自分を極めるとは、どういうことでしょうか?
最高の自分を引き出すことですね。
いちばん 判りやすいサンプルがアスリートではないでしょうか。
「心はそのまま仏である」といいます。
禅の高僧の言葉ですが、この心とは「もともとのいのち」のこころだと思います。
もともとのいのちとは、「精子・卵子レベルの自分」を想像するとわかりやすいと思います。
自分は水が源流から湧き出る瞬間を想像をします。
どちらも似ていると思いませんか?
もともとのいのちは生きたがっています。
生命力そのものは、迷い、苦しみ、欲望、煩悩と無縁です。
十牛図の10枚の絵は、「もともとのいのち」を見失った自分が「もともとのいのち」に回帰するまでの旅を描いた物語です。
十牛図で極める自分をゴエスする
この画像は、自分が愛して止まない富山県「神通川」の支流松川が流れる「松川公園」の桜並木です。
風に吹かれて散っていくきれいな花びらを追いかけて、無心に袋に詰めていきます。
それはちょうど「十牛図」の九「返本還源(へんぽんげんげん)」に似ている気がします。
極める自分を十牛図でゴエス(整理・整頓・清掃・清潔・習慣)していきましょう。
ゴエスは、整理・整頓・清掃・清潔・習慣、5つの要素で成り立っています。
整理することで、整頓=いつでもさっと取り出し使える状態にして、それを維持するために日常的に清掃・清潔(磨く)をルーティンにするように構造的に習慣化する。
不要なものはいりません。
ハンコは代表、テレワークができる会社ならオフィスも不要。クルマも考えものです。
ビジネスそのものが不要という場合も少なくありません。
必要なモノは「本質的な自分」と「(本質を押し上げる)待機中の自分」だけです。
本質に向かって、十牛図の問いかけてきます。
つまり「自分とは何か」ではなく「存在する自分(=本質)とはなにか」
禅は仏教を学ぶトレーニング方法ですが、経典中心ではありません。
禅は文字や言葉には表現できなかった悟り(=実践)を、修行(=実践)で捉えようとします。このあたりが欧米でも受け入れられた動機ではないかと思います。
十牛図の問いかけ
十牛図は絵と併せて次の問いを投げかけてきます。禅の「公案」というものです。
十牛図とライフプラン
①尋牛(じんぎゅう)
尋牛(じんぎゅう)の問いは「牛が逃げているとはどういうことか?」でした。
牛は自分自身です。自分が自分を追いかける。「自分探し」をいう人は多いですね。
なぜ、自分がわからなくなるのでしょう。それは間違った人生脚本を生きているからです。
間違った人生脚本を書いたのは自分ですが、幼少期のことなので自覚がありません。
それに対してライフプランを書きましょうと私は言います。
人生脚本とライフプラン、似ていて非なるものです。
人生脚本は感情が基礎になっていて結果も不本位なものです。
これに対してライフプランはライフデザイン(価値観・方針)を基礎にライフイベントを中心にファイナンシャルプランニングしたものです。
ライフイベントとファイナンシャルプランという現実的な課題をテーマにしているので具体的に実効性があります。
ライフプランを主体的、積極的に策定、実践する人は、人生脚本を実践する人とタイプは違いますが、全員が乗り換えされることをおすすめします。
「尋牛」には、乗り換える必要が説かれています。
②見跡(けんせき)
見跡の問いは「牛の足跡とはなにか?」です。
「十牛図」2枚目の絵は、「見跡(けんせき)」です。
牧人が探し回り、牛の足跡を発見しました。
ようやく手がかりつかんだ状態が描かれています。
牛の足跡とは、追いかける手がかりです。
本当の自分に出会うにはどうしたらいいのでしょう。
本来、人には仏心が備わっています。
しかし育て方の間違いや育った環境の影響で、歪んだ認知、歪んだ価値観を身にまとってしまいます。
これを本当の自分に戻す作業が仏道を歩むことです。
禅は仏道を学ぶためのものであり、生きる悩みや苦しみから解放するものです。
牛の足跡とは、ブッダの教えです。
ブッダの教えを法、ガイドラインにして、自分の中にある良い資質の手ががり見つけることに他なりません。
③見牛(けんぎゅう)
見牛は「なにが牛を見るのか?」という!!!!ちょっと頭を抱える質問でした。
気づいた自分を知ることにあります。気づけば行動する。禅の鉄則です。 気づけば行動できる自分がいることはとても大切です。
④得牛(とくぎゅう)
*大慈悲とは仏教の慈悲、小慈悲とは人間の慈悲、違いは人間の慈悲が場当たり的、限定的である場合が多いことです。
得牛は「牛を捕らえる綱とはなにか?」という問いでした。これも悩みますよね。
牛を捕らえる綱とはなんでしょう?
