パタゴニアン100カ条/How to break the rule 

パタゴニアン100カ条 200年ゴエス
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他人の価値観を自分の価値観のように思い込まず、自分の価値観に従ってシンプルに生きられることを実践しているヒトがいます。そのなかには規模の大小を問わず企業経営者さんもいます。

よく考えたら当たり前のことですが、不思議なことに他のこと同様に人間は自分を見失うようにできています。見失うことのないようにやってきた大谷翔平さんもいまが過渡期にあるようですね。

(一社)いきいきゴエス協会のライフプランナー、ゲンキポリタン/愛ピです。
ライフプランが、いつかすべて自分に浸透しますように。呼吸するように人生は①整理②整頓③清掃④清潔⑤習慣のゴエス、周活・週活・終活の繰り返しこそ宝です。

ほとんどのヒトは明確なライフプランを持っていないが、たった一度しかないことを意識していたらなら、最低限度のおおまかなライフプランの必要を感じる。
Less is More。退屈しのぎに貴重な時間と資源を使いすぎていることを認識し、ライフプランによって心、健康、資源を守ることができるからです。ライフプランとは自由で無邪気な子どものこころで心臓の止まる瞬間まで生き抜くことです。

ここでは、ひとりの気づきがライフプランに繋がりティンシェッド・ベンチャーズに育った歴史とパタゴニアの創設者イヴォン・シュイナードのパタゴニアン100カ条のルールをご紹介します。

ライフプランにできること

ウェルビーイング

私は、富の山のヒトが暮らす、立山連峰が見える富山県が大好きです。富の山とは心の富、健康の富、資源の富です。富が立山連峰のように連なっているのは富山が・共生・共創を育む共感が宇宙船地球号のように充満しているからです。富の基礎はマインフルネスであり、マインドフルネスとは「なりきる」ことであり、なりきることでマインドフルネスはウェルビーイングをもたらします。

Well-being(ウェルビーイング)とは、Well(よい)とBeing(状態)が組み合わさった言葉で、「よく在る」「よく居る」状態、心身ともに満たされた状態を表す概念です。元々は「健康的な・「し合わせ」な」を意味する、16世紀のイタリア語「benessere(ベネッセレ)」を始源としています。
Well-beingという言葉自体は、1946年のWHO(世界保健機関)設立に際して、設立者の1人であるスーミン・スー博士が定義づけした「健康」にはじめて登場しています。

健康は、完全な肉体的、精神的及び社会的福祉の状態であり、単に疾病又は病弱の存在しないことではない。(出典:厚生労働省 昭和26年官報掲載の訳)

従来の健康が身体的に良好な状態を表す狭義の概念であるのに対し、Well-beingは身体的・精神的・社会的にも良好な状態、とより広い概念を表していて、また「状態」としていることからも一時的・瞬間的に良好かどうかではなく、持続的に良好であるとしていることがその特徴です。

「し合わせ」と訳されることの多い「Happiness」あるいは「Hyugge」は一時的・瞬間的な、精神的な面での「し合わせ」を表します。Well-beingはこのHappinessを包み込むような大きな概念です。ゲンキポリタンは、大きな概念も共感に裏づけされた小さなライフプランから始まると断言します。

宇宙船地球号

たとえば富山のような場所で子ども時代を過ごし、成長に伴い東京や大阪に働きに出たヒトに世の中はどう映り、失意に傷ついたとき、どう感じたのか想像するとギャップの大きさにブッダの説く「慈悲」の重さが半端なく絶叫します。ウェルビーイングはこだまになって返ってきそうです。

パタゴ二アの歴史

地球を守るため4にビジネスをする

ウェルビーイング、環境保全に力を入れるグリーンビジネスの先駆者、米アウトドアウェア・ブランドの「パタゴニア」の創業年は1973年
 
実際には、それより古く1957年。ハンマーを買って鍛冶屋の真似事をはじめたのがはじまりです。パタゴニアの創設者イヴォン・シュイナードがクライミングを始めたのは、1953年、14歳のときでした。
狩猟のために鷹やハヤブサを調教する南カリフォルニア鷹狩団体のメンバーだったイヴォンは、ある日、グループリーダーの一人、ドン・プレンティスから絶壁にあるハヤブサの巣まで懸垂下降する方法を教わった。このたったひとつのレッスンはイヴォンのロッククライミングへの生涯の愛の引き金になり、ロッククライミングを変えてしまった。エルヴィス・プレスリーがロックで音楽と文化を変えてしまったようにです。

