人生100年時代をよりよく生きる本質を問う「十牛図」第六図は「騎牛帰家」です。
牛に乗っているとはなにか。笛を吹いているとはなにか。
二つの質問がなげかけられています。
「十牛図」騎牛帰家(きぎゅうきか)
牧人はおとなしくなった牛に乗って家路についた。
牛の堂々とした暖かい背中を感じつつ横笛を吹きながら。
「騎牛帰家(きぎゅうきか)」の問いは「牛に乗っているとはなにか。」です。
もうひとつは、笛を吹いている意味です。
牛に乗っているとはなにか。
牛に乗って楽をするという意味ではありません。
牛の背中にまたがることで、自分の目線が高くなり遠くまで見えるようになります。
これには2つの考えがあります。
ひとつは、広がり・・・・「大局をみる」
もうひとつが、深さ・・・・「内面をみる」
より遠くを広く世界を見るには、自分の内面の深さが影響します。
私たちが他者をみるとき、表層だけを見ているわけではありません。
表層の下にある深層の心の働きを観る事ができると、より現象への理解が深まります。
八識
表層の下にある深層の心の働きを観ると、より現象への理解が深まります。
同じことは自分について言えます。
しかも自分の深層はより深く観察することが可能です。
一般に私たちは、表層心理を顕在意識といい、深層心理を潜在意識と呼んでいます。
仏教では、表層心理を意識と感覚に分けていて、思考を意識、一般に五感に相当する5つ、身識、舌識、鼻識、耳識、眼識が加わります。
唯識思想が説く「深層心理」の方は、根本の心である阿頼耶識、末那識があります。
阿頼耶識と末那識
ここで問題にしたいのが、阿頼耶識、末那識です。
表層心理である「身識、舌識、鼻識、耳識、眼識、意識」の6つの識に続く、深層心理「末那識」は7番目の心に位置します。
「末那識」は「自我執着心」です。そしてさらに奥にあるのが根本心と言われる「阿頼耶識」です。
阿頼耶識、末那識は「識るもの」とされています。
以上、おおまかに八つの識、つまり「八識」をご説明しました。
牛に乗っている一つの答え
「騎牛帰家(きぎゅうきか)」
牛に乗っている理由のひとつは、内面をより深く識ることです。


汲み取る力リフレクティブ・ファンクション
私たちはモノゴトを認識する際、決して表層だけを見ているわけではありません。
心理学では、汲み取る力を持った人をリフレクティブ・ファンクションと呼んだり、メンタライジングと呼ばれます。
メンタライジングは振り返る力があり、自分の思いや欲求に飲み込まれず、相手の気持ちや自分のふるまいを客観的に見る力があります。
振り返る力を持つには、相手の気持ちを察する能力が高く、モノゴトを客観的に判断する能力が高いもの、正しく分析することに能力を惜しみません。汲み取る力はそうして育まれます。
さらに力をつけていくと愛着の傷となっている体験にまで遡り、現代の行動を理解できるように努力します。
こうして努力が身を結び、「解った」となったとき、人は心を動かされ、修復される可能性が飛躍的にアップします。
このスキルは現代医学で評価されていますが、唯識思想でも、「阿頼耶識」と「末那識」を重視します。
阿頼耶識、末那識は「識るもの」と言われています。
では、なにを「識る」のでしょう?識るべき対象はなんでしょう?
一方、フロイトやユングの心理学では、「無意識」と位置づけられています。
無意識の働きは顕在意識の働きより強いと決定付けています。
潜在意識を当事者本人が知るものとは位置づけされていないようです。
「自分探し」という言葉が生まれる前提になっています。
まとめ
私たちは顕在意識にあることでしか会話していません。
しかし、よくよく観ると、潜在意識(無意識)にあることが行動に出ます。
顕在意識と潜在意識が真逆だったり、バラバラだったり、することがあります。
こういう現象にとまどいます。
阿頼耶識、末那識は「識るもの」と言われています。
心理学では、「無意識」と位置づけられています。潜在意識を当事者本人が知るものとは位置づけされていないようです。「自分探し」という言葉が生まれる前提になっています。
十牛図は「自分探し」をガイドする役割を担います。
「騎牛帰家(きぎゅうきか)」での、牛に乗っている理由のひとつは、内面をより深く識ることです。


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