200年ライフ生活のゴエス|人生の目的と心のメカニズム整理術

ハッピーブッダ
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人はだれでも、さまざまな悩みに見舞われます。
お釈迦様が言われたように、世界は「一切皆苦」「四苦八苦」です。

では、何のために生きるのでしょうか?
果物が実を実らせるように、歓喜の世界を体験するためです。

そこに到達するために、悩むことなく暮らせる方法があります。
それを「マインドフルネス」あるいは「禅」を通して学べます。

「マインドフルネス」は宗教色を排したことで世界的な広がりを見せています。
「禅」は「仏教の修行の場」ですが、そもそも仏教は宗教というより「哲学」と考えたほうが適切です。

「マインドフルネス」や「禅」の効果を、どう考えているか、個人差があると思いますが、
人生200年時代にいつまでも「苦しみ」をひきずって生きるのは辛いですよね。
さっさと歓喜の時を迎えて、いきいき暮らす方が自分も周りの人も「し合わせ」です。

「マインドフルネス」や「禅」のパワーを伝えきれるように頑張ります。
今回は「煩悩」「十牛図」についてお話しします。

十牛図

十牛図(じゅうぎゅうず)は、悟りにいたる人生の目的(意志)の三大要素を表現するための、10の段階を10枚の図と詩で表したもので、唯識(仏教の根本思想)と深く関係しています。

また十牛図(じゅうぎゅうず)は、マインドフルネス、禅の修行の過程を描いています。

つまりマインドフルネス、禅の修行は究極の人生の喜びを発見する道筋なのです。

仏教の根本思想である「唯識」は、小説・ドラマでおなじみの「西遊記」の主人公のモデル、玄奘三蔵法師が、インドから中国に持ち帰り、日本には飛鳥・奈良時代に伝わりました。

「唯識」とは「ただ心のみがある」という意味です。

「唯識思想」とは、「唯(ただ)、識(心)のみで境はない」という考えを基本にしています。
境(もの=外界)とは、言葉によって生まれた概念です。
人は皆、ひとり、ひとりが宇宙であり、その外に出ることはできない。

人は言葉の限界と束縛によって、過去と未来に「執着」し、煩悩に振り回されます。

「唯識」は、言葉の限界に気づき、言葉で正していくとともに、頭で考えるのみならず、実践(マインドフルネス)を通して深層から健康になろうとするものです。不健康とは煩悩に苛まれる状態です。

煩悩には、根本煩悩と随煩悩があります。

禅の教科書「十牛図」|「し合わせ」、気づき、悟りをわかりやすく
「十牛図」は、コロナウイルス、自然災害、金融危機など複雑で難しい時代だから、ツールとして有効です。「十牛図」は問題集です。十枚の絵は問いかけてきます。その一枚、一枚に答えを出していくのは見る人の作業です。十枚の図が繋がって物語が組み立てられたとき、気づきがおこります。気づきは行動する準備です。

6つの根本煩悩

 

 

種々の煩悩のなかの根本となる根本煩悩には、表層にある六大煩悩があります。

貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)・慢(まん)・疑(ぎ)・悪見(あっけん)という、6種類の煩悩です。

煩悩とは、心身を乱れさせる心の汚れといえます。その根底には根強い「自己否定」があります。
「自己否定」が生まれた背景には、「虐待」による「子育ての失敗」があります。

自分より立場的に弱い者を直接、間接的に見下して、自分の優位性を獲得しようとするパターンが頻繁に見受けられます。
「虐待」は無意識に行われていますが、自覚するのも困難なほど、煩悩に心を奪われています。
自分では「虐待」の認識がないので、愛情が豊かであると錯覚していても気づきません。

しかし自分を受け入れられないのは自分なので、いくら他者を見下しても解決にはならず、ますます自分に対して否定感が強まるばかりで、bot状態が進行します。

下に紹介する「十牛図(じゅうぎゅうず)」には、自分と牛(ピュアな自分)しか登場しないことに注目してください。

貪(とん)

「貪(とん)」は貪欲(とんよく)です。欲が過ぎることです。

欲は誰もが持っていますが、欲が過ぎると、周りから見ても嫌なものです。
「人を押しのけて自分のものにしょうとしている」
「この程度で、こんなに儲けようとしている」
「人を騙して不当な金を儲け」などがそうです。

「瞋(じん)」

「瞋(じん)」は怒りの心です。
すぐに怒り出す人がいますが、怒るから一層怒りが増してきます。
人の脳の記憶はすべて消えるものではありません。
前の記憶に新たな記憶が追加されていくので、怒れば怒るほど怒りが増していき、怒りは自分の身体に向かいます。

貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)の三悪で身を固めて、慢(まん)・疑(ぎ)・悪見(あっけん)で防御。
本能と欲望のままに生きた挙句、反省することもなく「自分は好きなように生きてきた」と自慢しているような人がいます。
食物、酒、セックスなど欲望と煩悩に救いを求め続けて、内心では自己否定感を強め、その反動で他者に怒りをばらまいていると、動物的属性が強く出て動物霊の憑依を受けやすくなります。

「癡(ち)」

 「癡(ち)」は愚かであること。
自分で、過ちをたくさんして、苦しみをつくっている人たちがそうです。

知能指数が高く、学校の勉強はできても、愚かな人はたくさんいます。
この「癡」による苦しみが地獄霊を呼んできます。
快楽に耽り、真に精神的なるものを求めず、物質的、肉体的なものに惹かれ、見せかけの教養、知性で人を欺き、喜びを求める人が多いのが現代の特徴です。

「慢(まん)」

 「慢(まん)」は慢心です。
うぬぼれの心です。うぬぼれは失敗の近道です。うぬぼれて失敗する人はたくさんいます。

「疑(ぎ)」

「疑(ぎ)」は疑いです。

疑い、猜疑心、人を疑う気持ち、素直でない気持ちのことですが、「疑(ぎ)」は瞑想の妨げとなる五蓋のひとつ。
五蓋(ごがい)とは、瞑想修行を邪魔する、5つの障害、つまり5つの煩悩の総称。
蓋(がい)とは文字通り、認識を覆う障害のこと。

  • 貪欲(とんよく) – 渇望・欲望
  • 瞋恚(しんに) – 怒り・憎しみ
  • 惛沈・睡眠(こんじん すいめん) – 倦怠・眠気
  • 掉挙・悪作(じょうこ おさ) – 心の浮動、心が落ち着かないこと・後悔
  • 疑(ぎ) – 疑い

悪見(あっけん)

 人間は、他の動物と違い、本能によって生きることができません。

 ほとんど後天的に作られた言葉を主体にした価値観や世界観によって生きています。
 無意識の内にそれらに支配されていると言ってもいいかもしれません。
 つまり「悪見」です。もっとも解りやすい事例が「偏見」です。

 その最たるものが「人種差別」ではないでしょうか?
 たとえば白人の黒人に対するそれは、長い間、注目されてきました。
 しかし、逆もあるのです。

 逆もあるように反日、反韓も同じ構造です。

 このような問題の根源は、後天的に作られた言葉を主体にした価値観や世界観にあります。

 哲学者、仏教の哲学を探求してこられた島根大学名誉教授、松塚豊茂先生が、「生きる意味とはーニヒリズムを超えてー」 と題する放送で次のようにコメントされています。

 「ひとは、我見、身見にからまれたような生き方をしている」 ・・・自分の見解に執着して、自分で苦しみ、他者を苦しめる。

 唯識では「悪見」を、さらに詳しく分類しています。

 身見(しんけん)、辺見(へんけん)、邪見(じゃけん)、見取見(けんしゅけん)、戒禁取見(かいごんしゅけん)の5つです。

身見

「身見」とは、外界や他者と分離していると認識している自分の身体を「私」だと思い込み、それに執着していることです。
 「???」ですよね。
 「私の身体や、かわいくてしようがない身体」・・・気づきもしていないですよね。

 自分の身体だから健康にも留意している。
 その身体が自分のものでないとしたら誰のものだ。気が狂っているのではないかと反論されるでしょう。

 人は死んだら、身体を捨てて、どこかに行ってしまいます。身体=細胞の集積ですが、それら細胞は外の世界とつながっていて新陳代謝を繰り返しています。体内の細胞は体内ネットワークで繋がり脳とも通信しています。
体内ネットワークは外界のネットワークと繋がっているから身体は呼吸によって生きていられるのです。

だから身体は決して実体ではないのですが、後天的に作られた言葉を主体にした価値観や世界観で以って、実体であると思い込んでいるに過ぎないのです。

この思い込みが過ぎると、botのように、経験で反復されるように同じことばかり言い続けている自分に何の疑問を持たず、変われない自分を不思議と思わず、「辺見」を生み出し、人生を無駄に過ごしてしまいます。