1957年、イヴォンはくず鉄屋に行き、重さ60キロあまりの金床、石炭の炉、やっとこ、ハンマーを買い、鍛冶屋のまねごとをはじめる。シュイナードは中古の刈り取り機で最初のピトンを作り、それをTMハーバートと、ヨセミテのロストアロー・チムニーやセンテニアル・ロック北壁で試した。

そのうち、友だちからもシュイナードのクロムモリブデン鋼のピトンが欲しいと言われるようになり、いつの間にか、それはビジネスとなっていた。作れたのは1時間に2本のピトンで、これを1本1ドル50セントで売った。シュイナードはカリフォルニア州バーバンクの両親の自宅裏庭に小さな工房をこしらえた。
ただし、工具は持ち運べるものが大半だったので、車に工具を積んでビッグサーからサンディエゴまでカリフォルニア沿岸を、サーフィンをしながら行ったり来たりしていることが多かった。
 
収入源は車に積んであるクライミングギアの販売だった。と、いってもたいした利益にはならない。ある夏にロッキー山脈へ行く前、傷物缶詰を売るサンフランシスコの店で缶のへこんだキャットフードのマグロ缶をふた箱買ったこともある。このキャットフードにオートミール、じゃがいも、それに、仕留めた地リスやヤマアラシなどの肉を混ぜて食べた。
 
ピトン

こうして1965年、イヴォンはトム・フロストと共同で、シュイナード・イクイップメントの経営をはじめた。ふたりが共同経営していた9年間で、ほぼすべてのクライミングギアを改良し、強く、軽く、シンプルで、しかも、機能的にした。
彼らはフランスの飛行家で作家(星の王子さま)、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの言葉を設計の指針とした。「いかなるものであれ、『完璧』とは、加えるべきものがなくなった状態を言うのではなく、取り去るべきものがなくなった状態を言うのである。すべてを脱ぎ去り、一糸まとわぬ体となった状態だ」を忠実に守ったのです。仏教で説く「」で「本来無一物」の教えです。

本来無一物

1970年
、シュイナード・イクイップメントは米国最大のクライミング用具メーカーになっていた。同時に、いつのまにか環境の敵になる道を歩きはじめてもいた。鋼鉄製ピトンをハンマーで打ち込んだり抜いたりするわけで、そんなことをもろいクラックでくり返せば、岩壁がどんどん傷んでしまう。シュイナードとフロストはピトン事業をやめる決断をした。長年にわたる環境配慮の道を歩きはじめた瞬間でした。
 
幸いなことに、ピトンに替わるものがあった。チョックというアルミニウム製のギアで、手でクラックに押し込めるので、ハンマーで打ち込んだり抜いたりする必要がない。彼らはそれを1972年、シュイナード・イクイップメント初のカタログに掲載しました。シエラのクライマー、ダグ・ロビンソンが14ページにわたってチョックの使い方を解説するクリーンクライミングの手ほどきも載せた。
それはパタゴニアのカタログに掲載される未来の環境エッセイへと発展した。カタログ発送から数か月でピトンは売れなくなり、チョックが作るそばから売れる状態となりました。会社は成長していたが、たいした儲けは出ていなかった。そんななか、衣料品が事業を支える柱になるのではないかと、考えるようになっていった。
 
 

現在、何十枚ものピトンを首からぶらさげて、腰にハンマーを携えてトラッドルートに向かうクライマーはほとんどいない。“ほとんど”としたのは、アルパインクライミングなどではいまでもピトンが有効なプロテクションとして利用されているからで、一般的な岩場で行なわれるフリークライミングに限って言えば、フィールドで見かけることはまずないはずだ。

人気のトラッドルートで、大きくハンマーを振りかざしピトンを叩きながら甲高い音を鳴らしている時代錯誤のクライマーがいたら、注意はもとより、多くの非難を浴びることになるだろう。

では、なぜ岩にピトンを打ち込む行為はNGとされているのか。その背景には、ピトンを使わずに安全を確保できるリムーバブルプロテクションの発展があり、さらにその裏には「岩を傷つけずに自然を守る」という基本的なクライミング精神が関わっている。現代のクライマーなら、無意識でも自然の岩や岩場の環境を守ることの大切さを心得ているだろう。 

