<お釈迦様の哲学>は正しい目的を正しいやり方で実践するためのものです。
その先に目的の成就があります。
仏教とはなんでしょう?般若の智慧です。
般若の智慧とは、たった一回しかない人生をあなたがあなたとして生きる智慧です。仏教は般若の哲学であり、科学の土台であり、共感した人々が集まり、哲学を広めるために、よりわかりやすく真理を追求するうちに、神話になり宗教になりました。分裂し、数多くの宗派に分かれ、それぞれが真理を深め、よりわかりやすくあろうとし、2500年の歳月が流れました。
ここでは、般若の智慧のすべての土台である<お釈迦様の哲学>に触れ、2500年の道筋を探ってみます。
お釈迦様の原始仏教(初期仏教)
哲学は「本質」を洞察することで、問題を解き明かすための「考え方」を見出す活動です。
哲学と聞くと、多くの人は、実生活に大して役に立たない、何だかよく分からない難しそうなことを考えているもの、というイメージを持つ人もいますが、もともとは自然なこと。企業活動に於いて哲学があるとないでは競争力に雲泥の差が出ます。
個人の人生に於いても然りです。
理由は簡単、物事の本質知らずに正しいあり方がわからない者に正しいやり方もわからず、正しい実践もできないからです。正しい実践ができなければ、結果がどうなるか明白です。
哲学は、できるだけ誰もが納得できるような考えに到達するための、力強いさまざまな思考法のみならず行動力の宝庫なのです。特に2500年の歴史を持つお釈迦様の哲学は行動力を極める王道中の王道です。
<諸法実相(しょほうじっそう)>という言葉があります。
諸法とはすべての存在、実相とは真実のすがたのこと。
<お釈迦様の哲学>は避けたくても避けようのない四苦八苦の苦しみを超えるには、真実を明らかして、その上で<中道>つまりニュートラル。偏らないやり方を貫くことで苦しみのないレベルに達することが可能になります。
縁起
縁起は、つまり結果には原因がある。仏教の原点となる考えです。縁があって物事が生起する。ここで重要なのは、縁があっても必ず同じことが生起するわけではないということです。
お釈迦様の原始仏教(初期仏教)は、お釈迦様の出家からはじまりました。
やがて弟子もできますが、10名ほどのグループによるもので、書いたものもなく全て口伝によるものでした。お釈迦様は自分の死後、誰かがリーダーになることを懸念しました。
原始仏教は、お釈迦様の死後、やがて大乗仏教と小乗仏教(上座部仏教)に根本分裂します。
原始仏教が、小乗仏教(上座部仏教)になって、<お釈迦様の哲学>を文字にするようになり<経典>になりました。この段階では、お金のある出家者中心ですが、人数が限られます。やがて出家者だけでは限界があるし、他に学びたい者もいるということになり、費用をお布施で賄う案が浮上します。たくさんの学びたいヒトが学べる場(大乗仏教)と、出家者に限る小乗仏教(上座部仏教)と意見の対立は埋まることなく分裂します。小乗仏教というのは大乗仏教が一線を画すためにつけた名前です。
哲学から宗教へ:大乗仏教と宗派
やがて大乗仏教は地域も拡大、国々で分派していきます。分派したことで、派によって言葉に違いが起こり、新しい解釈も加わり、教えの違いも生じますが、どのグループであってもルーツである<お釈迦様の哲学>が、支柱であることに代わりはありません。
その基礎は四苦八苦をはじめ、様々な苦悩を受け入れて、「し合わせ」に暮らすというもので、理念だけでなく、実践する方法を説いた点が仏教が他の宗教と違う際立った点です。
▼仏教の歴史を知りたい方はことらもどうぞ。
自由で豊かなライフシフトをやり遂げ、そのスキルを家族に遺し、エンドレスにワンダフルな人生を引き継げるようにするには、簡単なコツがあります。
因果関係を整理して自分がなぜこうしているのかを知ることです。
それが無明からはじまる十二縁起の法則です。
十二縁起の法則
十二縁起(十二因縁)の法則を、人間の存在発生から死に至るまでを、ものごとが縁により生じるものを順に観察したものを『順観』と呼んでいます。