辺見・邪見

「辺見」とは、偏ったものの見方のことです。
一般に「偏見」として親しみのある言葉になっています。

「邪見」は読んで字の如くですね。

見取見・戒禁取見

残る2つは、「見取見(けんしゅけん)」と「戒禁取見(かいごんしゅけん)」です。

「見取見」とは、自分の見解・思想にこだわること

「戒禁取見」とは、特定の戒律や禁止事項にこだわることです。

一般には、自分(たち)が信じている教えは絶対に正しく、守っている戒律は絶対に守るべきだ、と信じます。
そのために「宗教戦争」というようなわけのわからない事態が発生します。
すべての戦争の根源はここにあります。

ところが唯識では、自己絶対化することは根本煩悩だと警告しています。

「こだわり」を自分のアイデンティティーと思い込んでいる方は多いのではないでしょうか?
でも、その「こだわり」が間違っていたら、どうでしょう?

本当に見識のある方なら改めるでしょう。

その柔軟さこそ、6つの根本煩悩を焼き尽くす力なのです。

随煩悩(根本煩悩に付随して起こる悪い心)

奈良・興福寺(こうふくじ)

さらに随煩悩があります。随煩悩とは、根本の煩悩に付随して起こる枝末煩悩のこと。
以下の20の不随的な煩悩が深層にあります。

①忿(ふん)ー激発する怒りの心
②恨(こん)ー恨む心、悪意をもって恨み続ける心
③悩(のう)ー心がねじまがり、ひねくれる心
④覆(ふく)ー名誉や利得のために罪を隠す心
⑤誑(おう)ー名誉や利得のために人をあざむく心
⑥諂(てん)ーこびへつらう心
⑦憍(きょう)ー人よりも優れていると思い、おごりたかぶる心
⑧害(がい)ー人を傷つけ悩ませる心
⑨嫉(しつ)ー人の「し合わせ」を憎み、怨んでねたむ心
⑩慳(けん)ー他人に分け与えることを惜しむ心
⑪無慚(むざん)ー自己と真実の教えに恥じず、善を拒否する心
⑫無愧(むき)ー不正を見ても恥じず、悪行を好む心
⑬不信(ふしん)ー因果、三宝など心を清める法を信じない心
⑭懈怠(けだい)ー善を行い悪を止めることを怠り怠ける心
⑮放逸(ほういつ)ー染を防ぎ浄を修することを怠り怠ける心
⑯惛沈(こんじん)ーくらく沈み込む心
⑰掉挙(じょうこ)ーたかぶる心
⑱失念(しつねん)ー忘れる心
⑲散乱(さんらん)ー乱れる心
⑳不正知(ふしょうち)ー間違って知り、善を否定し悪を肯定する心

200年ライフ生活のゴエス|四苦八苦を超えて、いまここ、この瞬間。
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十牛図に描かれた人生の目的となる三大要素と心のメカニズムと

十牛図(じゅうぎゅうず)は、心のメカニズムを中国の宋の時代の教えと言われています。

三大要素とは、

  • 自己究明
  • 生死解決
  • 他者救済

の三つで10枚の絵にすべて描かれています。

「十牛図」(空一円相)には、一頭の牛が登場します。

牛は当時の中国で農仕事をする上で、大変貴重なものでした。
つまり牛は「自分自身(ピュアな自分)」を表しています。

牛は普段はおとなしく、物静かでありながら、あばれると非常に強く、手がつけられなくなります。
その姿は人間の心のそのものです。

 

「十牛図」は10枚の絵図

十牛図」は10枚の絵図で成り立っています。

自分の牛を探し求める、
自分の本当の心を探すところから、10枚の絵図で描かれた物語は始まります。

「十牛図」のプロセス

絵は書き手によっていろいろありますが、内容は次のようになっています。

  1. 尋牛(じんぎゅう)
  2. 見跡(けんぜき/けんせき)
  3. 見牛(けんぎゅう)
  4. 得牛(とくぎゅう)
  5. 牧牛(ぼくぎゅう)
  6. 騎牛帰家(きぎゅうきか)
  7. 忘牛存人(ぼうぎゅうぞんじん/ぼうぎゅうそんにん)
  8. 人牛倶忘(じんぎゅうぐぼう/にんぎゅうぐぼう)
  9. 返本還源(へんぽんかんげん/へんぽんげんげん)
  10. 入鄽垂手(にってんすいしゅ)

1.尋牛(じんぎゅう)

         

京都。宇治の萬福寺の説明では、最初の絵について次のように説明されています。

はじめから失っていないものを、どうして探し求める必要があるのだろうか。
せっかく持っているものに背を向けているから、大切なものを見失ってしまう。
自分にないものを探せば探すほど、自分が本来果たすべき役割からは遠ざかり、人生の分かれ道にぶつかっては迷いこんでいく。
炎が燃えさかるように損得で物事を考え、刀の穂先が次から次にわき起こるように善悪で物事を判断しようとするから、自分を見失い、大切なものに気づかなくなるのだ。

現代の人々は「自分探し」と言います。
まさに、そのまま、あてはまるのではないでしょうか?

