自由で豊かなライフシフトのメソッドの続きです。
自由で豊かなライフシフトは、縁があって生起します。ライフシフトの縁はスキルです。
しかしスキルがあっても生起するとは限りません。
ブッダは、「なにごとも価値観が大事である」と「縁起」で説かれたました。
なにごとも、縁があって生起するが、同じ縁であっても、結果は同じでないと説かれました。
つまり「なにごともやり方(道)がある」と説かれたのです。
自分の価値観から飛び出すことも大切なのです。
最良のライフスタイルを習慣にして、そこから飛び出すニュートラルで、フレキシブルなスタイルが大切なのです。やり方はひとつではないのです。
縁起は、死に急ぐ子どもたちに届けたい真理であり、価値観を変えられない大人にも考えてもらいたい真理です。
『西遊記』は、三蔵法師がガンダーラに経典を授かりにいく往復3万キロの道中記。お伴の従者、沙悟浄・孫悟空・猪八戒の3匹は、すなわち貪・瞋・癡(とん・じん・ち)なる煩悩の三毒なんですね。
もともとは^三蔵法師に危害を与える3匹でしたが、三蔵法師が手なずけてお伴にしたのです。
現実には玄奘三蔵法師の一人旅でしたが、心には三毒がいたというお話です。毒も扱いようで味方になるという貴いお話なんですね。
私も三毒を手なずけようと格闘しながら、見えない経典を授かる旅を続けています。
「自分の考え」という自動思考
国葬を巡って意見が分裂したままで見聞していると気分が悪くなるのは、賛否に別れた個人のせいではない。「国葬差し止めは審理すら必要無いとの判断で却下内閣による開催決定などは、(行政訴訟の前提となる)行政処分だとは認められない」として、訴えを却下。中身の審理にまでは踏み込まなかった事実。さらに憲法学者の意見を無視して、感情的な報道を続けて煽るメディアへの苛立ちだ。メディアの国際的感覚からズレた極めて内向きな前近代的な異次元世界が気持ち悪い。自動思考で反応する感情的に煽られた意見と信ぴょう性のない『世論』にうんざりだからです。
25万人が弔問に訪れた一方で、抗議者は500人程(警察調べ)メディアでは世論は真っ二つで、日本人の6割が国葬反対と発表していたが、全く信憑性ない。
献花に訪れたヒトに若者が多かったが、テレビは負けじとばかりに会社帰りの若者がデモに参加していると報道するが、嘘なのかして続かない。メディアの報道は商売だから勝手にやればいい。本来国民のモラルアップを育むべき国会議員が、悼むどころか、故人の顔を傷つける。ヒトが生きている活動はすべて「いのち」を守るための活動ではないのか。その根本を傷つける行為は命に対する身体感覚が極めて乏しいということだ。こういう連中に国会議員の資格はないと思う。
問題はこういうヒトがリーダーシップを執り法律を作る国で、明日を担うヒトが誕生するのかという疑問と心配だ。
これが普通だとしたら、会社で上司から注意をされたとしたら、「私だって頑張っています」と泣き顔で自己主張されたら上司は困惑して「いや、問題はそういうことではないのです」と弱ってしまいます。プラトンの<洞窟の比喩>の再現です。誰だって四苦八苦の現実を生きていて理不尽に耐え忍んでいます。
イライラ、ムカムカの数珠繋ぎの呪文になり、早速スタバに集まって上司の話で盛り上がり共感は女性の特長よ!と三毒解放に暴走、「ああ、よくしゃべったわね、何時間たった?」と溜飲を下げるでしょう。実態はますます三毒に沼る。出来事に反応して自動思考で考え感情的に行動をして、自動思考で強化する。まるでホラー映画を見ているような3時間でした。
なるようになる
しかし、ブッダは<諸行無常>放っておけば感情は流れていくと相手にしないで背景には「なるようになる」思想があります。
「なるようになる」とは「どんなことも、どんなときにも、方法がある」ということです。
必要なときに、必要なやり方が自然に湧いてきます。使う言葉を状況に合わせて変えればいいのです。考えを広げれば方法は見つかるのです。これをしないのが地盤沈下のもっとも大きな理由ではないでしょうか。
いつも「反対」が口癖になっているヒトは、いつでも論破できそうな主張を繰り返すばかりで、論破されないように死語を使って反対しか言いません。彼らは昔は頭も良かったのかもしれませんが、「自分の考え」に振り回されて自動思考によって思考停止したかのようです。
