お粥さんPJ(プロジェクト)は、分かち合いでエンドレスにワンダフルを具現化しますが、その起点は5つのディシプリンのひとつ、自己マスタリーにあります。つまり自己マスタリーが希薄だと4つのディシプリンも思うように機能しなくなります。5つのディシプリンは①自己マスタリー②メンタルモデル③共有ビジョン④チーム学習⑤システム思考の5つで、これらは相互依存の関係にあり、中核にあるのは、「レジリエンス」という概念です。レジリエンスとはしなやかさ、弾力性、回復力などの意味があり、チームとして持続可能なパフォーマンスを実現する要素です。
システム思考とは、解決すべき対象や問題をひとつの「システム」として捉え、さまざまな視点からアプローチすることによって、目に見えない因果関係に気づき、しなやかに本質的に解決することを可能にします。狭義のシステム思考は、システム科学者のピーター・センゲ氏により『学習する組織』で提唱され、現代ではもっとも広く認知されたマネジメント手法になっています。
この手法の必要をもっとも早く気づき現実に取り入れたのがブッダが説いた「仏教」であり、縁起という概念をイメージにしたのが、大乗仏教のひとつ「密教」で、その代表的なツールが「曼荼羅」ではなかったでしょうか。
私たちが自他肯定のPAC交流をめざしても、それを妨害する毒親など因果関係が存在します。では、目に見えない、因果応報にどう対処すればいいのか、しなやかに弾力性を持って悪縁悪果の縁起を乗り越えるための準備と自己マスタリーを最強化する方法を説明します。
善縁善果 悪縁悪果
「善縁善果(ぜんいんぜんか)悪縁悪果(あくいんあっか)」といいます。「善縁善果(ぜんいんぜんか)」とは、“良い行いをすれば、それが元となって、必ず良い報いがある”という意味です。
この『善因善果』の反対語が「悪因悪果(あくいんあっか)」で、意味は“悪い行いが原因となって、悪い結果になること”です。
『善因善果』も『悪因悪果』も仏教の言葉です。つまり因果応報の法則です。
たとえば毒親の因縁は深く、一筋縄では乗り越えられません。自分のせいでなくても、毒親も毒親に育てられたので、ただ批判したり、そのせいにするだけでは、この因縁を断ち切ることはできませんが、悪い因でも、弾力性を持ってしなやかにシステム思考することで、良縁を重ね加えていくと結果が変わりはじめます。
禅でいう「円相」は、一筆で図形の円を書き上げますが、開始、終了の点がない無い、つながりのある円として表現さます。解釈は見るヒトによりますが、私の場合は一切の矛盾がなく、持続可能と読みます。全てが始まりでもあり終わりでもある無限、悟りや心理、宇宙全体などを表現しているといわれています。
花無心招蝶 蝶無心尋花
「花無心招蝶 蝶無心尋花(はなはむしんにしてちょうをまねき ちょうはむしんにしてはなをたずぬ)」これは臨済宗の僧侶、良寛さんが読んだ漢詩です。
爛漫と咲く桜でなくても、草かげに人知れず咲く、一輪の草花も同じ。誰もが注目しない蝶でなくとも良い。一輪の花に二、三匹の蝶。
良寛さんは日常の風景の一瞬を見逃さず、無心の出合いの真実を詠いました。注目すべきは、特別な因果ではなく、ごく自然に身近にある因果を詠った点です。
花は蝶を招きたいとも思わないし、また、蝶も別に花を訪ねたいとも思わない。しかし自然に出合い、めぐりあっているように、私たちの因果も同じなのです。
私たちの人生もめぐりあいの連続です。親にめぐりあい、兄弟姉妹にめぐりあい、友人にめぐりあい、夫にめぐりあい、妻にめぐりあい、子供にめぐりあい、仕事に出会い、さまざまな家事にめぐりあい、また、苦しい事、楽しい事、悲しい事、いろいろな事にめぐりあいます。
偶然でも宿命でもなく、すべて因縁の法則によって、すなわち原因があり、そこに縁が働いて結果が出てきます。一筆書きの「円相」のように、結果がそのまま、結果で終わるのではなくて、また原因となって、ある縁が加わって結果が出ます。因縁と果が転がるように循環するのです。これが因果応報と気づく前にある因縁の法則の不思議です。
例えば一粒の種子があります。これが因です。畑を耕し、種子をまき、水をやり、肥料を施す、これが縁です。芽が出て実がつく、これが果です。縁の働き具合で果も大きく違ってきます。
悪い因でも良縁が加わればいい果が得られ、良い因でも悪縁が加われば悪果となります。これが仏教の因果律です。決して宿命論的なものではありません。縁のままに花は咲き、蝶もまた、縁のままに舞う、因縁の出会いです。
