法要を生み出した空海
真言宗弘法大師(空海)が「法要」という概念を生み出しました。
その元となっているのが、十王信仰という民俗信仰です。
十王信仰とは、十仏、十仏信仰ともいい道教と仏教をもとに、中国の遊牧民の間で唐の終末期に誕生したものです。
三回忌までの供養(十王)はいまも中国でも盛大といいます。
十王信仰といってもナニそれですが、三途の河と聞くとみんな知ってるキーワードになります。
十王信仰とは、死者が冥途に行くと、寒さや飢え、喉の渇きに苦しみながら三回忌までの間、冥途にいる十人の裁判官(十王)のもとを回り、生前に行なったことの裁きを受けるというものです。
すべての衆生を裁きます。
十王に、蓮華王、抜苦王、慈恩王を加えて十三王(十三仏)です。
十三仏(じゅうさんぶつ)は、閻魔王を初めとする冥途の裁判官である十王をもとにして、江戸時代になってから日本で考えられた、冥界の審理に関わる13の仏です。
三仏は、追加供養である、七回忌・十三回忌・三十三回忌を司る裁判官(仏)です。
法要をはじめあらゆる仏事に関わります。
空海はどのようにして法要を育んだのか
仏教には輪廻転生の考えはありましたが、死者の魂を浄化させていく考えはありませんでした。
お釈迦様の教えに法要はありません。
弘法大師(空海)はどのように法要という概念を育んだのか?
興味深いですね。
そのキーワードが十王信仰なのです。
十王信仰=三途の河と聞くと気になりますね。
三途の河の十三信仰
十王信仰とは、死者が冥途に行くと、寒さや飢え、喉の渇きに苦しみながら三回忌までの間、冥途にいる十人の裁判官(十王)のもとを回り、生前に行なったことの裁きを受けるというものです。
七日間、歩き続き、最初の審判をする秦広王によって生前の行状が裁かれます。
さらに七日間、歩き続きて、三途の河です。
冥土への難関、三途の河をわたれるのは善行をした人だけです。
三途の河も銭次第というのは、鬼が番人をしているからです。
十王の裁き
三途の河を渡ると初江王の審判を受けます。
仏教では無益に生き物の生命を奪うことが、最大の罪悪とされているのです。
こうして旅を重ねて、四十二日目最後の審判が下されます。裁判官は泰山王です。
泰山王は死者に六つの鳥居を指します。
十三の王
忌日法要
初七日(七日目) しょなのか →秦広王(不動明王)
二七日(十四日目)ふたなぬか→初江王(釈迦如来)
三七日(二十一日目)みなぬか→宋帝王(文殊菩薩)
四七日(二十八日目)よなぬか→五官王(普賢菩薩)
五七日(三十五日目)いつなぬか→閻魔王(地蔵菩薩)
六七日(四十二日目)ろくしちにち→変成王(弥勒菩薩)
七七日(四十九日目)しちしちにち→泰山王(薬師如来)
百か日(百日目)→平等王(観世音菩薩)
年忌法要
一周忌(一年目)→都市王(勢至菩薩)
三回忌(三年目)→五道転輪王(阿弥陀如来)
七回忌 →蓮華王(阿しゅく如来)
十三回忌 →抜苦王(大日如来)
三十三回忌 →慈恩王(虚空蔵菩薩)
死者が選ぶ輪廻先
その鳥居の先には、六つの世界か広がっています。
しかし、どの鳥居がどの世界に通じているかは、まったく解りません。
この六つの鳥居のどれかを死者は自ら選びます。
選んだ先が、その人の「輪廻先」となります。
十王は、生前の罪の重さによっては、死者を地獄へ送ったり、六道を輪廻させたりすることができます。
恵心僧都(えしんそうず)源信が地獄・極楽の概念を広めたこともあり、平安末期には末法思想や、冥界思想とともに、十王信仰は広く浸透し、仏教が変質したように思います。
法要ごとに教えを授ける十三仏は異なる
念仏を唱えれば救われると説いた浄土宗 法然上人
空海は貴族のものであった学校の門を武士、民衆にまで開きました。
