湯、飲食、お線香をあげ、灯明(ローソクに火をつけ)、数珠を手に合掌し礼拝する。

たった数分で終わる、これらの行為に、故人と自分の命のあり方が凝縮されているのです。

供養は自分の文化で、ライフデザインの基礎になります。お寺のルールではなく自分のルールとして、美しくありたいものです。

いまの世の中、よくここまで下品になれるものだなと驚くほど、本人は自覚もないまま、下品になろうとすれば底なしでなっていきます。自分を律する基準がないのは、親子に愛着の絆が傷んでいるからですが、ご仏壇との絆を見なしてみることも大事です。

泉岳寺(せんがくじ)は、東京都港区高輪二丁目にある曹洞宗の寺院。

主君、浅野内匠頭に寄り添うように赤穂浪士が葬られているお寺。
討ち入りのあった日には、いまもお線香の煙で視界が悪くなる保。縁もゆかりもないない人々が、そのあり方に共感し、遠くからもお参りされます。仏教のルールでもなく、自分の想いに駆られての行為です。供養とは時空を超えてなされるものなのですね。

 

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