私たちのめぐりあいも、因縁の法則に従っての結果です。その底に秘められているめぐりあいの糸のつながりは、私たちには見えないだけです。法則に従って生きる、否、生かされていることを謙虚に自覚して、めぐりあいを極上のエンタメにして楽しむ生き方をしたいものです。
キツネが語る「因果応報」のこと
フランス文学の最高峰「星の王子さま」では、因縁の法則「因果応報の法則」をわかりやすく伝えています。
自分の星で一生懸命世話をしていた「傲慢」な態度を取る一輪のバラの花と喧嘩別れして、小惑星の旅を続ける王子さまは、6つの小惑星を訪問。そこでいろんな価値観をもったヒトとのめぐりあいを楽しみます。この6つの小惑星は、それぞれ「嫉妬」「憤怒」「怠惰」「強欲」「貧欲」「悦楽」を象徴しています。「傲慢」なバラも入れると「7つの大罪」になります。
そして7番目の星である地球で出会った哲学者の化身ようなキツネから「飼い慣らしてくれ」と懇願されます。旅の途中の王子さまは「飼い慣らすって?どういうこと?」と、キツネに尋ねます。
「みんなが忘れていることだけど」とキツネは言った。
「それは、絆を作る、ってことさ・・・・」
「絆を作る、って?」
「きみはまだおれにとっては10万人のよく似た少年たちのうちの一人でしかない。きみがいなくたって別にかまわない。おんなじように、きみだっておれがいなくてもかまわない。きみにとっておれは10万匹のよく似たキツネのうちの1 匹でしかない。
でも、きみがおれを飼い慣らしたら、おれときみは互いになくてはならない仲になる。きみはおれにとって世界で、たった一人の人になるんだ。おれもきみにとって世界でたった1 匹の……」
「わかってきたみたい」と王子さまは言った。」
「一本の花がいてね……彼女はぼくを飼い慣らしたんだけど・・・・・・」
「そういうこともあるさ」とキツネは言った。「この地球の上にはなんだってあるんだから」
「ああ。これはこの地球の上の話じゃないんだ」と王子さまは言った。
キツネは不思議そうな顔をした。「別の惑星?」
「そう」
キツネは王子さまのバラとの切ない話に、「この地球の上にはなんだってあるんだから」と返します。そこには無知、めぐりあう悲しみ、など予期しない見えない因果が含まれています。
<意味のある偶然>は起こるべくして起こる
シンクロニシティ(意味のある偶然)のことを集合的無意識といいます。
集合的無意識(Collective unconscious)とは、分析心理学者C.G. ユングが提唱した「無意識」に関する概念で、個人の人生経験から構成されうる「個人的無意識」と区別された、心の深層に潜在する人類に共通したパターン(元型)で成立する「無意識の層」のことです。ヒトは<一人一宇宙>で誰も入ることも出ることもできませんが、無意識の層で繋がっていて大宇宙を形成し、これがシンクロニシティ(意味のある偶然)を引き寄せているといいます。志を同じくする会ったこともこともないヒトを引き寄せるのです。
折角の精進のマイナス要因になるのが、妨害です。妨害には様々なものがあり、ほとんどの妨害が、自分の外側にありますが、それを内側に引き込んでしまうのも未解決の難問を抱えた自分なのです。そのもっとも顕著な事例が親子の「愛着」です。
愛着障害が原因で自他肯定(私はOK,あなたもOK)のライフスタイルが持てないヒトが山のようにいます。このヒトたちの特徴は、もっとも頼りにする身近なヒトから、蔑まれ傷ついた経験から、自意識過剰と、強すぎる自己否定感から、自分にとって大切なヒトに辛辣な言動をとることです。『悪因悪果』の繰り返しを続けてしまうことです。
「星の王子さま」の本文では、語られていませんが、王子さまのバラの花も「愛着」に傷ついていたので、繰り返し、王子さまに辛辣な言葉を浴びせたのです。王子さまは解っていながらも、自分自身の精進を自ら妨害して惑星から旅立ってしまいました。そして星を巡る旅を続け、完全でないヒトたちとの出会いを重ねたのちに、キツネからいちばん大事なことを学びます。
王子さまとキツネの出会いは「意味のある偶然」でした。王子さまはずっとバラが気になっていたので。自分が進むべき方向を確認したかったのです。でも6つの小惑星の住人は別世界で暮らしている気がしたのです。でも王子さまは「悪因悪果」を「悪因良果」にするために、諦めず答えを探す旅を続けたのです。
業が妨害する人生の方程式
「良縁良果 悪縁悪果」・・・「業(ごう)」が妨害する人生の方程式。業とはなんでしょう。意が行う善悪の行為。特に悪業。また、前世の悪行の報い。