人間は生まれて死に至るまでのライフステージで、さまざま人生苦を味わうこととなります。お釈迦さまはブッダガヤーの菩提樹下において、この人生苦を消滅し、輪廻から解脱する為にはどうすればよいかをお考えになり、無明から老死に至る人間の存在発生から死に至るまでの発想を逆転させ、根本の無明を滅する方法を『逆観』といい、縁起を順と逆に観じて、悟りを開かれたといわれております。
この順・逆の発想は十二因縁の教えを完成する上でとても重要です。すべての存在を空(くう)の思想に立った考え方でうけとり、にもかかわらず仮のものとして現実をうけとめ、さらにそれらを中道(ちゅうどう)、つまり偏りのない認識でみることです。
無明(むみょう)
『無明』とは明るく無いことで、智慧のないことを意味します。つまり、すべてのものごとのあり方や、人生についての意義を知らず、また知ろうともしない状態をいいます。無知のこと、根本煩悩のこと。
行(ぎょう)
潜在的形成力のことです。<もともとのいのち>と解釈できます。人間が言葉を持つもっと以前、十億年も前、人間が人間という形をもたなかったころ、人間の意志をもって行う行為ではなく、すなわち、この宇宙に生物というものが発生した当時から、その生物が無意識のうちに行動してきたことをさしています。しかし、その記憶は無意識に引き継がれています。
識(しき)
そうした無意識の行動が、長い間無数につみかさなることによって、次第に、物事を知り分ける意識ができあがってきます。簡単に云うと、習慣によって、ぼんやりとした、ハッキリしないものごとを知り分ける働きの大元にすぎません。これを『識』といいます。【認識・判断】
名色(みょうしき)
識が、少しずつ発達して『名色』となります。
『名』は無形のものをいい、ここでは心や精神世界を表します。
『色』は有形のもので、ここでは肉体をいいます。
心身の作用が除々に形を整え、自分の存在を意識するようになる状態を、『名色』といいます。ここでいう意識は、自分勝手に自分の存在を意識するわけです。
わかりやすくいえば、身体というものはもともと『空(くう)』であるにもかかわらず、自分の存在を固定的・永続的に実在するかのように意識する意識のことです。【名称と形態】
六処(ろくしょ)
名色が発達すると、心身の六つのはたらきがハッキリしてきます。
すなわち、眼(視覚)・耳(聴覚)・鼻(嗅覚)・舌(味覚)・身(触覚)という五感の感覚と、その五感で感じたものの存在を知りわける意(心=知覚)が相互に働き、分別や区別する意識がでてきます。その働きを『六入あるいは六処』といいます。【対象と接触する領域】
触(そく)
<六処>の物事を見分ける能力がそなわり、ハッキリと意識的に物を判断できる状態になること。例えば、赤ちゃんが成長してきて、お父さん、お母さんなどの識別ができるようになった状態をいいます。
このような識別は、『名色』と『六処』が互いに融合し関連して起こるものを『触』といいます。【対象との接触】
受(じゅ)
心身が発達し、ものごとを識別できるようになると、自然に、好き・嫌い・憂い・悲しみ・苦しみなどのような、さまざまの感情が起こるようになります。これを『受』といいます。心に起こる最初の感情を『受』といいます。【受容して生じた苦・楽・非苦・非楽】
愛(あい)
このような感情が起こるようになると、当然のこととして、ものごとに対して『愛着』が起きてきます。これは、好きなものに心がとらわれることです。この段階では、まだ無邪気な心の動きの状態をいい、自分が楽しく感じる物に執着を感じている状態を云います。【渇愛】
取(しゅ)
愛着を感じると、どこまでも追い求めていこうという欲望が生まれます。愛着・執着の気持ちが強くなると、得たものは離すまいという気持ちが起こります。反対に、嫌なものを遠ざけたい、逃げたいというような、自分本位な心の働きが起きてくる状態が、取です。【執着】
有(う)
