仏教の出発点は、「一切皆苦(人生は思い通りにならない)」と知ることから始まるといいます。
なぜ苦しみが生まれるのでしょうか。
仏教の教えの大基本は「因果応報」つまり「原因=結果」にあると私たちは考えています。
それはすべてのことに通じるからです。
仏教では、苦しみが生まれる原因を、「諸行無常(すべてはうつり変わるもの )」で、「諸法無我(すべては繋がりの中で変化している)」という真理にあると考えます。
いきなり悲観的なことになりましたが、「一切皆苦」も「諸行無常」も「諸法無我」も、どの苦も自分ではどうにもならないことなのです。
- 「諸行無常(すべてはうつり変わるもの )」
- 「諸法無我(すべては繋がりの中で変化している)」
だからです。
それなのに、どうにかしたい、どうにかしよう、と思うと思えば思うほど「苦」が増えていきます。
つまり自分の手に負えないことをなんとかしたいと思うことが間違いの根本なのです。
「なりきる」ために4つの教え〜一切皆苦・諸行無常・諸法無我・涅槃寂静について説明します。
執着を断ち切るには
自分の手に負えないことをなんとかしたいと願ってしまう・・・それを「執着」として窘めて(たしなめて)います。
すべての存在、あらゆる現象は生じ、そして滅する、私達もその流れのなかにあります。
ですから自分ではどうしようもないことばかりなのです。
仏教ではこの世の中は一切皆苦(すべてのものは苦しみである)といいます。
仏教でいう「苦」とは、「自分の思い通りにならない」ということを意味しています。
ここに仏教のエッセンスが凝縮されています。
一切皆苦を矛盾することなく受容して、一切皆苦と共に生きていけならこの世は楽しい。
その境地に達することを気づきと呼びます。
つまり仏教は哲学であり、拝むものではありません。
気づきのための基本「一切皆苦」「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」
気づきのための基本が「一切皆苦」「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」の4つの教えです。
「諸行無常」を正しく認識し、「何事も自分の思い通りにはならない」ということを受け入れることが大切です。
しかし、そう簡単に割り切れるなら、生きる意欲が湧いてきません。
意欲のない暮らしを奨励しているかの錯覚を持たないとも限りません。山登りひとつにしても意欲がなければできません。
あきらめずに執着するから登れるのです。
そこで解釈が重要になります。
「あきらめる」という意味
「あきらめる」という言葉には「諦める」のほかに「明らめる」と書いて「物事の事情・理由をあきらかにする」という意味もあります。
「人生を諦める」のではなく、仏の教えを正しく認識し「人生を明らめる」 ことにより、自由になることができるのです。
諸行無常
どうして世の中これほどまでに思い通りにならないことばかりなのでしょうか。
それは、すべてのものは移ろいゆく、諸行無常であるがゆえなのです。
すべてのものは生じ、変化し、滅するというのに、私達は目の前のものに執着したり、「自分」にとらわれたりしてしまいがちです。
「諸行無常」を正しく認識し、「何事も自分の思い通りにはならない」というと、「人生をあきらめましょう」といっているようなニュアンスに聞こえますが、決してそうではありません。
「あきらめる」という言葉には「諦める」のほかに「明らめる」と書いて「物事の事情・理由をあきらかにする」という意味もあります。
「人生を諦める」のではなく、仏の教えを正しく認識し「人生を明らめる」 ことにより、自由になることができるのです。
諸法無我
「諸法無我」とは、全てのものは因縁(因果)によって生じたものであって実体性がないという意味です。
現代的に言うなら、すべては繋がりの中で変化していることをいいます。
「実体性がない」は、一切皆空と表現されることもあります。空の状態を指します。なにもないという意味です。
なにかあるように思い込んでいるのは言葉によって「在る」と思い込んだからです。その人の心が作り出したもので、言葉なければ「在ることもない」
私たちは、自分と、あるいは他者とコミュニケーションするとき、言葉で考えたり、見たり聞いたり、していますが、それは必ずしも実体を伝えているわけではありません。
赤といっても私が思う赤と、その人がいう赤は同じではありません。
りんごにしても、星にしても、みんな違います。
なりきればハッピー
明日のスケジュールを考えている人に「お月様が綺麗ですね」と言わなければ、月は出なかったでしょう。
このように、一切は他に依って存在し、それ自身で独立して存在してはいない。
「縁起(えんぎ)」というのはこの事例のように「依他起(えたき)」といい、他の力によって起こるという。
心の中の存在は、全部「依他起性(えたきしよう)」であるといいます。
別々の心の中に―心を「宇宙」と言いかえて、みんなみんな一人一宇宙の中に住んでいるんだということが実感できます。
一人一宇宙の中に住んでいながら繋がっています。
だから言葉で完結するのではなく、そのものになりきってこそ言葉を超えて体得できます。
one―ひとつになりきっていく。
掃除、洗濯、坐禅、あの人、何でもいいからなりきっていくことが大事で、それは考えることではありません。ひたすら行動でなりきる。
坐禅は、体得を体験で学ぶトレーニングです。
人はひとりずつ別の存在です。それぞれに宇宙があります。
涅槃寂静
正しく理解したうえで、世の中を捉えることができれば、あらゆる現象に一喜一憂することなく心が安定した状態になる。
苦しみを受け入れて諦めるのではなく、正しく理解して明らめることで、苦しみから解放される、とお釈迦さまは説かれています。
これが、目指すべき「涅槃寂静(仏になるために仏教が目指す”さとり”)」です。
たとえば「諸行無常」
世の中のあらゆるものは一定ではなく、絶えず変化し続けているという真理です。
世の中の物事は常に変化を繰り返し、同じ状態のものは何一つありません。それにも関らず、私たちはお金や物、地位や名誉、人間関係や自分の肉体に至るまで、様々なことを「変わらない」と思い込み、このままであってほしいと願ったりもします。
それが、「執着」へとつながります。
このような苦しみにとらわれないためには、ものごとは必ず変化するのだということ、全てが無常の存在であることを明らかに(理解する)ことが大切なのです。
まとめ
「一切皆苦(人生は思い通りにならない)」を受け入れて、ともに暮らす。
「何のために」とついつい考えるときってありますよね、それはかなり心がデンジャラスな状態にある証拠です。
夢中でやっているときは、そのことに没頭しているので、いい状態であればあるほど、なりきっています。
心がデンジャラスな状態のときは、「なりきり」から離れています。
危険なサインだと思って、なりきるようにしましょう。
コメント