パタゴニアの誕生

How to break the rule

1972年
、イギリスから輸入したラグビー・シャツ、スコットランドから輸入したポリウレタン素材のレインシェルの「カグール」とビバークサック、オーストリアから輸入したウールのグローブとミトン、コロラド州ボルダーから取り寄せた。ふたつとして同じものはない手編みのリバーシブルハットなどの商品を用意した。当時の登山界は、木綿、羊毛、羽毛という水分を吸う従来型素材の重ね着が絶対だったが、自由な発想でプロテクションを得ようと考えた。目を付けたのは、北大西洋の漁師が着ている化学繊維のパイルセーターでした。

吸水性がなく保温性も高い。山岳用セーターとしても理想的だと思われた。試してみるには素材が必要だが、それがなかなか見つからなかった。もしかしたらとロサンゼルスのマーチャンダイズ・マートへ行き、フェイクファー・コート市場の崩壊による破綻から立ち直ろうとしているモルデン・ミルズ社で見つけたのです。

さっそく数枚試作し、山で実地試験を行った。いくつかの難点もあったが、このポリエステル生地は驚くほど暖かく、シェルと組み合わせると最高だった。濡れても保温性があるし、すぐ乾くので、重ね着の枚数を減らせた。
こうして1972年「パタゴニア」として起業した

社員をサーフィンに行かせよう

1980年、保温性の高い長袖アンダーウェアを開発しました。素材は比重がきわめて小さく吸水性がない合成繊維、ポリプロピレンである。水に浮く船舶用ロープといった産業資材に使われているもので、衣料品への採用は、使い捨ておむつの裏地に使う不織布が最初だった。パイルもポリプロピレンもすぐに人気が沸騰したが、彼らは両生地について品質の向上と問題の解決に力を入れた。モルデン社と共同で、柔らかくて毛玉が生じにくい模造ウール「バンティング」を開発。最終的には、もっと肌触りがよくて毛玉が生じない両面起毛の生地「シンチラ」ができあがった。

モルデン・ミルズ社に資金調達力があったからさまざまな技術革新が可能となったわけだが、彼らが研究開発に傾注しなければこの生地が生まれなかったのも事実である。これを契機に、パタゴニアは研究部門やデザイン部門に多額の投資をするようになった。ポリプロピレンの代替品も見つかった。

1984年、シカゴで開かれたスポーツ用品の展示会を見て歩いていたとき、ポリエステル製のフットボールジャージについたグラウンドの汚れを落とすデモがシュイナードの目にとまった。ジャージに使われている布を作った会社、ミルケン社は、製造時、表面に細かな溝を刻んで糸に親水性を与えるプロセスを開発していた。シュイナードはアンダーウェアにおあつらえ向きだと思い、そして「キャプリーン」ポリエステルが誕生した。

1985年秋、イヴォンらはポリプロピレン製のアンダーウェアの製品を次々と新素材のキャプリーンに切り替えていった。これは1972年にチョックを導入したのと同じく、大きなリスクをともなうものだったが、馴染みのひとたちが利点をすぐに認めた。1985年秋、ポリプロピレン製のアンダーウェアの製品を次々と新素材のキャプリーンに切り替えていった。

パタゴニアの歴史は今も富山の立山連峰の麓から世界に発信するファスナーメーカー「YKK」に似ている。成長にともない次々と課題に立会い、ひとつずつ丁寧に乗り越えていくのです。決して過度な拡大が先にあるわけでなく、可能な範囲で問題解決に合わせて企業規模が大きくならざるを得ないという状態です。
パタゴニア

パタゴニアは1991年壁に突きあたった。販売が行き詰まり、銀行の融資限度額は大きく引き下げられた。借入金を減らすため、彼らは全従業員の20%を解雇した。その多くが一般企業で雇うのが難しい友だちや、その友だちの友だちら独立心の強い連中だった。

急成長の代償に、いつしか全員が持続不可能な成長に頼ってしまっていたのだ。イヴォンはおかしいと思ったことを問いただすことができる連中の中でも特に独立心の強い幹部を10人ほどパタゴニアに連れて行き、なぜパタゴニアはビジネスをしているのか検討した。

パタゴニアはまだ小さな会社だったころから、次第に明らかになっていく環境破壊に時間と費用を注ぎ込んでいた。地球温暖化、熱帯雨林の皆伐や焼失、地下水や表土の急速な喪失、酸性雨、あるいは堆積土砂があふれ出たダムによる河川や渓流の荒廃に関する情報は、彼らが旅の途中でみずからの目で見て、鼻で嗅いだ体験を裏付けるものだった。
 