牛は大切な自分自身のことです。

人には仏性が本来備わっているはずですが、人はそれを忘れ、分別の世界に陥って仏性から遠ざかる。

そして自分を見失ってしまいます。

いちばん最初の「尋牛(じんぎゅう)」では、牛(自分自身)を見失ったことに気がつき、探そうとする場面が描かれています。

無形資産の教科書|十牛図「尋牛」
人生100年時代はお金がかかります。金融資産は豊かな無形資産があって成長します。ここを間違うと真の豊かさを得ることは困難にします。十牛図にはその答えがあります。十牛図の答えを引き出すにはあなたが十牛図の問いに答える必要があります。『無形資産の教科書|「十牛図」』では十枚の絵にヒントを用意しました。

無分別

通常、一般の社会では「分別」は良いこととして知られています。

しかし、仏教では、「分別」は諸悪の根源的な意味を持っています。

  • 自分と他者
  • 死者と生者
  • 善と悪
  • 上と下
  • 右と左

というように、分別します。
分別は対立の構図になっています。

たとえば上のイラストでは、右の女性が左の女性に贈り物をする光景が描かれています。
右の人を施者。左の人を受者に分けると、施者は受者に「してやった」という驕りのきっかけになります。

親と子の関係でも、親は子に「してやった」という驕りを持つと、子どもは傷つきます。

親子とも互いに「煩悩」のきっかけになり、連鎖していきます。

良好な人間関係の中で安心して育つ事以外は、どのような言葉で誤魔化しても「虐待」です。
虐待してしまうのも、その関係性以外で生じている愛憎など「煩悩」を子育てに持ち込むからです。

しかし、無分別に「施者」と「受者」に分けなければどうでしょう?
互いに「煩悩」のきっかけは生じません。

仏教では無分別(無分別智)が推奨されています。

無分別智 むふんべつち

 知るものと知られるものが一つであるような智慧のこと。 ものごとを二元的、対立的に理解していこうとする分別智を超えて、生死一如、自他不二と直覚していく智慧。このように万物一如とさとるこの無分別智のことを根本智とも実智ともいい、またそれを般若(プラジュニャー)ともいう。このような無分別智の境地は、分別を本質とした言葉を超えているから不思議といわれる。
 しかし無分別智によって生死、愛憎を超えたものは、そのさとりの境地を人々に伝え導くために言葉で表現し教法として示していく。これを後得智(ごとくち)とも権智(ごんち)ともいう。 なお根本智に至る前段階を加行無分別といい、加行・根本・後得の三智とすることもある。(梯實圓『歎異抄』p.105より)出典:WikiArc

無分別になるために、「いまこここの瞬間」になりきる

「いまこここの瞬間」になりきれば、「無分別」になれます。

ところが「いまこここの瞬間」になりきるのを難しくしているのが「マインドトーク(雑念)」なのです。

マインドトークとは、いま、ここ、この瞬間に無関係に、無意識に自分の中で会話すること、つまり雑念、想念です。

「マインドトーク(雑念)」を心から除去する方法が「マインドフルネス」です。

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まとめ

「マインドフルネス」の効果を、どう考えているか、個人差があると思いますが、
今回は「煩悩」「十牛図」についてお話ししてきました。

「煩悩」が生じる原因は、「いまこの瞬間」から離れて、過去と未来に執着するからです。
執着するには言葉で過去と未来を束縛しなければなりませんが、人はこれが得意です。

放っておくと、ボット(bot)のように、次から次へと生み出します。
人はそれを「自分の考え」と考えますが、実はそうではありません。だからボット(bot)なのです。
人は年を年を重ねると「頑固」になるといいますが、繰り返し同じことを反復しているだけだからです。

つまり、そこに自分はいないのです。
そこに自分を取り戻す方法が「いまこここの瞬間」であって、それが「マインドフルネス」です。

一人一宇宙「十牛図」が語る人生の目的と心のメカニズムで、順を追って説明していきます。

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