反対が口癖になり壊れた録音機のように、反対しか言葉が出ないのは悪いクセでしかありません。
たとえば「国葬」を取り上げるならどのような功罪があったのかを客観的に分析するのが本質です。世論が分裂していると煽って何の意味があるのでしょう。
賛成だ、反対だと言ってもなにが賛成で、なにが反対なのか、主張はさまざまで、たくさんありすぎて議論にもならないのです。新型コロナウィルスで煽り続けたのと同じ手法です。広げるだけ広げてわからなくする。解決するべきテーマを見えなくして引っ張って視聴率をあげる。
最近は感情をコントロールできない、しないヒトが増えました。その背景には感情を解放することに注目するメディアの報道と、受けを狙って同調する国会議員や知識人とやらが増えたことがあります。
感情の解放=自分の考え方に執着して、依存している人を『世論』に仕立てあげて問題の本質には迫ろうとしないメディアのやり方こそ依存を煽る貪・瞋・癡(とん・じん・ち)三毒の巣窟が隠れている場所が「無明の闇路(むみょうのやみじ)」です。
本来、感情をコントロールする技術は豊かに暮らす技術と連動しているものです。現代人の解放癖は自らを精神の貧困に追い込んでいることに注意が必要です。
こういう見方をするのは「認知の歪み」かも知れませんが、そうは思いません。
無明で生まれた自分を信じられるように「自灯明・法灯明」で明るくして闇路を脱するからです。自信は自分を明るくすることから生まれます。100%の力でトライ&エラーの実践です。
認知の歪みは矛盾で発見できます。発見する力は繰り返しの自問自答で養われます。
残念ながら99%のトライ&エラーでは発見できません。正しいゴールに向かえばそれが気にならなくなるのが「快」なのです。人生のよろこびはプロセスにあることがわかります。
なるようにならない
ブッダは縁起について、つまり原因と結果について、心と身体の両面で、<無明>からはじまる<十二縁起>にまとめました。
私たちの苦しみの原因は、もともと愚痴にはじまる執着にあるというわけですが、これをお釈迦様は<十二縁起>という教えのなかで、人間的苦悩の根本である老死の原因は<無明>にある、と説いたのです。<無明>とは、真理や真実に明るくないという意味で、人生は夢であるという事実に無知であることであり、それが生死の苦しみの根本的原意となるもの。つまり愚痴とは、この無明の別名なのですね。
なるようにならない「無明の闇路(むみょうのやみじ)」について江戸中期の名僧、白隠禅師はその書「坐禅和讃」に次のような句を遺されました
現代語に置き換えると「迷いの六道(天・修羅・餓鬼・地獄・畜生・人)で輪廻(りんね)を繰り返して苦しむのも、もともと自分の愚痴(三毒/貪・瞋・痴)から始まった闇路なのだ。いつまでもそんな暗い道を歩き続けていて、どうして生死の苦しみから逃れることができようか」となります。「六趣輪廻の因縁は、己が愚痴の闇路なり。闇路に闇路を踏みそえて」という句に続いて、「いつか生死を離るべき」という句があるのは、無明である故に「生死」を繰り返し、そのために、いつまでたっても苦しみから脱出することができないのだ、ということです。慈悲深い白隠禅師は、「どのような迷い人も、ブッダ(悟った人)と少しも違わないものを持っているのだ」という事実に、まるで気づこうとしない人々のことを哀れみ、このような文章を遺されたのです。
「これがあれば、あれがある。これが生ずれば、あれも生ずる。これがなければ、あれもない。これがなくなれば、あれもなくなる。」
ほとんどの人が果てしない悩み尽きない暮らしをしているが、不安や迷いの気持ちがあるところ、そこには必ず「原因」があるのだから、原因を知り、それを取りのぞけば、不安や迷いはなくなると単純明快な答えを示されたのです。
原因の正体は執着(三毒/貪・瞋・痴)だと一刀両断に切って捨てたのです。
貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)とは、ものごとに的確な判断が下せずに,迷い惑う愚痴の3つで,人を毒するので三毒,三不善根などとも呼ばれています。
- 貪・・・・自分の好むものをむさぼり求める貪欲,
- 瞋・・・・自分の嫌いなものを憎み嫌悪する瞋恚(しんい)