なぜパタゴニアはビジネスをしているのか、一方で公私を通じて地球が体験する困難を目にしていた。やがてイヴォンは理念を一冊の本にまとめました。それが有名な「社員をサーフィンに行かせよう(邦題)」でした。
 

大きく成長しても、そして1991年の解雇以後も、さまざまな面でパタゴニアのカルチャーは保つことができた。裸足だったり、思い思いの服を着た仲間に囲まれて仕事をしていた。昼休みには、ジョギングをしたりサーフィンをしたり、あるいは、会社裏手の砂場でバレーボールをしたりした。

会社主催のスキー旅行や山行もあったし、気のあう仲間で金曜夜にシエラネバダ山脈へ行き、月曜朝、へとへとだけどリフレッシュして仕事に戻ってくるなんてことも日常茶飯事だった。「社員をサーフィンに行かせよう」は彼らの仕事そのものでした。

同時に、大変ではあるが、動植物の生息域を守ろうと小さな団体がひたむきに活動をすれば、大きな成果をあげられることもわかってきた。きっかけは、70年代前半、イヴォンたちの地元で起きた事件である。イヴォンたちは地元有数のサーフポイントを開発から守ろうと、公聴会に参加した。イヴォンたちも、おぼろげながら、ベンチュラ・リバーがスチールヘッドの一大生息域だった時期があることは知っていた。だがその後40年代に、ダムがふたつ建設されて取水が始まり、雨の多い冬場以外、河口から流れ出すのは一段式下水処理施設の排水だけになっていた。

公聴会では、川はもう死んでおり、河口の流量を増やしても、鳥などの野生生物やサーフポイントの状態が変化することはないと市側の専門家複数名が証言した。状況はかなり厳しく見えた。そのあと、河岸で撮られた写真のスライドが上映された。撮ったのは、25歳の生物学を専攻するマーク・キャベリだった。川岸の柳に営巣する鳥、マスクラットにミズヘビ、河口域で産卵するウナギなどが次々に映し出される。銀化したスチールヘッドが映る。そう、「死んだ」はずの川に、数十匹のスチールヘッドが産卵に来ていたのだ。

イボンヌたちは、マークに机と私書箱のほか、若干の資金も与え、ベンチュラ・リバーを守る戦いを支援することにした。その後もさまざまな開発計画が持ち上がったが、そのたび、彼の「フレンズ・オブ・ザ・ベンチュラ・リバー」は開発を阻止し、水の浄化と流量の増加を推進した。やがて、野生生物の数は増え、産卵に来るスチールヘッドの数も増えた。マークは、ふたつの教訓を与えてくれた――草の根の活動で成果をあげられること、傷んだ生息域も努力次第で回復できることだ。イボンヌたちは彼の活動に触発された。

イヴォンたちは、動植物の生息域を守る活動やよみがえらせる活動をしている小さな団体に寄付をするようになった。大きなNGO(非政府組織)を選ばなかったのは、そういうところにはたくさんの職員を抱えて間接費が多く、企業とのつながりが強いからだ。

1986年、毎年利益の10%を寄付すると宣言。環境助成金プログラムを通じて売り上げの1%を世界中の環境団体に寄付して、環境危機の最前線の国や地域で活動する人々に対して支援を行なっている。のちには支援額を増やし、売上の1%か税引前利益の10%のいずれか多いほうとした。以来、利益が上がっていようがいまいが、この誓いは守っている。そして同社では、支援する土地や文化や地域に活気を与えるつながりを保護&回復するために戦う人々を、「グランテッドフィルム」という物語にして発表してきた。2002年の1% for the Planetの設立により、他社も同様のことがしやすくなった。

1988年には全国規模の環境キャンペーンに乗りだし、ヨセミテ渓谷の都会化を避ける基本計画を支援した。その後は毎年、ひとつの環境問題に焦点を当てた啓蒙キャンペーンを実施している。私たちは環境や労働基準に危機をもたらすグローバリズムにも早くから反対した。私たちは土砂が堆積し、わずかに有用なだけで魚の生命を脅かすダムの撤去を主張し、原生地域の生態系を保護し、野生動物が自由に移動できる回廊を設立するプロジェクトを支持した。

