鑑真上人の来日
奈良時代になると仏教文化が開花します。
この時代、奈良には私度僧(自分で出家を宣言した僧侶)が多かったため、伝戒師(僧侶に位を与える人)制度を普及させようと第45代、聖武天皇は適当な僧侶を捜していました。
唐の鑑真上人に、日本に戒律がないことを知らされ、来日を要請されます。
鑑真上人は意欲的に取り組み、海に阻まれ頓挫を繰り返し失明するも、6回目にして実現、
日本で律宗を開きます。
宇佐八幡宮神託事件
しかし、一方で、僧侶が勢力を強める問題に発展します。
さらに聖武天皇の後を受けた第46代、女帝孝謙天皇の病を治したことから特別な寵愛を受けた道鏡(太政大臣)が法王になると天皇位を狙う事件、宇佐八幡宮神託事件(うさはちまんぐうしんたくじけん)が起こります。
この事件は危機一発のところで、称徳天皇が詔を発し、道鏡には皇位は継がせないと宣言したため、事件は決着します。
道鏡は現在の栃木県薬師寺に配流され生涯をそこで過ごします。
日本の皇室は、歴史の中で幾度も危機を迎えたましたが、弓削道鏡によるこの事件(皇位継承の企み)は、最も衝撃的な事件であったとされています。
奈良寺院の勢力を抑制するために、長岡京、平安京と二度の遷都が行われます。
余談ですが、聖武天皇は唐から多くのことを学んで国づくりに活用していたことが遺跡から分析されています。
そのひとつが先取的な「復都構想」で、都の建設が残されています。
複都制(ふくとせい)は、国家に複数の都を置く制度です。
平安京の誕生
称徳天皇の二代後、桓武天皇の時代、延暦13年(794)10月22日、桓武天皇は十年間住んだ長岡京を捨て、山背国葛野郡(やましろのくにかどのぐん)・愛宕郡(おたぎぐん)に造営中の新しい都に移転を始めます。
「葛野の大宮の地は山川も麗しく、四方の国の百姓の参り出で来ん事も便にして、云々」という遷都(せんと)の詔(みことのり)を10月28日に発布。平安京の誕生です。
797年、桓武天皇の内供奉十禅師としてスタートしたのが最澄です。778年(宝亀9年)、12歳のとき滋賀県、近江国分寺に入り、出家。19年後のことでした。
天台宗と真言宗
平安時代になると、法華経を下地に最澄(伝教大師)が開いた比叡山で開いた天台宗(顕教)、空海(弘法大師)が高野山で開いた真言宗(密教)が生まれます。
この二人の巨人に続き、鎌倉時代になると親鸞聖人や日蓮聖人など宗祖があらわれ、いくつも宗派が生まれます。
宗派は日蓮聖人を別にすれば対立したものではなく、継承、進化、深化。後になるほど、より激しくした感じがします。
現在、十三宗五十六派あるといわれているのはこのためです。
比叡山延暦寺天台宗 最澄
天台宗は比叡山延暦寺を総本山とする宗派です。
宗祖は最澄(伝教大師)です。
12歳のとき、近江国分寺に入り出家。804年、国家資格をもつ留学生として唐に留学。
同じ船団には国家資格のない僧侶として20年の約束で留学する空海も乗っていたのは奇跡的な驚きです。
当時の唐にはキリスト教、イスラム教も含め世界中の宗教が集まっていました。
最澄は天台宗の道場がある天台山で修行をし一年で帰国しますが、帰国直前の一ヶ月密教を学びます。
帰国したものの最澄の後ろ盾であった桓武天皇は病床にあり、怨霊の仕業と思っていました。
天皇は最澄が持ち帰った密教に強い関心を持ち宮中で天皇の病気平癒を加持祈祷します。
一方、密教を学んだ空海は密教を広めるために20年の約束を1年にして20年分の費用で密教の道具を買い込み帰国します。
空海が持ち帰った目録を見た最澄は空海の弟子となることを申し入れ交流を始めます。
しかし口伝がルールの密教は直接会って伝えないと誤解されると危惧します。
弟子を送り込む最澄ですが、自らは比叡山を留守にできないので断念します。
強力な後援者だった桓武天皇を失った最澄は比叡山に延暦寺を建てるために日本に天台宗を広めようと布教に奔走しますが、生きている間には叶わず、死後、建立の許しが出て、延暦寺が天台宗の総本山となりました。
その後、優秀な弟子たちの熱心な布教で天台宗は発展、長野の善光寺、日光輪王寺、平泉中尊寺、上野寛永寺など由緒ある寺院が数多く建立されています。
ご本尊は釈迦如来、薬師如来、観音菩薩などですが、一番多いのは阿弥陀如来。経典は法華経を土台に、阿弥陀経、大日経、梵網菩薩戒経なども経典とし、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と唱えます。
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