- 痴・・・・ものごとに的確な判断が下せずに,迷い惑う愚痴
私たち凡人は誰でも、このつまらない自分が、もともと仏であるなどとは、とても思えませんし、そのような夢みたいなことを考えたこともありません。人間というものは、誰でもそのように、自分が妄想した自己否定感に支配されて、自分のような人間は駄目だと思い込んでいるものですね。
ところが禅に縁をもった人の場合は、そういう方向とはまるで反対の道を歩くのです。
そして愚かな自分がそのまま仏であったことを、坐禅を通してしみじみと自覚するのです。
仏陀の原語 buddha(ブッダ)は、「覚さとれるもの」という意味です。つまり、苦しみの世間をありのままに見抜いて覚悟を決めることが「悟り」であり、またそのように事実を事実のままに会得することができれば、それでもう「仏」なのです。
とはいえ、いくら悟った人でも、仏さんのように苦しみが無くなってしまったというわけではありません。禅でいう悟りとは、苦から逃げずに、覚悟を決めて「人間の苦悩にはっきりと眼を開くこと」なのです。
覚悟を決めず「無明の闇路」をうろうろしている限り、能力があっても、ただバタバタしているだけで、ゴールは遠いままなのです。
「なるようにならない」から「なるようになる」へ
難問解決の手順
正しい目的と正しいやり方は、ブッダが説くような解決の手順が実践するメソッドです。
解決するよりは、怒っている方が楽なのです。
怒るのには理由があるはずと他者を欺きやすく、自分を正当化しやすいので、怒りながら吸う甘い蜜は、麻薬のような毒なのです。子どもが使う<ラケット>の手法によく似ています。 甘い毒で、一旦快楽の罠に堕ちると万能感のしっぺ返しで、自分が依存から抜けられなくなります。
ライバルであるSNSであろうがなんであろうが、関心を惹く道具にしてしまいます。
その手先になって自動思考の依存者になってさえくれればOKなのです。
依存者に仕立て上げられた人は、自動思考のロボットにさせられて「なにごともやり方(道)がある」とは思えなくなります。
これが映画『マトリックス』がSF映画として、ヴィジュアル化したプラトンが『国家』という本の第7巻に書いた「洞窟の比喩」です。
プラトンは紀元前に警鐘を鳴らしていたのです。
▼マトリクッスについてはこちら
正しいやり方
ブッダは、苦しみだらけの<現実>に対する方法を提唱しました。
妄想に反応せず、一時凌ぎの「快」に委ねて「不快」の大海に身を沈めるようなことをせずに、真の快感を得ようという提案です。それが仏教の教えです。
<洞窟の比喩>では壁を見ている囚人(自分)が見る揺れる影(妄想)を操作している人物(もうひとりの自分)がいるとプラトンは説明しました。
ブッダは妄想を作り出しているのは自分自身だ丁寧に説明し、避けがたい苦(四諦)があることも認めたうえで、真の自分を生きて快感を味わえるやり方(方法)を具体的に提案したのです。それが<八正道>の実践です。
②つらさには理由がある(集諦)・・・苦の原因という真理
③それらは解決できる(滅諦)・・・苦の滅という真理
④具体的な手順がある(道諦)・・・苦の滅を実現する道という真理(八正道の実践)
ブッダが精魂込めた具体的な手順は、成果をあげるだでなく、重要なのは、麻薬のような対策ではなく本質を改善するものでした。
- メンタルを強くする
- 相手への共感能力が高まる
- 集中力を高めることができる
- ストレスに多大な効果がある
- 創造力に多大な効果がある
- 主体性、自主性、EQ、豊かな人間性を育む
- 幸福感を高めてくれる
といったおまけがついてくるのは、正しい目的をゴールにした<正しいやり方>だからです。
ブッダは、避けようのない”苦痛”は、減らすことができるとして「四諦」を打ち立てました。
そして、根本的に減らすことを目的に、苦の乗り越え方として、自己マスタリー(習熟度)を高める正しいやり方(八正道)を説いたのです。つまり<システム思考>です。
正しいやり方(八正道)は、①正見(正しい見解) ②正思惟(正しい決意) ③正語(正しい言葉) ④正業(正しい行為) ⑤正命 (正しい生活) ⑥正精進(正しい努力) ⑦正念(正しい思念) ⑧正定(正しい瞑想)の修行の8部門で構成されています。
