誰も言わなかった禅「十牛図」十の入鄽垂手(にってんすいしゅ)

「十牛図」入鄽垂手(にってんすいしゅ) ライフデザイン

十牛図、10枚目の絵「入鄽垂手(にってんすいしゅ)」では、主人公である「牧人」は見た目が変わっています。誰も同じ人だと思いませんよね。なぜここまで変わってしまったのでしょう。

この記事は以下の方におすすめです

  • 本当の自分を探している方
  • いまある悩みから解放されたい方
  • やる気が出ないとお悩みの方
  • ゴミ部屋に住んでいる方
  • 将来が不安な方

「入鄽垂手(にってんすいしゅ)」の意味

ハッピーブッダ

廊とは人々のいきかうのことで、垂手とはぶらりと手をさげた姿勢のことで、察するに「手をぶらりと下げて、何もしない」という意味が考えられます。

つまり「入鄽垂手(にってんすいしゅ)」とは、「ぶらりと町に入ってきて、何をするということもなく帰っていく」という意味になります。

さて、問いです。

ぶらりと町に入ってきた意味はなんでしょう?
何をするということもなく帰っていく意味はなんでしょう?

ただあるがままに、ただいるだけで。

  • 牧人は、逃げた牛(=本当の自分)を探して旅にでました。
  • ようやく見つけて、格闘の 末に捕らえて、帰路の道中で手なずけました。
  • 家に還ると、牛は牧人とひとつになって、さらに牧人も消えてしまいました。
  • 後には大宇宙の道理だけがあり、牧人はいのちの源泉に還りました。、
  • いまここには、美しい自然だけがあり、彼方から禅者(かっての牧人)が町にやってきました。

大宇宙の道理を悟っても、繋がらなければ、いのちは枯れてしまいます
平凡な日常生活にいのちの本性をいかして、いのちの意義があります。(=生きるということ)

つまりぶらりと町に入ってきて、何をするということもなく帰っていくだけで、何も語らなくても、そこにいるだけで、気軽に声をかけるだけで、いのちの本性が、一切衆生に慈悲を持って接するのです。

  • 学問があっても自分だけのために、使うことにどんな意味があるでしょう
  • お金があっても、自分だけのために、使うことにどんな意味があるでしょう
  • 権力があっても、自分のためだけに、使うことにどんな意味があるでしょう
「入鄽垂手(にってんすいしゅ)」には、ウイルスに打撃を受けて店の存続が難しくなったと苦しんでいる人にとって大きなヒントがあるように思います。

もし、苦しんでいたなら、決して負けないでください。
同じように打撃を受けても盛り返している店もあります。その違いはなんでしょう?
こちらに説明しておきます。

「直指人心、見性成仏」

八正道

この境地を禅では、「直指人心、見性成仏(じきしにんしん、けんしょうじょうぶつ)」といいます。

  • 「直指」とは、直ちに指すこと、文字や言葉ではなく感覚で捉えるといえばいいでしょう。
  • 「人心」とは、一般に想像する「心」ではなく、本心・本性、禅でいう仏性です。
  • 「見性」とは、対象になりきること
  • 「成仏」とは、覚った人間になること。

4つをひとつにして、表現してみてください。
一瞬にして相手の仏性になりきる。といえませんか?
つまり「入鄽垂手(にってんすいしゅ)
は、本質を実践している絵です。

自利利他

自利利他

パンデミックは人の本質(仏性)を学ぶ機会になりました。

マスクをすることで他者をウイルスから守る。他者を守ることで自分をウイルスにから守る。


これが「自利利他です。」

もう少し掘り下げるなら、自分のためにしていることが、他者の役に立っている状態。そのためには他者に対する慈悲を重視し,高い次元に到達しようとする。

高い次元に到達することが、他者の役に立つ・・・・この循環が自利利他をぐるぐる回して共に高みにいくことになります。

ところが現代社会では、この逆が目立つようです。他者を蹴落とそうとして、自分も蹴落とされる。

直指人心、見性成仏で入鄽垂手の本質を慈悲を持って実践するとき、自然と自利利他も実践されている。

一切の執着を捨てているので、自分がないから、対象になりきれる。
その仏性で、自然と他者の役に立つ。これが慈悲です。

これを言葉で説明しようとしたら陳腐なものになるような気がしませんか?

そうなんです。実践あるのみなのです。習慣化です。

慈悲

本当の自分を見つける

苦しみを抜いてやりたい想い。楽しみを与えてやりたい想いを、自分の本性として実践すること。
実践が悟りです。

十牛図はゴエスだった

ゴエスの改善活動

ゴエスが5つのS(頭文字)で成り立っている整理整頓術です。
十牛図は人生脚本を綴った悲しい気持ちを整理して、使える脚本(ライフプラン)に書き直し、新しい習慣(ルーチン)を実践です。

整理

牧人は、逃げた牛(=本当の自分)を探して旅にでました。
尋牛・見跡

整頓

ようやく見つけて、格闘の 末に捕らえて、帰路の道中で手なずけました。
見牛・得牛

清掃

家に帰ると、牛は牧人とひとつになって、さらに牧人も消えてしまいました。
牧牛・騎牛帰家

清潔

後には大宇宙の道理だけがあり、牧人はいのちの源泉に還りました。
忘牛存人・人牛倶忘

習慣(しつけ)

いまここに美しい自然だけがあり、彼方から禅者(牧人)が町にやってきました。
空一円相・返本還源

まとめ

「入鄽垂手」とは「ぶらりと町に入ってきて、何をするということもなく帰っていく」という意味になります。

つまり、執着がなく、自他共にあるがままでよしとするなら、何も語らなくても、そこにいるだけで、気軽に声をかけるだけで、いのちの本性が、一切衆生に慈悲を持って接するのです。

自利他利の仕組みで、つながることで、この状態を循環させる。

入鄽垂手(にってんすいしゅ)を言葉でより詳しく説明しようとしたら陳腐なものになります。

そうなんです。実践あるのみ。

実践したら目玉が落ちるほど美しくなります。こんなに美しいものを人は誰でも持っている。

 
この記事はお役の立てましたか
  • 本当の自分を探している方
    ・・・・・・自分には内と外(資産・立場・学歴などがあります)内側の自分が本物の自分です。内側を磨いていきましょう。
  • いまある悩みから解放されたい方
    ・・・・・・自分のできないことで悩むのはやめましょう。(天気や他者の考え・行動)、自分のできることをここまでやるかと言われるほど実践しましょう。
  • やる気が出ないとお悩みの方
    ・・・・・・
    やる気が出るまで、静かに暮らしていましょう。
  • ゴミ部屋に住んでいる方
    ・・・・・・気持ちが焦っているので落ち着きがでません。焦りの原因は無駄な情報やモノです。整理しないと人生を無駄に過ごすことになります。
  • 将来が不安な方
    ・・・・・・誰もが不安です。「自分だけ」「自分だけ」に執着するのをやめましょう。

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