それ以上の簡単さで、またたくまに民衆に受け入れられた宗教が浄土宗です。
平安時代中期の天台宗の僧、恵心僧都(えしんそうず)源信は、日本の浄土教の祖と称され、浄土宗の開祖、法然上人やその弟子である親鸞聖人に大きな影響を与えました。
法然上人は源信の主著「往生要集」によって7世紀の唐の僧善導の浄土思想を知ったのです。
「往生要集」とは極楽往生に関する重要な文章を集めた仏教書。
この書物で説かれた、地獄・極楽の観念は貴族から庶民までに伝わり衝撃を与えました。
死後に極楽往生するには、一心に仏を想い念仏の行をあげるしかないと説いたのです。
天台宗に則ったように見える源信のアプローチとなった「往生要集」は天台山国清寺に逆輸入される形になり、それを法然が学ぶという形となって、善導大師の「一心に阿弥陀仏の名をたたえて念仏を唱えれば極楽往生できる」という教えに触れ、浄土宗を開宗します。
在家の人々は、ありのままで往生できる、それには念仏を唱えればいい。
法然上人は「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば救われると説きました。
この分かりやすさは、庶民の心をとらえ、またたく間に浄土宗は普及したのです。
浄土真宗の開祖 親鸞聖人
親鸞聖人が開いた「浄土真宗」は現在、圧倒的な巨大教団になっています。
法然を師と仰ぎ、後を継いで鎌倉時代前半から中期にかけて、浄土往生を説いたのが親鸞です。
親鸞聖人は法然上人の教えをさらに高めて行く事に力を注ぎましたが、自ら開祖する意思はなく、他の宗派との違いが明らかになるにつれ、親鸞の没後に宗旨として確立される事になり、「浄土真宗」として認められたのです。
親鸞聖人は自身のことを書いたものが乏しく、その人物像はミステリアスですが、親鸞の経典の違いは明らかでした。
親鸞といえば老いも若きも、男も女も、一切の差別なく、すべての人が、本当の「し合わせ」になれる道を説いたことで「肉食妻帯(にくじきさいたい)」が有名ですが、結婚については、相手も時期も、証拠となるものがなく、諸説あるものの、いずれも推論の域を出ません。
「承元の法難」事件
1207年、承元の法難(じょうげんのほうなん)事件が起こります。
承元の法難とは、比叡山を出て東山吉水に住んだ法然ひきいる吉水教団の「念仏を唱えれば救われる」という教えを快く思わない比叡山天台宗より弾圧され、後鳥羽上皇の怒りに触れたことによって起こります。
僧籍を剥奪された上、法然の門弟4人が死罪、法然と親鸞ら中心的な門弟7人が流罪に処された事件。
当時、高貴な罪人が流罪に処された際は、身の回りの世話のために妻帯させるのが一般的です。
近年では配流前に京都で妻帯したとする説が有力視されています。
肉食妻帯
肉食妻帯(にくじきさいたい)」のルーツはお釈迦様にあります。
お釈迦さまは、すべての生命は上下はなく平等で、生き物を殺すことは「殺生罪」と教えられています。
しかし人間は殺生せずしては生きていくことができないのです。
これはどのような理屈を並べても、殺生される生き物から見れば理不尽です。
キリスト教でも同じです。
すべての宗教は殺生との折り合いから生まれたのではないかと思います。
ですから法隆寺にある国宝玉虫厨子には、虎に喰われるお釈迦様の絵が描かれています。
親鸞聖人はこの問題とまっすぐ向き合った僧侶だと思わずにいられません。
また空海が学んだ密教も性愛を肯定していますが、心と心を通わせて理解しなければ誤解を生む公算が強いと危惧して、弟子になってまで学びたいと願い出た最澄とも、口伝の必要を曲げませんでした。