二年ごとに開く「草の根活動家のためのツール会議」は、日ごろ協働している小さな組織にマーケティング、キャンペーン、パブリシティなどのスキルを教えるセミナーだ。非営利団体や営利団体からのリーダーや専門家が伝えてくれるセミナーはとても大事で、さらに多くの活動家のためになるよう、本も刊行した。

イヴォンらは会社についても、汚染者としての側面をなるべく減らさなければならないと考えるようになった。80年代半ばには、カタログも、古紙配合率の高い用紙を探して切り替えた。シンチラフリースの素材に使えるリサイクル・ポリエステルもモルデン・ミルズ社と共同開発した。染料を査定し、有毒金属や硫化物を必要とする色の使用を中止した。

1994年秋、イボンヌは決断をし、1996年までにはスポーツウェアに使うコットンをすべてオーガニックコットンにすると決めた。オーガニック栽培に戻っていた少数の農家と直接話をつけることにし、綿繰りや紡績の工場には、パタゴニア用の繊維を取り扱う前と後に装置の掃除を頼んだ・・・・彼らにとってはごく少量にすぎない処理のために、である。認証団体にお願いして、繊維の全量がその梱まで追跡できるようにもした。私たちは目標を達成することができた。リサイクル・コットンの使用についての試みを開始しているものの、1996年以降、パタゴニアは、オーガニックコットン以外のコットンを衣料品に使っていない。

1996年に開所したネバダ州リノの配送センターの建物は、太陽光を取り込む天窓や輻射熱を利用した暖房システムの使用により、エネルギー消費量を60%削減した。建物は鉄筋からカーペット、便器の仕切りにいたるまで再生材料を使用している。既存店では照明システムを改善し、新店舗はより環境への影響を配慮した建物になっている。

イヴォンたちは、衣料品によく使われる4つの繊維が環境に与える影響を独自調査した。驚いたことにコットンが悪者だった。だがこうなる必要はなかった。何千年にもわたり、農家はオーガニック農法でワタを栽培してきた。いま使われている農薬の大半は、第2次世界大戦時に神経ガス兵器として開発されたものであり、戦後その化学薬品の商業利用が認可され、手作業による除草をしなくていいようにと農薬が使われるようになったのだ。サンホアキン・バレーを何度も視察したが、綿畑はまるで月面のようだし、セレンに汚染された排水処理池はひどい臭いを発している。地球をこれほど傷つける製品を作り続けることはできない。そう考えるにいたった。

2007年、フットプリント・クロニクルを立ち上げ、取り組みについて、良い点と悪い点を公表した。

1984年以来パタゴニアには個室がない。そうした間取りでは気が散ることもあるが、組織の風通しはよくなる。健康的なオーガニックの食事を提供するカフェテリアも用意した。いまも唯一毎週月曜日のライス・アンド・ビーンズのメニューだけは変わらない。

また、マリンダたっての希望で社内に託児所を設置した。こんなことをする企業は、いまなら何千社もあるが、当時はアメリカ国内に150社しかなかった。子どもたちが中庭で遊んでいたり、カフェテリアで母親や父親と一緒にご飯を食べていたりすると、会社が家庭的な雰囲気に包まれる。2015年には、勤労者世帯へのイボンヌたちの献身に対して、オバマ大統領に認められた。

地球がふるさと
2018年後半、イヴォン・シュイナードとローズ・マーカリオCEOはパタゴニアのミッションステートメントを「私たちは、故郷である地球を救うためにビジネスを営む」に変更した。

現代社会では「パーパス」や「ミッション」「ビジョン」のような、企業の方向性を示す言葉に注目を寄せます。「パーパス」とは企業が活動する目的、「ミッション」は使命、「ビジョン」はありたい姿、というふうに説明されており、これらをあらためて策定する企業が増えています。
パタゴニアの歴史は、イヴォン・シュイナードのライフストリーそのものです。
イヴォン・シュイナードがクライミングを始めたのは、1953年、14歳のときで、以来、彼は地球と共に暮らしてきたのです。

パタゴニアの宣言

シュイナード

2012年1月、パタゴニアはカリフォルニア州初のベネフィット・コーポレーション(Bコーポレーション)となった。それは使命に突き動かされるパタゴニアのような企業が成長し、変遷する過程にて、その姿勢を維持できる法的枠組みだ。