バラの花にとって、王子さまは唯一、甘えられる対象だったので、天邪鬼になってしまい、王子さまを傷つけずにいられなかったのです。
気持ちがどうあれ厳然とした「別人格」の境界の前に願望は屈したのです。「私」が「私たち」になることで心強くなりますが、増えれば増えるほど「因」が増え、自我が衝突して共有が困難になります。
PAC交流を整えても、結局ヒトは誰も「孤独」なのだという事実に突き当たります。「孤独だけど決して孤立していないよ」とエールを送ることができても、孤独であることは変わりません。孤独という言葉に主体性をどう見つけるかは自分の在り方しだいです。在り方、考え方次第で良くも悪くもなります。これが般若の智慧です。
”随処作主 立処皆真”に般若の智慧を見つける
その結果、現れた現実、状況こそが真実です。
つまり、「因」があり、たとえ理想的なPAC交流で周囲の人に恵まれても、一生懸命努力しても、「因縁」として、主体性を失うなとは、孤独であることを受け入れろと説いているのです。「孤独」を「果」として受け入れて「因」にすることで、自己マスタリーを高めるのです。主体性で真実を見つけるのが般若の智慧です。
世界を動かすには、まず自分が動く
おいらはパンを食べないから、小麦ってどうでもいいものなんだ。
小麦畑を見ても、なんにも感じない。それって、なんかせつない。
でも、きみのかみの毛ってこがね色。だから、小麦畑は、すっごくいいものに変わるんだ。
きみがおいらを飼いならしただけど!
小麦はこがね色だから、おいらはきみのことを思いだすよ。
そうやって、おいらは小麦にかこまれて、風の音をよく聞くようになる・・・」
こうして、王子さまはキツネを飼い慣らした。
そして、出発のときが近づくとキツネは言った
「ああ!……きっとおれは泣くよ」
「それはきみのせいさ」と王子さまは言った。「ぼくはきみが困るようなことはしたくなかったのに、きみが飼い慣らしてくれって言ったから……」
「そのとおり」とキツネは言った。
「でも、やっぱりきみは泣くんだ! J
「そのとおり」とキツネは言った。
「じゃあ、きみは損をしたんだ! J
「おれは小麦畑の色の分だけ得をしたよ」とキツネは言った。
キツネは王子さまに会えなくなって寂しくなるけれど、王子さまの思い出が残るから、王子さまの髪の色と同じ小麦畑の色の分だけ得したと主張したのです。王子さまが去ったあとには、思い出に形はなく、他者から見たら何もないように見えるけれど、見えなくてもキツネには因果応報として思い出があると主張したのです。
「悪因悪果」を「悪因良果」にする責任から「品格」が育まれる
「飼い慣らしたものには、いつだって、きみは責任がある。」と王子に諭すキツネ。
「悪因悪果」を「悪因良果」にする責任から「品格」が育まれることを王子は自覚します。「秘密を言うよ。簡単なことなんだーーものは心で見る。肝心なことは目では見えない。」
「肝心なことは目では見えない。」と王子さまは忘れないために繰り返した。
「きみがパラのために費やした時間の分だけ、バラはきみにとって大事なんだ」
「ぼくがパラのために費やした時間の分だけ、バラは・・…・」と王子さまは忘れないために繰り返した。
「ものは心で見る。肝心なことは目では見えない。」とは、孤独を受け入れた先にある意識です。
キツネにしか見えないものですが、生きているのは、誰のものでもない自分の人生のためだから、他者には見えなくても関係ないのです。
でもヒトは自分を信じられないと世の中の尺度で測ろうとします。王子さまがバラの花と喧嘩別れしたのも、バラの花の態度が許せなかったからです。許す、許さないの判断に、王子さま自身の尺度で測らず世間の尺度を適用したからです。キツネはその間違いを「飼い慣らしたものには、いつだって、きみは責任がある。」と諭します。
「人間たちはこういう真理を忘れてる」とキツネは言った。
「でも,きみは忘れちゃいけない。飼い慣らしたものには、いつだって、きみは責任がある。」
この責任とは、「悪因悪果」を「悪因良果」にする責任です。そこには自分に対する責任と相手に対する責任があり、関係性への責任があります。無心の出会いから生まれた自分・相手・関係性の3つの約束を無心で果たす責任は無心で生きる喜びになります。蝶が花に寄せる存在証明として「品格」が生まれます。
どこへ行っても主になって、主体性を失うな。。。相手や環境に惑わされずに、主体性を失わないために、孤独を楽しむヒトになりたいものですね。
理解されることよりは、理解することを自分に求めることが主体性の入口です。
孤独をポジティブに解釈すると自立です。