すべてに”正”という文字が含まれいるのは、「真理に合った。調和のとれた。」という意味で、自分本位ではなく、大きな立場から物事を判断しなさいというシステム思考になっていて、中道(ニュートラル)がキーワードになっています。<システム思考>はニュートラルだからできるのです。
- 正見・・・自己中心的な見方ではなく、中道の見方をすること。
- 正思・・・真理に照らし合わせ物事を考えること
- 正語・・・真理にあった言葉を使うこと。
- 正行・・・戒めにかなった行いをすること。
- 正命・・・正しい職業で得たお金で生活すること
- 正精進・・・自分に与えられた使命や目的に対して正しく励むこと。
- 正念・・・真理に向いた正しい心を持つこと。
- 正定・・・真理に照らし、正しい状態で心を定めること。
たとえば、そのひとつが、当協会が提唱する<般若の呼吸>です。
ブッダは6年間に及ぶ煩悩を断ち切る苦行をしましたが、生死の境を行き来するほどの厳しい苦行にもかかわらず、悟りを得られずにいました。
その修業は毎日呼吸をしばらく止め、太陽の直射日光を浴び、わずかな水、豆類で毎日を過ごすもので骨と皮のような身体は疲弊の極限にありました。
ある日、村に住むスジャータという娘が樹下に坐していたブッダを見て樹神と思い、ミルク粥(発酵食品の一種で、ヨーグルトのようなもの)を供え、呼吸法を伝えたといいます。(乳粥供養)これを食し、呼吸を改めたところ、心身ともに回復。過度の快楽が不適切であるのと同様に、極端な苦行も不適切であると悟って苦行をやめます(苦行放棄)。
ブッダは近隣の森の大きな菩提樹の下で瞑想し、遂に悟りを得ます。
つまり仏法は、呼吸から生まれたのです。
また、江戸時代中期の日本に、臨済宗の中興の祖として知られる禅僧、白隠慧鶴(はくいんえかく)という方がいます。
この白隠禅師が提唱した健康法に、「軟酥(なんそ)の法」があります。これは、白隠が禅の修行をし過ぎてうつ病になり、神経を病み命の危機が迫ったときに、京都北白川の山中の岩窟に住んでいた白幽子(はくゆうし)仙人から伝授されたものです。
<軟酥(なんそ)の法>とは、呼吸と自己暗示によって潜在意識を変えさせる一種の精神療法です。
自分の頭の上に鴨の卵ほどの軟酥という発酵食品が溶けだして、自分の五体の隅々まで潤し流れていくイメージをするという観相法です。バターがトロトロと溶け出し、頭から流れてくる気持ち良さは、極限まで疲弊した心身を安らかな瞑想状態したことでしょう。
ブッダや白隠の悟りからも、人間の叡智を得るためには、発酵食品と呼吸法が細胞に重要な役割を果たしたことがわかります。
共通しているのは、なにより重要なのは、正しいやり方を実践することです。
もう一度いいます。仏法は、呼吸から生まれ、呼吸によってヒトと同じように継承されてきたのです。
正しいやり方を実践するには、は中道(ニュートラル)のポジションに自然体で立つ必要があります。つまり<放下著(ほうげじゃく)>した状態です。
「放下(ほうげ)」とは、投げ捨てる、放り出す、捨て切るという意味です。「著(じゃく)」は命令の助辞(じょじ)で、放下を強調する言葉です。<放下著>、すなわち『煩悩、妄想はいうに及ばず、仏や悟りまでも捨て去れ!すべての執着を捨て去れ!すべてを放下せよ!』ということです。禅の臨済宗に「仏に逢うては仏を殺せ 父母に逢うては父母を殺せ」という名言があります。殺人のススメではなく、「過去に学んできたこと、信じてきたことを、全て手離した先にこそ、本当の未来がある」という意味を強調した言葉です。
<放下著>も同じで、何にも囚われない中道になってこそ目が開かれるのです。
正しいやり方をニュートラルで進む
<正思>の教え、つまり真理に照らし合わせ物事を考えてみてはどうでしょう。
葬儀をしている最中に「国葬反対」とデモをして要人警護にあたっている警官と小競り合いするのが真理でしょうか。
もしあなたのご家族の葬儀中に街宣車が来て大音量でアナウンスされて平気でしょうか。
<認知の歪み>は仕方のないもので、正しいのでしょうか。
八正道① 正見(しょうけん)
<正見>とは、固定概念や偏りがなく、正しいものの見方をすること。
つまり<正見>とは、かって傷つき身につけた<認知の歪み>を改めることです。
そこには認知を歪めるに至った動機があります。