パタゴニアはBコーポレーションに認定されている。Bコーポレーションの認定を受けるためには、会社は明白な社会的/環境的使命と、株主だけではなく社員や地域社会、そして環境への利害を考慮するため、法的拘束力のある受託者としての責任を負う必要がある。 Bコーポレーションの認定を維持するためには、3年ごとにその取り組み状況を更新し、実証しなければならない。

パタゴニアのユーズドギアおよび修理プログラムであるWorn Wear(ウォーン・ウェア)は、キースとローレン・マロイ夫妻が2012年に考案したブログとしてはじまった。彼らが構想したのはお気に入りのパタゴニア製品についてのストーリー、そしてアウトドアでの大切な思い出を彷彿させる衣類の破れ、擦り切れ、当て布、汚れといった名誉の印を共有する場所だった。

これらのストーリーは破棄の可能性よりも永続性に価値があることを、具体的に思い出させてくれた。またパタゴニアのつつましい修理サービスを北米最大の衣料品修理工場とし、小さな修理チームが国中を旅しながらお客様の衣類を無償で修理できるよう、再生素材で修理トラックを作るなど、大規模な中古衣料ビジネスに着手する動機付けとなった。

2013年、イヴォン・シュイナードは環境と社会の両面について責任ある事業を展開する営利目的のベンチャー企業を対象にベンチャー・キャピタル基金を創設した。このユニークな基金はシュイナード・イクイップメントのあった元祖の建物にちなんで「ティンシェッド・ベンチャーズ(TIN SHED VENTURES)」と名付けられ、前進的な起業家の長期的な思考と行動を支援している。ティンシェッド・ベンチャーズとは、事業を通して環境問題解決に取り組む新興企業の支援を行う内部投資部門で 目標は、企業が設立当初から環境への責任を深く意識してそれを行動に移し、同時に事業を成功させることが可能であることを示すこと。

自分自身の行動を正すことを続けるにしたがって、その目はサプライチェーンに向けられた。パタゴニアは自社製品を製造する工場を持たないため、労働者が受ける待遇や賃金について私たちができることは限られている。フェアトレード・サーティファイド・ソーイングのマークは、製品価格の一部が労働者に直接送られ、その地域社会で使われることを保証している。パタゴニアはフェアトレードUSAとのパートナーシップのもと、2014年以来この恩恵をもたらす衣類を作ってきた。フェアトレードはパタゴニアのサプライチェーン全体に生活賃金を支払うための最初の一歩だ。

2018年2月、お客様とパタゴニアが支援する環境活動団体をつなげるため、パタゴニア・アクション・ワークスを導入した。人びとはこの行動的なオンライン・プラットフォームを介してボランティア活動に時間を費やし、嘆願書に署名し、世界中の何百もの非営利団体に献金している。各地域のパタゴニア直営店はイベントを開催し、地元で根気強く、だいたいにおいて正しく評価されない小さな草の根活動家の取り組みへのより深い地元意識を育む手助けをしている。

気候変動が切迫するいま、私たちは惑星への影響を削減することだけに満足してはいられない。私たちはそれを救うことをはじめなければならない。パタゴニア プロビジョンズは炭素を固定する可能性のある穀物、カーンザを使用したロング・ルート・エールを発表して、その一歩を踏み出した。次の大きな一歩は、繊維と食物を育てるパタゴニアのサプライチェーンで、「リジェネラティブ・オーガニック」農法を採用することだ。

レスポンシブルカンパニー

レスポンスブルカンパニー

2018年後半、イヴォン・シュイナードとローズ・マーカリオCEOはパタゴニアのこの転換を反映させ、ミッションステートメントを「私たちは、故郷である地球を救うためにビジネスを営む」に変更した。つまり彼らは起業したときから、世間の常識や価値観に左右されず、お釈迦様が遺言したように、「それが世の中の役にたつならやりなさい(自灯明・法灯明)」を好きなようにやりたいことをを実行しているのだ。

2022年9月「自然から価値あるものを収奪して投資家の富に変えるのではなく、パタゴニアが生み出す富をすべての富の源を守るために使用します」とシュイナードは語る。「私は自分のふるさとである地球を守ることに真剣だ」事業に再投資を行った後の余剰利益を配当金として分配することで、環境危機と闘うための資金を提供すると「自利利他」を宣言したのです。