牛にかけた「手綱」の役割をするのが慈悲の心のこもった「ライフプラン」です。
- 慈悲の意味は、「慈」の心と、「悲」の心、2つの心で成り立っています。
- 「慈」には、「苦しみを抜いてやりたい」という「抜苦(ばっく)」の意味があります
- 「悲」には、「楽しみを与えてやりたい」という「与楽(よらく)」の意味があります
- 「慈悲」は、「抜苦与楽(ばっくくらく)」を意味します。
- 「慈悲」に、必要な心はA(おとな)の心です。
- 「抜苦与楽(ばっくくらく)」を具体的にするのは合理的なライフプランです。
- 自分への「慈悲」をたっぷり注ぎ込んで、
- ライフプランに、古い感情で書かれた人生脚本を不要にします。
⑤牧牛(ぼくぎゅう)
牧牛は「牛を飼いならすとはなにか?」という問いです。
すべての物事には原因があり結果があります。
牛に牧人への信頼がなければ牛は言うことを聞きません。
「牧牛」は帰途を辿りながら信頼関係を作る過程です。
人は幼児体験を通して感覚で人生脚本を作ってしまいます。
この感情・感覚で書いた脚本を合理的なライフプランに書き直すことが重要です。。
⑥騎牛帰家(きぎゅうきか)
「十牛図」6枚目の絵となる「騎牛帰家」の問いは、「牛に乗っているとはなにか?」です。
牛と牧人は心が通じて一体となったことを表現しています。
手綱の代わりに牧人は笛を吹いています。
素敵な絵ですね。お互いを通して本当の自分を知って、自分探しが終わり向かっています。
ただ10枚ある「十牛図」、この段階でまだ6枚目です。この後が気になります。
⑦忘牛存人(ぼうぎゅうぞんじん/ぼうぎゅうそんにん)
忘牛存人では、牛は描かれていません。
7枚目の「忘牛存人」の問いは、「まどろんでいるとはなにか?」という問いでした。
牛はいなくなり、自分を気にすることもなく、ひとりでゆったりまったり。
私たちは、いつも「自分」「自分」「自分」が意識にありますが、「忘牛存人」では、自我(=自分)なんてどうでもいいんです。なぜなら自我が「執着」の原因になってしまうからです。
「勝手気儘に暮らせば良い」というのではありません。自分が成し遂げたいことがあるのなら、そのものになれば良いだけのこと。あるがままの心を持つことで、目的・目標を見失うことなく生きることができる、というものです。
「こうでなければならない」というのは、きゅうくつな生き方である、と禅は説きます。
「牛は自分の中にもともといたことを悟った」ので牛はいなくなっています。
もう探す必要もなくなったので、まどろんでいるのです。
「こうでなければならない」は執着になり、自分を苦しめる原因になります。
そのものになれば、あるがままの心であっても見失うことはありません。
受験勉強で考えてみましょう。気づき、悟ってくださいね。
⑧人牛倶忘(じんぎゅうぐぼう/にんぎゅうぐぼう)
人牛倶忘の問いは「 空白とはなにか?」です。
禅ではいちばん人気の「円相」が描かれています。
円相は「必要なものがすべてあって、無駄なものは何一つない」という意味があります。
ミニマリストの極意のようです。
人も牛もなく、空っぽ。空白とはなんでしょう?
悟ればそれでよしかと言うと、そうではありません。
末法思想がいうように、お釈迦様がご存命の頃は真摯に学んだ者でも、やがては形骸化し、何世代も後になると、著しく劣化します。避けようのない真理です。
エンドレスにワンダフルであるためには、何もかも分かったような、さとりの心にも、とどまってはいけないのです。悟った心にも迷いが生じます。
「往く道は精進にして、忍びて終わり、悔いなし」・・・これは映画俳優、高倉健さんの座右の銘。天台宗大阿闍梨の故・酒井雄哉(ゆうさい)氏から贈られた言葉といいます。
酒井雄哉師は、生涯2度も千日回峰行を成し遂げられた僧侶です。
千日回峰行というのは、7年間で、千日の行を行なうもので、平安時代から約千年の間にわずか四十七人しか満行していない命懸けの行です。
生涯、2度の千日回峰行達成者は、酒井師を含めてわずか3人。
2度目の達成で、「2度の回峰行を終えて、やっと親鸞聖人の気持ちがわかりました。」と言われたそうです。
「十牛図」九の絵、人牛倶忘では、人も牛もなく忘れられています。悟ったことさえ忘れているのです。
⑨返本還源(へんぽんかんげん/へんぽんげんげん)
10枚ある「十牛図」も残すところ2枚になりました。
返本還源は「美しい自然とはなにか?」という問いです。
返本還源は「元にもどり、はじまりにかえる」という意味です。
牛を追い、牛を見た、自分さえもいない。これではなにもなかったことに等しい。
つまり「元にもどり、はじまりにかえる」を実践した状態です。
美しい自然は元から自分の内にありました。
でも気づかないので外に自然を求めます。
牛を追いかけたのも同じですね。
「人が仏を想うとき、心が仏をつくる。その心の姿がそのまま仏なのだ」
つまり仏性も「もともとのいのち」にあったのです。
⑩入鄽垂手(にってんすいしゅ)
十牛図の最後を飾る人が往来する場所で「生きる」とはなにか?
この布袋さんは、牛を探していた、かつての牧人です。
見失っていた自分を取りもどした牧人は、町に行って人々と交わります。
身なりにこだわらず、威厳もありません。
仏教で禁じられているお酒も飲むし、魚も食べます。
つまりお釈迦様の教えにも無頓着です。(お釈迦様は「自分を信じるな」と言い残されてます)
以心伝心とは、自分のありのままの飾らない心を、素直に相手の心に伝えることです。
出会った人に「心を以って、心に伝える」以心伝心で影響を与えていきます。
実践は自分自身の成長にもつながっていきます。
生きるとは、極めることであり、実践です。
まとめ
「こうでなければならない」は執着になり、自分を苦しめる原因になります。
そのものになれば、あるがままの心であっても見失うことはありません。
私たちは、長い100年ライフを生きるために、そのもの(=ライフプラン)になりきって楽しみたいですね。
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