もし腰痛で下肢に麻痺が残ったとしたら、腰痛を根本的に治さないと下肢の麻痺は除去できません。つまり認知を歪めた動機に変化を与えます。で、あるなら判断した順番を変えることで動機は変えられます。
物事をありのまま見るというのは、とても難しく、特に人間関係や愛着のあるものに対してなど、憎しみの感情や怒りの感情、愛情を持っていると物事をありのままに見ることが難しくなり、それが苦しみを生む原因になります。
苦しみから解放されるために、この世の真理(「一切皆苦」「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」)を知り、物事をありのままに見る眼<正見>を養いましょう。
八正道② 正思(しょうし)
<正思(正思惟)>とは正しい考え方を持つことです。
正しい考え方というのは、偏らない考え方を持つということです。
仏教の説く物事の正しい見方とは、自分の都合で良い悪いを決めるような自己中心的な考え方を捨て、真理に照らし合わせて考えることをいいます、
- 自分が「し合わせ」になるためにという自己中心的な考えから生まれる欲望=貪欲(どんよく)
- 憎しみ、怒りに任せた考え方=瞋恚(しんに)
- 物事の道理に無知であること=愚癡(ぐち)
以上は6大煩悩の三毒と呼ばれています。
誰しも幸福に生きてたいと考えますが、自分の幸福のために自己中心的な考え方を戒めています。三毒を自ら追放します。
八正道③ 正語(しょうご)
<正語>とは正しい言葉遣いをすることです。
- 妄語:相手を騙すためや自分を偽るための嘘
- 両舌:自分本位の二枚舌
- 悪口:相手を悪く言い傷つけるような言葉
- 綺語:出まかせ、事実とは違い言葉で飾り立てること
嘘や悪口、陰口など相手を傷つける言葉は論外ですが、正しいことを伝えるだけであっても相手を傷つけることもあります。
相手の心を慮り、場合に即して、正しい伝え方をすることも正語の大事なポイントです。酒に酔った勢い、怒りに任せて、ついて出てしまったと弁解する人は後を絶ちません。
必ず「結果=原因」があるので、原因となることを断つトレーニングを実践します。ほとんどの場合、自己否定を背景にした六大煩悩が働いています。
八正道④ 正業(しょうごう)
<正業>とは正しい行いをすることです。
殺生(生き物を殺すこと)や盗みをしてはいけない、みだらな行為をしないなど、人としてしてはいけないことはしないと戒めています。
八正道⑤ 正命(しょうみょう)
<正命>とは正しい生活を送ることを意味します。
「命」とはサンスクリット語の「アージーヴァ」の訳語です。
「ジーヴァ」には「寿命」とか「生命力」という意味があります。
つまり「正命」とは、与えられた命を正しく使うことであって、たった一度の人生を大切に過ごすことができます。
正しい生活態度を指し、規則正しい生活を心がけ、人をだましたりして生計を立てるなどはしてはいけないということです。
八正道⑥ 正精進(しょうしょうじん)
<正精進>とは正しい道に向かって正しい努力をすることを意味します。
今まで行っていた間違ったことは止め、正しいことを行って生きていく努力をしましょうということです。
八正道⑦ 正念(しょうねん)
<正念>とは正しい意思・信念を持つこと、注意深く集中することです。
この世で、変えたくても変えられない真理(「一切皆苦」「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」)を知り、その真理に対して正しい信念を持って生きることです。
パーリ語でサティといい、特定の物事を心に(常に)留めておくことです。
日本語では念(ねん)、気づき、英語でマインドフルネス(mindfulness)と表現するのは「正念」のことです。
正念は、三十七道品のなかの四念住(しねんじゅう)などにおける念とあるように、基本概念の一つ。
マインドフルネス瞑想は、上座部仏教ではヴィパッサナー瞑想を基礎にしています。
対象に執着あるいは嫌悪などの価値判断を加えることなく、ニュートラルな立場で「いまここ」に注意を払い、深く生きることを意味します。
瞑想の基礎的な技術の一つであり、念を深める(注意深く集中する)と心が固定され、何事にも惑わされない「正定(じょう)」の状態に至ると考えます。
八正道⑧ 正定(しょうじょう)
