<お粥さんPJ>とは、自由で豊かなライフステージを過ごしてエンドレスにワンダフルにする自他肯定のライフスタイルにするプロジェクト(PJ)です。
ライフスタイルは個人の生涯を決定づけることを目的に、自らが選択、繰り返し実践して、目的を達成するために日常的に使われています。
ライフスタイルはコミュニケーションスタイルとなり、他者と交流するときに使われています。
ほとんどの場合、「性格」という言葉で認知されています。交流パターンはいくつもあり、具体的なシナリオ(人生脚本)に仕上げられています。
ここでは、基本的なPAC交流・3つのPAC交流事例・あるある事例に分けてご説明します。
PACとは、親のこころ、大人のこころ、子どものこころの使い分けです。
基本的な交流
ひとはPAC交流の基礎となる基本的なライフスタイルを持っています。
- 自分はOK,他人もOK(自己肯定、他者受容)
- 自分はOK,他人はNO(自己肯定、他者否定)
- 自分はNO,他人はOK(自己否定、他者肯定)
- 自分はNO,他人もNO(自己否定、他者否定)
励ましができる人の基本的な交流パターンは、「自分はOK,他人もOK」です。
自分も周りの人もそのまま肯定して受け入れることができます。
「自分はNO,他人もNO」の人は励ましが苦手でオープンな交流が苦手です。
人は誰しも以上の4つのどれかを基本的な交流パターンとして持っていますが、この交流パターンの上に三つの心を乗せた交流します。
ですから、「自分はOK,他人もOK」の構えのひとは平行する交流を自然に行えますが、「自分はNO,他人もNO」の構えのひとは平行する交流が苦手なため、どうしても交叉させてしまいがちで、特に親しいひとの間では顕著です。
そのため、構えはさらに複雑化する一方、より明確な構えが出来上がっていきます。
ライフスタイル+PAC交流パターン=人生の構え(あり方で精進の妨害になります)
人生の構えにおいて人は、自分と周囲の人を巻き込んで、犠牲者、加害者、支配者などの役割をそれぞれ設定し、ドラマのようにストーリーのある展開と関係を無意識に作り上げます。
ストーリーのある展開には、目的があり、その目的が達成されるように、仕掛け、役者(役割)、平行的交流、交叉的交流、主役の登場(加害者と犠牲者)、混乱、結末(破綻)と進んでいき、目的(破綻)が達成される手はずになっています。
目的が破綻になっているのは、展開のプロセスに交叉的交流が含まれているからです。
交叉的交流が物語のクライマックスに待ち受けています。
ヒーローが選ぶ悪人役にも好みがある
アクション映画には正義のヒーローが登場しますが、悪者がいないとストーリーが成立しません。それと同じく破綻のストーリーにつきあう相性のよいひとが存在しないと、ストーリーは作れません。
たとえば好きなタレントはと聞くと、それぞれに答えが返ってきます。
惹かれる理由は自分でも分からず言葉で説明できないことが多いものですが、人の背景にある「生きる構え」から発信するそれぞれのオーラを嗅ぎ付けて接近しているのです。
類は類を呼ぶと言います。見た目は全く類が違うようでも、内面的に同類あるいはプラスとマイナスの関係にあります。
DV (ドメスティック・バイオレンスdomestic violence)とは、同居関係にある配偶者や内縁関係や両親・兄弟・親戚などの家族から受ける家庭内暴力のことですが、親を選べないこどもの場合は仕方がないとして、配偶者の場合は選べます。
つまり相性が合うから選んでいるといえます。
以前はそんなことはなかったとよく聞きますが、その兆候は性格の一端として以前からもあったのが一般的です。配偶者として選ばない人は、惹かれるものがなく交際もしていないわけです。
この段階の人間関係は、なぜか惹かれる、惹かれないという無意識のレベルですが、無意識も意識の内なので、惹かれないひとはDV性も含めて惹かれていないのです。
つまり磁気のように惹きつけあう要素があって配偶者を選んでいます。
それと同じように破綻のストーリーの役割を担うために参加してきます。
PAC交流3つのパターン
表面に表れるPAC交流パターンには次の3つがあります。
- 平行的交流
- 交叉的交流
- 仮面的交流
仮面的な交流とは、表に出した言葉や態度とは裏腹に別の心情を持って交流を図るものです。
感情的になって乱暴な態度をとった後、冷静になって「先ほどは申し訳ありませんでした」と謝罪します。(大人→大人)
しかし、実際は心の中で“私はダメな人間です。処罰してください。” (こども→親)と考えていました。
