前回7枚目の「忘牛存人(ぼうぎゅうぞんじん/ぼうぎゅうそんにん)」では牛が消えましたが、「人牛倶忘」では、うたた寝をしていた牧人も突然いなくなりました。真っ白い丸の一円だけになりました。
あるのは、ただ空白だけ。牧人になにが起こったのでしょうか。
「十牛図」人牛倶忘と空一円相は、次のような方におすすめです、
- 頑張っているので望む結果が出せないでいる方
- 思うようにいかず疲れたと感じている方
- これから何かを始めようとしている方
- 変化を恐れている方
「人牛倶忘」の問いは、空白とはなにかです。
一緒に答えを探りましょう。
人牛倶忘(じんぎゅうぐぼう/にんぎゅうぐぼう)
「空一円相」の図は、よく見かけるので、有名ですよね。
「人牛倶忘」では、仏教が説く、おなじみの「空」という究極の真理に到達しました。
牛(真の自己)を牛小屋に入れて、物語は、終わったように思いますが、ここで「空一円相」になるとは、重要な意味がありそうです。
空一円相
自分と自分以外のすべて、宇宙と一体であるという「一人一宇宙」の意識に目覚めて、空一円相になりきることです。
空は一切は因縁によって生じたものだから実体と称すべきものがなく、「あるようでないようであるといえばあり、ないといえばない」
円相は、始まりも終わりもなく角に引っ掛かる事もない円の流れ続ける動きを描いていて、捉われのない心、執着から解放された心を表わしています。
偽りの自分も、真の自分も、新しい自分もない、それらはどこをどういじくってっも、実体としてあるものではなく、すべては自身が心の鏡に投影したものにすぎない。
もし、「人牛倶忘」で、まどろんでいた牧人が「おれは真の自己になりきった」と自慢気に語れば、その途端に牛を見失い、いちばん最初の絵である「尋牛」の図に戻ってしまいます。
なぜ、「空(くう)」なのか。「空」を整理する
十牛図のなかでも重要な「人牛倶忘(じんぎゅうぐぼう)」を探求する前に、解りにくいと言われている「空(くう)の教え」を整理します。
私たちは、いま、ここ、この瞬間しか、生きることはできません。
そうすることが未来を創造し、すでに過ぎ去った過去さえも再創造できるのです。
つまり未来を案じ、過去を悔いても。なにひとつ変えることはできませんが、いま、ここ、この瞬間には、未来も過去も変える力さえあるのです。
いま、ここ、この瞬間を最大限生きる方法は、対象に「なりきる」ことです。
対象とは、自分がいま取り組んでいることです。仕事、勉強、運動、掃除、洗濯、食事、娯楽・・・いろいろありますね、そのことにたりきることです。
それには、自分自身がいっぱい、いっぱいの状態では、なににもなりきれないので、いまこの瞬間を生きることはできず、時間の僕(しもべ)になるだけで、ただ生きているだけの状態になります。
水がいっぱいに入ったコップがあるとします。
このコップに、別の飲み物入れたくても入れられないですね。
水をほかの容器に移すか、飲むかして、コップの中を空っぽにすることでしょう。
椅子でも同じです。自分が居座っていては、他の誰かを座らせてあげたいと思っても、自分が席を開けないと座ることができません。
いま、ここ、この瞬間を生きるには、こだわりや価値観を手離さないと、いま、ここ、この瞬間を生きたいと思っても無理なのです。
しかし、一方で、こだわりや価値観は創造の源です。
どこかに移そうとしても他者に預かってもらうわけにもいきません。
だから、あるようであり、ないようであり、あるといえばあるし、ないといえばないとしか言えないのです。
でも心配はいりません。言葉で整理しようとするから混乱するのです。
実際は、空(くう)に置けるのです。なぜなら実体のないものだからです。
これが「私の価値観です」と皿に乗せて差し出せるものではありません。
英語を覚えるのに、日本語のことだけを考えていては英語が入ってこないのと同じです。
過去や未来にも同じことがいえます。
過去の反省から、いま、ここ、この瞬間を最高に生きることで、思い描いた未来が創造できたなら、過去の意味が変わります。
つまり、なりきることで、いつでも空はゼロなのです。
なりきる、空であることで、私たちは時間の僕(しもべ)から解放されるのです。
自己をわするるといふは
仏道をならふというふは、自己をならふなり。
自己をならふといふは、自己をわするるなり。
自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。
「仏道をならう」ことは、「自己を究明する」ことです。
ここでいう「自己」は真の自分です。
そのためには、「自己を忘れれ」ばいい。
この「自己」とは、自意識的自我です。
「自己を忘れる」ためには、「万法に証せられれ」ばいい。
「万法に証せられる」ためには、「自己の身心及び他己の身心を脱落させれれ」ばいい、ということになります。
「身心脱落」の「脱」は解脱の意味で、すべての束縛から解放された空の状態です。
「落」は酒落(しゃらく)の意味で、物事に頓着せず、さっぱり、わだかまりの無いことです。従って、「身心脱落」とは、身も心も一切の束縛から解き放たれた、わだかまりのない空の境地のことです。
あらゆる存在はない
仏教では「あらゆる存在(自分・事物・自然・宇宙)は存在しない」と説きます。
釈尊は、「神が創り給うた」とするキリストの教えすら否定したのです。
空とは、言葉で表現できない摩訶不思議なものを意味します。
その真意は、「空になれ」「空を悟れ」という釈尊の励ましだと受け取れば(少なくとも私の場合)合点がいきます。
仏道では言葉、知識ではなく、実践を尊びます。
なるのではなく、すでにある
マズローの欲求五段階説を引き合いに出すまでもなく、私たちは、なんごとも努力の末に上位の欲求が達成できると考えます。このような考えに束縛されると上位にたどり着けずに我慢します。このような発想はやめましょう。いきなり最高位の願望が達成できてはいけなのでしょうか?「階段があるようでもあり、ないようでもある」と解き放ってみませんか?
悪いことばかりではない、苦しい時、辛い時にも、良いことがあるはずだ。
良いことに気づくことができれば、苦しいことも、辛いことも「苦痛」が消えていきます。つまり苦痛は幻だったと知ることができます。
悩みは空っぽだったと理解できます。足るを知ることで不安が吹き飛びます。
空っぽ、足るを知ることだけでは、知識です。
「人牛倶忘」没頭することで実践に変わります。
辛い時に実践できるのは、努力でなるからではなく、すでになっているからです。
すでになっていることに気づくために、「空一円相」を悟るのです。大切なのは知ることではなく実践。つまり智慧として知って価値あるのです、
まとめ
私はおにぎり禅を毎日しています。
「ごはんがおいしい」と感じるはじまりは、数粒の米から始まり、舌、神経、脳、60兆のの細胞が縁(ネットワーク)とつながっています。
さらにお米には、お米になるために、農家の方々、水、太陽、大地、地球の縁があります。
お米がごはんになるには、火、ごはんに変わる場所、大地、地球、星、140億光年の宇宙の果てという全宇宙との縁でつながっています。
すごいですね、ごはん一粒が、一粒を食べる自分が、こんなにも膨大な縁でつながっているのです。
- 頑張っているので望む結果が出せないでいる方
- 思うようにいかず疲れたと感じている方
- これから何かを始めようとしている方
- 変化を恐れている方
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