正定とは、四如意足(欲如意足、精進如意足、心如意足、観如意足)のことです。
四如意足(欲如意足、精進如意足、心如意足、観如意足)は、四神足(しじんそく)ともいいます。
四神足(しじんそく)
- 欲神足 (chanda-iddhipāda) ・・・・すぐれた瞑想を得ようと願うこと
- 勤神足 (viriya-iddhipāda) ・・・・・すぐれた瞑想を得ようと努力すること
- 心神足 (citta-iddhipāda) ・・・・・心をおさめて、すぐれた瞑想を得ようとすること
- 観神足 (vīmaṃsā-iddhipāda) ・・・ 知慧をもって思惟観察して、優れた瞑想を得ること
つまり<正定>とは、正見、正念(マインドフルネス瞑想、座禅)を行うことを通じてによって、より良い自分に変えることができることを言います。
- メンタルを強くする
- 相手への共感能力が高まる
- 集中力を高めることができる
- ストレスに多大な効果がある
- 創造力に多大な効果がある
- 主体性・自主性、EQ、豊かな人間性を育む
- 幸福感を高めてくれる
上記のような効果がハーバード大学などの名だたる大学の研究によって観察され、グーグル社をはじめ有名なIT企業に導入されています。
ちなみに、正定において、このヴィパッサナー瞑想は上記出見たような有名な大学での研究でも効果が最も高いと立証されています。(正直実師)
まとめ
生きとし生けるものには、例外なく生まれながらに<仏性>が授けられているといます。
自分の中にそのような素晴らしいものが具わっていることを知らぬまま、自分以外のところに「真実なものがある」と思って求め歩いているかぎり、いつまでたっても安心も、「し合わせ」も、得ることはできません。
自分の中にある無限の可能性に対する信頼がなければ、自分と向き合う機会もなく、何の意味もないことになってしまいます。ただ生きてるだけになってしまいます。
無限の可能性に気づくとは、実践して悟る「命がけの修行には意味がないと悟る」ことであり、遠回りしても100%の力で、すなわち我を忘れて「いま、ここ、この瞬間に」没頭することです。週4日働くとは、それだけ没頭するということです。残りの3日は、やはり没頭することです。没頭の仕方に自分らしさがにじみ出ます。
おまけ
古い話なので曖昧ですが紀元前5世紀〜7世紀頃。
実在の人物ですが、尊称、お釈迦様(ブッダ)は北インド地方シャーキヤ国の王子として誕生します。
カピラヴァストゥ城中で育ちましたが、ある日、外出したところ、道端で苦しんでいるヒトに遭遇します。4度の外出で「四苦」を見ることになります。(四門出遊)
人生の無常や苦を痛感し、人生の真実を追求しようと志して29歳で出家を決意、父である王は身を案じて5人の従者(最初の弟子)をつけます。
お釈迦様は仏教の開祖として有名ですが、宗教を立ち上げるつもりではなく、体裁も整えておらず。すべて口伝です。死後に教えを伝えたいと文字に興され経典になっていきます。そのため宗派によって内容が異なります。現在日本でもっとも多く使用されている経典が玄奘訳の262文字にまとめられた般若心経です。およそ1500年前、菩提達磨(ぼだいだるま)によってインドから中国へ伝えられたとされる禅宗は、我が国には鎌倉時代にもたらされました。武家のみならず、天皇家や公家、さらには民衆にまで広く流布し、日本の社会と文化に大きな影響を与えました。最近では欧米の人々にも「ZEN」の思想が広がっています。
特定の経典を持たない禅宗では、その教えは言葉や文字によらず、師の心から弟子の心へと、以心伝心で受け継がれてきました。その修業は坐禅を中心に置かれますが、日常生活の行いやふるまいすべてが修行の一環として重視され、禅問答を通じた師と弟子の心の交流を経て、悟りの境地へと至ります。
「駿河には、過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」
これは日本臨済宗中興の祖といわれた江戸中期の禅僧・白隠禅師を称えた俗謡です。白隠禅師は「隻手の音声」など、独自の公案(いわゆる禅問答)を創案、高僧を育て上げ、明治17年には正宗国師と諡号(しごう)されました。
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