レスポンシブルカンパニーというと難しく聞こえるのが、日本には昔からある三方よしです、これを初めに提唱〜実践したのは「近江商人」で、自社と顧客だけではなく、社会の利益にもつながる商売をする考え方です。
米国カリフォルニア州ベンチュラ-2022年9月15日(日本時間)、創業者が責任ある事業という試みを始めてから50年近くが経過したこの日、パタゴニアは会社の新たな所有形態を発表しました。シュイナード・ファミリーは、2つの新しい組織であるthe Patagonia Purpose Trustとthe Holdfast Collectiveにパタゴニアのすべての所有権を譲渡し、これが即時有効となりました。
これによる最大のメリットは、パタゴニアの事業に再投資されない資金のすべてが地球を守るために配当金として支払われることです。

この簡素な歴史をパタゴニアおよびシュイナード・イクイップメントの現在および過去の、社員全員に捧げる。私たちが行なっていること、ビジネスをよりよく変えるために何ができるかについては、以下の書籍を参照してほしい:

社員をサーフィンに行かせよう』イヴォン・シュイナード著
レスポンシブル・カンパニー』イヴォン・シュイナード/ヴィンセント・スタンリー共著
草の根活動家のためのパタゴニアのツール会議』ノラ・ギャラガー/リサ・マイヤーズ共同編集
『Family Business(英語版)』マリンダ・シュイナード/ジェニファー・リッジウェイ共著
『Some Stories』イヴォン・シュイナード著(2023年日本語版発売予定)

パタゴニアン 100カ条

How to break the rule

その1つは、Patagonian 100ヶ条だ。これはかなり昔の雑誌に掲載されていた内容だ。(調べたところ、どうも1998年のエスクァイア 日本版 臨時増刊だったらしい。)忘れないうちに手帳からWEBサイトに転記しておこう。

