マネジメントとは管理ではなく、世話することです。マネジメントする対象はモノから時間、睡眠、呼吸まで様々で、臨済宗の言葉にある『随処作主 立処皆真(随処に主と作れば、立処皆な真なり)』の随所が該当します。この『随処作主 立処皆真(ずいしょにしゅとなれば りっしょみなしんなり)』は誤解されやすい言葉のひとつです。

本来の解釈は「立処皆な真なり」とあるように、「主体になりきれば正しいことをするだろう」ということです。
たとえば店を利用して飲食すれば店のオーナーならチリひとつ床に捨てないだろうということです。
自分になりきるために呼吸をマネジメント(世話する)します。
ヒトは呼吸を止めれば死にます。ブッダは苦を解決する方法を宗教家や、思想家に学びましが、解決を見出せす、自分で解くしかないと、絶食と絶息を繰り返し死の淵まで行く苦行を6年間続けました。それでも解けず、生命の危機が迫ったとき、村娘スジャータに献身的な慈悲のマネジメントからアートする呼吸を学んだのです。自分に慈悲を、ヒトに慈悲を、さらに自分を楽にすることがヒトを楽にする、抜苦与楽に世話する歓びを体感しました。マネジメントの極意です。
呼吸の真の大切さを理解して、呼吸を「本能」「無知」に、まかせるのではなく、呼吸になりきることでひとすじの道を開いたのです。6年間の苦行で得られなかった悟りをわずか49日間で成し遂げたのです。ジョン・レノンが<イマジン>のヒントにした白隠禅師も同じいのちの危機からくアートな呼吸をマネジメントしました。

あなたは呼吸を世話していますか。<般若の呼吸>とは自分の呼吸をアートに世話する呼吸法です。
マネジメントを極めたらアートになる
般若の呼吸は「放下著(ほうげじゃく)」する呼吸。放下著とは、「放下」は手放す、投げ捨てるという意味で、「著」は助辞です。 「放下著」は「すべてを投げ捨ててしまえ」ほどの意味です。すなわち煩悩妄想はいうに及ばず、仏や悟りまでも捨て去る、すべての執着を捨て去れ、すべてを放下せよ!というわけですが、<般若の呼吸>はそれを呼吸でやってしまいます。
ヒトにはマネジメントする能力が備わっています。<仏性>があります。犬や猫には仏性の範囲が狭いのに対してヒトが発揮できる範囲は極めて広く、たとえば一冊のノートをヒトに見立てて扱うことができます。茶の湯を愉しめるのは、その極みでしょう。

極める「1番目の支え」

極める「2番目の支え」

自ら立つ気力、苦難を乗り越え歩けるようになり、低くても山の頂きに立てる忍耐力が必要です。
これがなければ、いまは自立できなくても、なにより自立に向かう歩みはできません。

「多様性」と言葉の上では、人権尊重が進化したように見えますが、言葉や仕組みに隠れてしまう恐怖があります。「叱咤激励」も自分で立てないヒトには無茶なことです。


互いの慈悲が三つ目の支えで、三つ目が機能して2つ目の自己マスタリーが具現化できます。
剣豪として大成した宮本武蔵には沢庵和尚がつかず離れずで伴走してくれました。

極める「3番目の支え」


「我が社ではきめ細かなトレーニング制度が用意してあるので安心してマネジャーになれるように支援します」といってもいざとなると「それは自分でやってもらわないと」と切り捨てるなら、きめ細かなトレーニング制度にはなりません。上昇欲・承認欲が執着でしかなく切り捨ての風が吹いているなら求めすぎであって正しい方向に向かっていないのです。

マネジメントとは世話すること
マネジメントの対象がなんであれ、マネジメントの大きな柱は慈悲です。

何不自由なく暮らしてたシッダッタ王子でしたが、すべてを捨てて修行に励んだものの悟りを得ることはできませんでした。
そしてお釈迦様は、頑張る修行ではなく、スジャータの慈悲と世話で間違いに気づき悟りを得られたと言っても過言ではありません。
苦の解決に宗教は役にたたない