世界を動かすには、まず自分が動くという意味なのです。
シンクロニシティ
世界を動かすには、まず自分が動くことに「シンクロニシティ、意味のある偶然の真髄」があります。
「リーダーシップ(主体性)を真剣に学ぼうとする人」にぜひ読んでほしいと、システム思考を提唱したピーターセンゲも絡んでいる『シンクロニシティ』の不思議は、実はふしぎではありません。
「真のリーダーシップ」を求めて旅へ出た著者ジョセフ・ジャウォースキー が、ピーター・センゲ、ジョン・ガードナー、デヴィッド・ボームなどさまざまな先導者たちと出会い未経験の境地を見出していくのは、世界を動かすにはまず自分から動くという精進の鉄則に従ったからです。
私たちは物事に執着しがちです。執着するから不安や悩みも生まれてきます。執着するヒトは、自分にこだわるように思われますが、実際は自分の外側ばかり気にして自分の内側に無頓着、つまり自分の扱い方を間違えているので、シンクロニシティから遠ざけているのです。執着ではなく、やはり反省した後には感謝が必要なのです。
精進という因があるから、「縁」が生じ、「果」があり、転がり続けます。
ヒトは顕在意識で認識できるのは、ごくわずかです。では潜在意識にはどの程度の情報があるのでしょう。残念ながら個人差があり、科学的に実証できません。
精進には、まずヒトとしての品格があり、その土壌に、知的好奇心、集中力、忍耐力、勇気、反省などが必要であり、反省には感謝の光が降り注がれていてこそ、才能の花が開きます。
自己マスタリーを最高レベルに引き上げるには、因果の法則にある見えない「因」を避けるのではなく、「山より大きな獅子はいない」のことわざにように、自分を大きくして乗り越えるしかないのです。「因」があるから「縁」が生じ、「果」があり転がり続けます。
スタンバイOKなヒトにしか、チャンスは巡ってこないからです。
ゴールから逆算して楽しむ
上の図はある会社で、新入社員が会社の一員として自覚するまでのプロセスを「新規採用から目的を共有するまで」の「善縁善果(ぜんいんぜんか)」を表したモノで、分かち合いをゴールに逆算したものです。悪縁悪果(あくいんあっか)の場合は、ゴールから逆算することなく、行き当たりばったりになるものです。
随処作主立処皆真|お粥PJ|因果の連鎖を超え自己マスタリー最強化
<お粥さんPJ>は、フリーランサーなど個人事業主の場合もチーム学習を念頭においています。
その場合、チームワークの力を引き出すために(大企業の)お客様もチームのメンバーだと考えます。チームワークを引き出すのは責任感の表れです。
チームワークとは、仲良くという意味ではなく、ひとりひとりが役割を果たせることです。つまりフリーランサーだからというのではなく、内部の一員というポジショニングで主体性を持って働きます。激しく移り変わる時代に適合した働き方とは主体性のある働き方です。
チーム学習の5つのディシプリン①自己マスタリー②メンタルモデル③共有ビジョン④チーム学習⑤システム思考の5つは相互依存の関係にあります。どれ一つとってもおろそかにできません。
自他肯定のPAC交流をめざしても「善因善果、悪因悪果」の因果の連鎖が妨害があっても、悪因悪果を断ち切るしなやかな弾力性、レジリエンスでつなぐ楽しみを味わってください。
- 「主体性」を使命(信念)にする
- 主体性に「情熱」をブレンドするから決意になる
- 決意があるから、準備する気になり準備に「集中力」が宿る
- 「集中力」を養う練習を欠かさない
- 「練習」で「忍耐力」をつける
- 「知的好奇心」を持ち続ける「勇気」を養う
- プロセスを通じて「品格」を磨く
- 品格をマイスタンダードにして「責任感」を最大化する
- 責任感と「つき合う人」を厳選するは同義語
- 「チームワークの力」を活かすのは責任感の表れ
- シンクロニシティを引き寄せる
- 祝う・分かち合う
結局、”主体性”からはじまる縁起です。
まとめ
システム思考は、見えない現象も考慮し分析します。その習慣が見えないことも予測し問題を生じさせない工夫を癖にします。
いまは女性管理者も増え、今後のびしろは無限大。が、一方で毒親の因果に苦しむ女性も増加の一方。個人が自他肯定を常としても、それでもなお、悪因悪果は起こります。一方で悪因悪果を悪因善果に変える楽しみは自分次第でどうにでもなるので、蹴飛ばして、シンクロニシティに足音響かせて、クリエイティブさを発揮してほしいですね。
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