取が生じると、人の感情はそれぞれで、物事に対する考え方や判断が違ってくるようになり、それぞれが、自分の立場でものごとを主張をするようになります。つまり、『他人と自分を差別や区別』をする意識を持つようになります。そうした差別や区別する心の状態を有といいます。こうした意識の状態が芽生え始めて、意識に幸・不幸を感じるようになり、他人との不調和が人と人との対立を生み、争いが起こり、苦楽を意識するようになります。これらは、差別や区別する心であり、有が引き起こすものとされています。【生存、憂・悲・苦・悩】
生(しょう)
このように苦楽の意識は、業(行為)として、魂にすり込まれ、さらに次の世における『生』においても、同じような意識で人生が展開されていきます。つまり、根本原因である『無明』をなくさない限り、いつまでもこのような苦楽の輪廻を繰り返すとされています。また、この『生』を、本人だけでなく、『因果は三代めぐる』と云われるように、子々孫々の『生』にも影響を与えていると考えることもあるようです。【生まれること】
老死(ろうし)
人間は、この世に生を受ければ、やがて老いて死を迎えなければならない運命です。このことを『老死』と云います。人間が死を恐れたり、不安になるのは、肉体が活動していることのみを、この世限りの人生だと錯覚しているからではないでしょうか。仏様は、人生において仏法による正しい行為(善業)を積み重ね、次の世では、後生善処といって環境の良い処へと生まれ変わり、よりよい人生を送ることができるとされています。最終的には、輪廻さえ解脱して仏の境界に到達できるのだと説かれています。生物発生から人間という形になるまでの経過や、人間が苦の人生を送る状態を考えてみると、『無明』を根本原因として、十二因縁のさまざまの段階においてその無智を深めた結果であることがよくわかります。【老いて死ぬこと】
そこで問題になるのが「意思」の存在です。
つまり老死とは、刹那減のことであり、無明に進むための準備期間と考えるのが正しいでしょう。
▼肉体面の十二縁起についてはこちら
「色即是空」「空即是色」
そもそも快も不快も、実体として存在しません(空)つまり因果(縁起)が作り出したもので、その原因(縁)が失われれば、たちまち現象(色)は消え去る(空)つまり生起しなくなります。
これが『般若心経』、日本で最も広く知られている玄奘三蔵訳の正式な経題名『般若波羅蜜多心経』(はんにゃはらみったしんぎょう)でいう「色即是空」「空即是色」の教えです。
「色即是空」とは、「世の中に永久に不変のものはなく、どんなものでも流動的に変化する」という意味。 「空即是色」とは、「流動的に変動することによっていろんな物体に生まれ変わることができる」という意味。
目に見えるもの、形づくられたもの、現象(色)は、自分の頭の中で作られたもの。心が頭の中に映した妄想なのです。快も不快も自分が作った妄想だと理解できる智慧(般若)です。
正しい目的を正しいやり方(八正道)で実践する
現代的にいうなら正しい目的を正しいやり方(八正道)で実践することです。
二極化する現代の具体的なテーマに置き換えるとライフデザイン(ライフステージ)→ライフスタイル→ライフプラン→ライフイベント→ライフシフトであり、そのすべてを支える基礎がライフスキルであり、ライフスタイルの実践です。
このように並べると頭脳を使ったやり方が正しいと思われがちですが、作務あっての読経であるように、般若の智慧は、正しい呼吸にあります。寿命がどんどん延びていますが、健康寿命が延びてこそのいのちです。つまり正しい呼吸あっての心臓です。
私たちは考えごとをしているとき、概ね身体はこわばり、呼吸も浅くなっています。つまり自律神経を意味なく酷使しています。本来、呼吸が浅くなり身体が強張るのは戦闘モードに入ったときで、比較的短時間で解放されるようにするために態勢です。注目するべきはそれでも寿命が延びている点です。
▼「八正道」について詳しく
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