これは、図3の大人→大人が表に出た態度で、こども→親が相手には見えない状態です。
このように表の交流と裏で起こっている交流が違う場合があります。
これが仮面的交流です。
平行になるコミュニケーションを心がけたいものですが、表面にでない交流パターンは他にも相互的交流、人格的交流、人間的交流、作為的交流、共感的交流、相補的交流、風刺的交流、功利的交流、防衛的交流などがあり、防衛的交流にはさらにいくつものパターンが内包されています。
交流分析について、「こじれる人間関係~ドラマ的交流分析(杉田峰康 著)創元社刊」に詳しく紹介されています。
さらに同著では、ひとはPAC交流とは別にドラマ的交流について記述されています。
精励を妨害する『あるある具体例」
破綻のストーリーはたくさんありますが、次のような一例があります。
▼ 事例「私を捕まえてくれ」
- 目的 捕まって自己否定のライフスタイルを自己認識して、さらに傾向を強くする
- 仕掛け 規則違反、ルール無視、盗み、暴走、浮気など捕まえられる手がかりを残す
- 参加者(カモ) 管理者、教師、警官、親、配偶者など
- 平行的交流 相手(こども、配偶者、従業員など)の言いなりになっている間
- 交叉的交流 犯罪の発覚、犯罪者の怒り、感情の行動化、自己認識の動き
- 混乱 なぜ、わざわざ捕まるようなことをするのか?(説明がつかない)
- 結末 無念(自己肯定の失敗)、安堵感(自己処罰による罪悪感からの解放)
この事例は、件数的に非常に多いもので、特に10代の若者に多発します。
親離れなどの問題を抱え自己認識の欲求が高くなり、万引き、窃盗などこの種の犯罪は後を絶ちません。
当事者が(広義の)罪の意識に苛まれ、自分を認識するために起こしている破綻ストーリーで、処罰欲求に支配された行動への対処は、心理療養士のようなプロフェッショナルにとっても非常な困難を強いられます。治療するほど悪くなることも多いものです。
自己認識、より確かな自分を獲得したいがための行動の反面、自己否定感が強いため、処罰されることを求めてしまうのです。処罰されることで安堵感を獲得しています。
わざわざ手がかりとなる証拠を残しているのは、処罰されることで罪の意識から解放されるメカニズムが働いているからです。
このストーリーの参加者として名をつらねるひとをカモというのは、心理的、物質的に搾取される役割を演じてしまうからです。
もちろん本人は意識していませんが、主役の目的と相性が合うのです。
相性が合わない人は、参加機会があっても参加意欲がないので、参加することがありません。
ギャンブルに参加して勝つことは稀です。
勝ったにしても儲けたお金で事業を始めて成功したという話も聞きません。
どっちにしてもワリの合わないことなので、理性的なひとなら参加意欲が湧きません。
つまり熱心にギャンブルに励んでいるひとは自己処罰が目的と考えられることもできます。
▼ 事例「泥棒に追い銭」
- 目的 大損をして自分の愚かさを嘆く
- 仕掛け 困っています。助けてください。遊興にお金を使い果たす
- 参加者(カモ) 暖かい交流を求めているひと、自然なこどもを取り戻したい
- 平行的交流 債権者がお金を都合したり、真面目に働いている間
- 交叉的交流 催促するなど、返済を迫ったとき
- 混乱 泣き落とし、加害者と被害者の入れ替わり、周囲の批判
- 結末 損失、(またやられた!)自己嫌悪、尻拭い
この事例は、主演級がふたり揃って演じることの多いストーリーです。
遊興に明け暮れお金の無心を繰り返す部下に、心入れ替えて頑張ってくれたらと親心が働いて、ついつい言いなりにお金を貸し続けるものの、結局は何も変わらず、お金だけが消えたというストーリーです。
私は以前、この関係を聞いたときに、カモの役をしている社長に「あなたは言いなりにお金を貸しているが、彼が変わる可能性は99%ないと断言する。他のひとが社長の立場だったら解雇していますよ。こんな関係には絶対にならない。」と忠告したものです。しかし社長は懲りもせず続けました。
結局、会社は倒産しましたが、部下であった彼にも責任を免れることができません。
社長が言いなりになった遠因は、幼くして孤児になり、田畑の野菜を引き抜いて空腹を満たしながら独学で苦労を重ねて、地域の名士になるほど頑張った裏に、満たされなかったこども心があったのです。
暖かい父のぬくもりを部下に投影して自分が父親役を果たすことで満たそうとしていたのです。
私が「他のひとが社長の立場だったら解雇していますよ。」と言ったのは、満たされなかったこども心で判断しないひとならこんなスキは与えないという意味です。