1.ルールは盲目的に従うものではなく、自分たちで創るものである。
2.過ぎ去りし時代の栄光、成功をひきずらない。
3.夢中になり悪戦苦闘することが仕事であり、それは決して苦労ではない。
4.我を忘れることが遊びである。
5.何事も閃いたり、思ったら、まずアクションをひとりでも起こす。
6.お金のかからない自分なりの贅沢を知っている。
7.ムダな生活用品よりも趣味に関するモノの方が家に多い。
8.業界づきあいは必要最低限にとどめる。
9.神出鬼没。
10.単純なくりかえしの作業に神経を集中することが出来る。
11.神は決して人の姿をしていないと思う。
12.利害関係ではない人間関係に恵まれている。
13.プロの物書きではないが文章を書くのは好きである。
14.投機的なることにはいっさい興味がない。
15.寝食忘れて物事を追求してしまう。
16.太陽系の中のひとつの惑星に自分は生きていると感じることがあり、神秘を知る。
17.生きることはユーモラスなことだと笑うときもある。
18.ハードなときでも人生や仕事を楽しむコツを知っている。
19.大人の常識よりも子供の奔放さに本来の姿を見る。そして感心する。
20.生活習慣のひとつに日記やスケッチがある。
21.インスピレーションやテレパシーに満ちた生活を送っている。
22.およそ営利目的だけで作られた新製品には興味がない。
23.名コックの料理もいいが、山の上で渇きを潤おす一個の果実の至上の美味を愛す。
24.美術館の中の高価な美より日常生活の中に在るさりげない美を愛す。
25.人は誰しもがアーティストだし、そうあるべきだ。
26.クリエイティブな作業に没頭しているときに生きる悦びさえ感じる。
27.歩いて行ける所ならば、車には乗らない。
28.子供の頃から好きで、ずっとやりつづけていることがある。それがあるから自分だと思う。
29.モノの名称よりも、自然に関する名称をよく知っている。
30.動物との共生感が人には絶対に必要な感覚であると信じている。動物は魂の友である。
31.山や海は聖書以上の偉大なるバイブルであると感じたことがある。
32.喜びや富は多くの人と共有すべきものである。
33.悲しみは自分だけのうちにひっそりと秘め大事にすべきもののひとつである。
34.文明ということでいえば、先進国より未開社会に真価をみる。
35.マス・メディアを信用しない。観ない、読まない。
36.都市での流行現象に無関心のうえ、他人を意識したファッションを着ない。
37.どんな問題も頭で解決するものではなく手と足を使い解決する。
38.過ち、失敗からは逃げず真剣に取り組む。
39.手になじんだ道具を使い、創造する趣味がある。
40.コレクターではないが、愛着のあるモノがたくさんあり、大事にとってある。
41.50歳を過ぎてから信念と確信に満ちた仕事をはじめる。
42.生涯一職人的なスピリットを持った自由人であろうとする。
43.人は誰しも何らかの使命を持って生きるべきだと思い、それを実践している。
44.仲間たちとの仕事、遊びであれば思い切りエンジョイできる。
45.原点が何であるかを知り、そこに戻らず、よりよい方向へと前進する。
46.人と能力を競いあうことよりも高めあうことに興味がある。
47.いくつになっても自然に対する驚きを忘れない。
48.ネクタイ、スーツが仕事着だとは思わない。働きやすいスタイルが一番。
49.テキパキと仕事をこなしてしまったら、勤務時間中でもあとは勝手。
50.知的な好奇心と体のはたらきがひとつである。
51.人と人との出会いからすべてがはじまり、そこに未来が開かれていった。
52.誰も歩まなかった道を先人たちの残した英知をムダにせずに歩む。
53.組織はシステムではなく個人が解放されるサークルであるべきだ。
54.何よりも自己の健康の管理が大切である。と同時にメンタリティの自己コントロールも。
55.フラストレーションを決して他者にぶつけない。
56.音楽の響きの奥に感情の源を知る。
57.エゴがある限り、それをのぞむ限り、人は何も得ることができない。
58.町内の人々と親しく長いつきあいがある。街にも通じている。
59.酒場で決して社会、会社、家庭の自慢や愚痴をいわない。
60.よきライバルである親友たちに恵まれている。仕事でも遊びでも。
61.超自然、非科学的世界におけるフォースを信じる。強い関心があり、調べたりもする。
62.何事も決断が早い。
63.体験したことのないことを知ったかぶりをして批判的に語らない。
64.年少者であれ年輩者であれ年の差を超えて、よき人生の友となれる。
65.道具とは社会の中のルールではなく、地球そのものに対する愛であると思う。
66.前例のないことでも、正しいと思えばやってしまう。
67.他人の意見を尊重するが、自分の意見は曲げない。
68.大自然を前に神を感じたことがある。
69.飛行機では行くことのできない旅先に憧れ、何度も実際に行ったことがある。
70.心の通った握手のやり方を心得ている。
71.天体に関する忘れ難き思い出がある。
72.旅行以外のときは手ぶらで暮らすのが性に合っている。
73.昼と夜の過ごし方のメリハリがハッキリしている。
74.いくつになっても、たえず何か学ぼうとする。
75.鍵の数だけ人は不幸であり、賞なるものも、その鍵と同じである。
76.シンプルな生活ほど人の強さをあらわしている。
77.テレビを観ることは、ほんの気晴らしである。観ないにこしたことはない。
78.家族内での断絶はない。
79.自分独自の人生経験にのっとった暦がある。
80.ひとり暮らしの不自由さは感じない。
81.休日に退屈をおぼえることはない。気の向くままに行動している。
82.カルチャー・ショックにより自分自身を強くすることができる。
83.いつも太陽と月が気になる。
84.計算よりも偶然のなりゆきに事の本質があることを知る。
85.自分が心安らげる場所が何処かよく知っている。
86.盛り場よりも”外れ”のちっぽけな町を愛する。
87.マネー・ゲームのために結束し、抗争はしない。そんなゲームからはおりる。
88.古き佳き時代の音楽やアート・オブ・リヴィング、詩、人を愛する。
89.女子供という見方、扱い方をしたことがない-男ならば。
90.他人のプライバシーをのぞきみしたり、干渉したりするようなことも、気もない。
91.肩書きで相手をみない、そんなものに惑わされない。
92.東洋的、日本的な文化や精神世界への関心がある。
93.何であれ、他人をうらやましいと思ったことがない。
94.どんなに忙しくても、本を読む時間はつくる。
95.遊び友だちとの笑いに満ちた長く自然のつきあいがある。
96.ネイティブ・ピープル、カルチャーに尊敬の念を抱く。
97.臨機応変の生き方をしている。
98.それを欲しているうちには、それは本当に手に入らないことを知っている。
99.海と山で、この地球のことを学び、街で、人生のことを学んだ。
100.はじまりは終わり、終わりははじまり・・・であると知る

 

A Wild Idea ザ・ノース・フェイスの創業者はなぜ会社を売ってパタゴニアに100万エーカーの荒野を買ったのか?

「彼はおきて破りが三度の飯より好きだったよ。」 ––––パタゴニア創業者イヴォン・シュイナード

自分忘れ

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