公案とは、禅を学ぶ人に「気づかせる」手法。
禅に興味はなくても、生きることに興味はあるはず。
よりよく生きたい人にとって、禅の公案は「気づきの宝庫」です。
特に「十牛図」は禅の教科書に留まらず人生の教科書です。
「十牛図」第六図は「騎牛帰家(きぎゅうきか)」では、「2つの問い」を投げかけています。
- 牛に乗っているとはなにか。
- 笛を吹いているとはなにか。
牛に乗っているとはなにか?
牛に乗っていることに、どんな意味があるのでしょう。
牛に乗って楽をするという意味ではありません。
牛は本当の自分でしたね。
そもそも、牧人は暴れる牛の手綱を持って、手なずけるように歩いていました。
一緒に歩いてくれるようになったのが5枚目の「牧牛」でした。
手綱はゆるんでいましたが、まだまだ放せる状態ではありませんでした。
ゆるんでいますが、気をゆるめた状態ではありませんでした。
それが「騎牛帰家(きぎゅうきか)」では、牛に乗るまでになったのです。
「騎牛帰家(きぎゅうきか)」2つの意味
「騎牛帰家(きぎゅうきか)」
心穏やかな牛にまたがって家に帰る・・・には2つの考えがあります。
- ひとつは、広がり・・・・「大局をみる」
- もうひとつが、深さ・・・・「内面をみる」
逃げ出し、捉えられないように、暴れていた牛と一緒に歩くうちに、牛の煩悩を断ち切ったので、牛は本来の仏性を持った心穏やかな牛になり、乗ることも可能になりました。
ついに本来の自己を自分のものにできたのです。
本来の自分とはなにか?
本来の自分とは、生きたいと願う根源的ないのちそのものです。
人の命は、もともとは「卵子」です。「精子」とひとつになって、育って誕生します。
脈々と継承されてきた先祖代々の見えない生命力やそこにある環境に置かれ、教育を受け、37兆あると言われる細胞ネットワークの塊が人として形をなしていきます。
それらはひとつになって、生きようとします。これが根源的ないのちです。
水が湧き出る源流のふるさとがあるように、いのちにもあるのです。これが本当の自分の根源です。
一滴の水は一滴ですが、川に合流することで、いのちの根源を楽しみます。
涅槃寂静とはなにか?
牛と一体となった牧人は、牛の背に乗ると遠くまで見渡します。
遠くにある人生の輝きが見えます。涅槃寂静です。
お釈迦様はの説いた真理のひとつ涅槃寂静とはなんでしょう?
気づきのための基本として説かれた4つの真理「一切皆苦」「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」のひとつ。
煩悩とは、サンスクリット語の「ニルヴァーナ」を音写したものです。
意味は火を吹き消した状態のことで、火は煩悩、寂は不動、静は静かなことの意です。
煩悩の吹き消された悟りの世界(=涅槃)は、静やかな安らぎの境地(寂静)であるという意味です。
牧人は、感覚で「涅槃寂静」の境地を知るときが、すぐそばに来たと予感したのです。
笛を吹いているのはなにか?
牧人は、身も心も軽く、安らかで自由な境地にあります。
牧人は牛の背に乗って、家に帰っていますが、綱を持たず笛を吹いています。
なので牧人は自分の内面を深く観察する余絡を持ちながら、想曲の音色を楽しみながら、家路をたどります。
本来の自己とそれを求める自己が一体になったため、求めようと努力しなくても内面から湧き出る仏性を深めて、共感を悟ることができるようになってきたので、笛を楽しめるのです。
まとめ
「騎牛帰家(きぎゅうきか)」牛にまたがって家に帰る・・・には2つの考えがあります。
- ひとつは、広がり・・・・「大局をみる」
- もうひとつが、深さ・・・・「内面をみる」
より遠くを広く世界を見るには、つまり大局を見るには自分の内面の深さが影響します。
私たちが他者や物事をみるとき、表層だけを見ているわけではありません。
表層の下にある深層の心の働きを観る事ができると、より現象への理解が深まります。
つまり、認知の歪み、ラケット、人生脚本から解放されたのです。
求めようと努力しなくても内面から湧き出る仏性を深めて、共感を悟ることができるようになってきたことを表現しています。
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