問題ある部下がその心中を真に理解して、社長の望みを具現化したなら、両者ともにWIN-WINの関係で幸福感に満たされたわけですが、目的が自己否定にある限り悲劇的な結末しかなかったのです。
普通なら「バカもん、真面目に働け」で終わってしまう話ですが、互いの甘さを感じ取って「惹かれ合った」わけです。
社長もまた自己否定に苛まれながら努力をしてきたわけで、倒産という悲劇はストーリーの結末として最初から用意されていたと言えます。
交叉的交流が起こるのは、自分または他者を否定する意識が働いているからです。
つまり否定を表面化するために用意周到に準備したストーリーといえます。
まったくもって勿体ない話で、もっと建設的なことにエネルギーを注いだ方がマシですが、思うようにいかないのが切ないですね。
それにしても、破綻のストーリーは一体どのようにして準備されるのか、不思議に思われるかも知れませんが、種を明かせば簡単です。「鳴かずんば殺してしまえホトトギス」がライフスタイルだった織田信長の場合、どうでしょう。
たいていモデルが身近にいます。親の人生の再現などがそうです。
信長は父親を深く愛していましたが、一方で嫌っていました。父親が死ぬまでアンビバレンスな状態でした。葬儀の場での「抹香投げつけ事件」は信長が革新的な人物だったことを示す逸話として有名ですが、あまりに荒唐無稽なので、疑ってかかる必要があるにしても、こういう逸話がいまも続いていることと本能寺の変は無縁ではないでしょう。
多少役者が入れ替わってもドラマに必要な役割を身近なひとがこなしています。
信長の場合、明智光秀がそうですね。光秀が謀反を引き起こすように信長が追い込んでいます。
自分を捨てた父親の代理に恋人にその役をあてがい、自らが浮気に走り、恋人に復讐する、その結果、自分は捨てられた自分に戻る(=最終目的です)という事例は現実に少なくありません。
実に巧みに意図を感じさせずに、同じようなストーリーが組み立てられます。
私は、鮭をあるいはペンギンを思い出します。
海で育った鮭たちは、約束守るかのように、決まって北国の生まれた川めざして冷たい流れをさかのぼります。
生命の神秘を感じますが、ひとが無意識に創り上げるストーリーは、これに似ているような気がしてなりません。
こどもの頃の真実は大人になったいまも真実ではありません。
それが分かっていたら、破綻のストーリーは捨てて、自己実現のストーリーを手にしたほうが楽しいわけです。
破綻のストーリーを避ける人が、自分はOK,他人もOK(自己肯定、他者受容)のひとなのです。
そして私たちは何としてでもよりよい自分のストーリーを描くべきです。
それは自分ひとりでは済まないことだからです。
それには「自分はOK,他人もOK」のライフスタイルに創り直すことです。
「自分はOK、他人もOK」のライフスタイルに創り直す
創り直す手順は簡単です。
なにも考えずに「自分はOK,他人もOK」と思い込めばいいのです。思い込むのは自分の選択です。
思い込んだら後は一直線で「自分はOK,他人もOK」、だからできるまでやり抜いて自己実現しましょうが最適なのです。
ストーリーの創り直しは、「自分はOK,他人もOK」を旗印に、じぶん力再生から始め、自分の成長をやり直します。
親や身近な誰かの人生をなぞるのではなく新たに自分に最適な物語を作り直すのです。
つまり、三つの心を味方にして最大化にベクトルを合わせ「じぶん力」を使い、ライフスキルの章で説明した「7つのゴールデンルール」を実行することで作り直します。
ゴールデンルールへの取り組みは、じぶんストーリーの書き換え作業のはじまりです。
モチベーションを引き出す人は、親、大人、こども、三つの人格からマイナス面は使わないように注意して、良い面を使おうとします。
親(父・母)の心からは、
- 相手に対する尊敬と信頼でモチベーションを引き出すことができます。(信頼)
- 具体的
- プロセス重視
大人の心からは、
- 目的志向(集中力)
- 聴き上手(対等感)
- 大局で考える(楽しく我慢ができる)
こどもの心からは、
- ユーモア
統合された心からは
- 楽観的(ポジティブ)
モチベーションを上手に引き出すことができる人は、自分と他者の間に価値観、意見などの違いがあることを認めることができます。
自分も周りの人も同じように尊重した上で、三つの心を状況と人に応じ、適切に使い分けながらコミュニケーションができるスキルを身につけています。
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