死の淵で瞑想するシッダッタ王子を発見、スジャータが施したミルク粥を食べたことにより、共にいままで修行してきた5人の従者(修行仲間)は、シッダッタ王子がついに修行をあきらめて、堕落してしまったと思い、釈迦のもとを離れてしまいます。
一方、ミルク粥を食べて体力が回復したシッダッタ王子は、気持ちも新たにブッダガヤにある菩提樹の下で瞑想を始めました。
菩提樹の下の瞑想は49日間続き、35歳になっていたシッダッタ王子は、ついに誰も果たし得なかったこの世の真理を悟り、人類初の悟りを開いた人という意味の仏陀(ブッダ)となります。
さて、ここに私たちが生きる智慧が凝縮されています。
49日間の瞑想は6年愛讐の苦行と違い、楽しみながら、この世の真理と因果関係を考え続けたことです。
いまに生きる智慧をルーティンワークにする
悟りを開いて仏陀(ブッダ)となったお釈迦さま(シッダッタ王子)は、自分のもとを離れていった5人の修行仲間のところへ行き、悟ったことを次のように説きました。
中道
人間は厳しすぎる道を選ぶと苦しむ。しかし、楽すぎる道を選んでも苦しむことになる。その真ん中の道を選ばなければならない。
諸行無常
この世のすべては移りかわる。人はいづれ死ぬ。昼は夜になる。花は咲きづづけることはできずいずれ枯れる。常に同じで変わらないことはない。変わらないことを求めることで苦しみが発生する。
縁起
物事はそれ自体で存在しているのではなく、他の物との関係があり、その因果(原因と結果)として存在している。
その後
説教を受けた5人はお釈迦様の弟子となり、お釈迦様の入滅(死ぬこと)のあともお釈迦様の教えを口伝によって後世に伝えます。
その教え(原始仏教/初期仏教)をもとに文字や形になり受け継がれます。教えは2500年の時空を超えて、小乗仏教(上座部仏教)と大乗仏教に分裂、さらにそれぞれにお釈迦様の教えをもとに教えの解釈が改訂、追加され開祖による宗派が誕生します。それが今日の仏教です。
しかし、もともとは仏陀の教えであり、仏陀の哲学です。依存するのではなく自立が目的です。
自立するために愉しむ『正しい歩き方』
「地球の歩き方」という旅のガイドブックが人気です。ブッダの本なら「人生の歩き方」というタイトルですね。『地球の歩き方<人生の歩き方(宇宙の歩き方)』というようになりませんか。
悟りを開いたお釈迦様が5人の従者に説教した悟りとは、神様や仏様を信じる宗教ではなく、自分の心にある苦しみをマネジメントする方法でした。エネルギーを使って励む精励でした。
すべてのヒトが優しく慈悲深ければ退屈だと考えるヒトもいるでしょう。しかし、お釈迦様は精励が大切だと説いたのです。精励は頑張りすぎることではありません。慈悲の心を働かせながら励むことです。
世話する気持ちがいかに有効に働くか、因果関係がシステマティックなものだと説いたのです。いまでいうシステム思考です。1対1の見える縁起の関係ではなく、見えない縁が無数にあることを説いたのです。見えない縁をどうすれば知覚できるのか?他者と自分を同じように扱うことです。それが<自利利他>です。<自利利他>は、「自らの精励で得た功績を、自分が受け取るとともに、他のためにも利益をはかる」という意味です。慈悲とは共に感じること、具体的には精励です。行動するから共感力が育ちます。たとえば汚れた鍋でも磨いてピカピカにすると励んだ分だけ大事にするようになります。冒頭でご紹介したように『随処作主 立処皆真』主体になるほどなりきるので大事にして共感力が強くなり、自分と他者はひとつになりやすくなるのです。一方、行動しなければ何も起こりません。
ひとりひとりは密閉された一人一宇宙の住人だけれど、つながって大宇宙になるという真理です。
オープンマインドしなくても共感できて、繋がることはできる<宇宙の歩き方>です。
現代では「哲学」になります。つまりお釈迦様は宗教家ではなく哲学者なのです。
お釈迦様は次のように遺言されています。(自灯明・法灯明)
- ただ誰かから聞いたからといって、それを信じるな。
- 何代も受け継がれたからといって、その伝統を信じるな。
- たくさんの人の間で語られ、噂になったからといって、それを信じるな。
- あなたが所属する宗教の聖典に書かれているからといって、それを信じるな。
- ただ貴方の先生や先輩の権威だからといって、それを信じるな。
- しかし、観察と分析を行なった上で道理に合っていて、すべての者の利益になると貴方がわかったならば、それを信じなさい。
- 法とは自身をマネジメントする(自灯明)ためのルーティンワーク(法灯明)。
『自灯明・法灯明』は、人生の歩き方のプロローグです。
まとめ
縁起は1対1とは限りません。因果関係の「因」は、見えない場合も多く、無数にある場合があります。なので「システム思考」が当たり前のように必要で効果的です。
ひとりひとりは密閉された一人一宇宙の住人だけれど、つながって大宇宙になるという真理は不思議なようですが、慈悲の心で行動するから可能なのです。
オープンマインドしなくても共感できて、繋がることができる<宇宙の歩き方>です。
慈悲は羊のように退屈なものではなくエネルギーを投入して励まなければ実践できないものです。
「宇宙の正しい歩き方」は以下の7つの行程で具体的になって、正しく歩いて、宇宙で遊ぶことができます。
①マインドフルネス(呼吸/睡眠・ルーティンワーク)
②ライフスキル
③ライフスタイル
④ライフデザイン
⑤ライフプラン
⑥ライフシフト
⑦ライフステージ
正しく深いアートな<般若の呼吸>は、すべての基礎です。
1,000mlの換気量が、自然にできるようになるまでは、『随処作主 立処皆真(ずいしょにしゅとなれば りっしょみなしんなり)』睡眠の前後とかトレーニングで身につけるようにします。




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