「あるがままに生きる」の「あるがまま」とは、欲望のままに行動してよいとはならないのです。
浄土真宗のご本尊は、阿弥陀如来、経典は観無量寿経、無量寿経、阿弥陀経で、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」。
虎に食べられているお釈迦さま
法隆寺にある国宝「玉虫厨子」(日本最古の仏壇と言われています)に書かれている絵図、「捨身飼虎図」
腹を減らしている虎を見て「可哀想だ」と釈迦が身を投げ出している絵図です。
この絵図からキリストを連想される方も少なくありません。
でもお釈迦さまの教えなのです。
一切皆苦、私たちの世界は自分の思い通りになりません。しかしやった通りにはなるのです。
「座禅」といえば反射的に「禅」を思い浮かべますね、公案も有名です。公案は禅問答のこと。
意味不明な問答のイメージがありますが、悟りへのプロセスとして禅問答が欠かせず、座禅と公案はよく知られています。
それほど禅宗は日本で定着していますが、禅宗はお釈迦さまから28代目の祖師である菩提達磨大師によってインドから中国に伝わりました。
お釈迦様の正しい教えを伝えんとして、嵩山少林寺 (すうざん しょうりんじ])で9年もの間、座禅を修行されたため脚がなくなってしまったという伝説があります。
「禅問答」を行う臨済宗
日本に伝わった禅宗には、臨済宗 (りんざいしゅう)黄檗宗 (おうばくしゅう)、曹洞宗 (そうとうしゅう) があります。
共通している点は座禅で悟りを開くことと、師から弟子へと教えが伝わることを重要視している点です。
臨済宗は、中国の禅宗五家(臨済、潙仰、曹洞、雲門、法眼)の1つで、日本仏教においては禅宗(臨済宗・曹洞宗・日本達磨宗・黄檗宗・普化宗)の1つ。
日本では達磨から11代目の臨済義玄が臨済宗を開きました。
宋に留学した栄西禅師が1204年、京都に建仁寺を建立し臨済宗を伝えようとしましたが、京都では最澄が開いた天台宗が力を持っていたので、思うように広まりませんでした。
1248年になると中国の栄西禅師が、鎌倉幕府の権力者、北条時頼の支援を受けて鎌倉に建長寺を建立、禅寺の基盤をつくります。
1279年、北条時宗に招かれてきた中国の僧は、蒙古との戦いで命を落とした武士の追善供養のために円覚寺を建立。
次々と禅宗のお寺が建てられた当時の北鎌倉はまるで中国街のようだったそうです。
建長寺と円覚寺は、禅の道場として有名です。
本尊は釈迦如来です。 「南無釈迦牟尼仏(なむしゃかむにぶつ)」と唱えます。
黄檗宗も元来、中国臨済宗の一派です。
臨済宗と曹洞宗の一番の違いは座禅の仕方です。曹洞宗では達磨大師がされたように、壁に向かって座って、座禅をします。「黙照禅(もくしょうぜん)」といって、ただひたすら座禅に徹する。
つまり「只管打坐(しかんたざ)」をそのまま悟りとする教えです。
ひたすら座禅する曹洞宗
曹洞禅を開いた高祖・承陽大師道元は、最初、禅宗の京都建仁寺で、栄西の高弟、明全に師事し、23歳のとき、明全とともに宋に留学します。中国で臨済宗が上流社会と交流するのに疑問を感じた道元は、ひたすら座禅に徹する曹洞禅を学んで5年後に、明全の遺骨とともに帰国します。
道元は、雪深い福井に永平寺を建てます。一旦鎌倉に戻るもすぐに福井に戻り、出家至上主義をつらぬいて、54歳の生涯を閉じます。
出家の際に行われる授戒会のことを授戒会とは、言わず得度式といいます。
「得度」とは、「得度」を受ける方を「発心の人」と呼び、正式な作法を通して、僧侶に相応しい姿となることによって、仏のみ教えを信じ、仏の徳を身に具えることを意味します。
「発心の人」とは「仏道への志」を発した人の呼称です。
「得度式」では、師匠(受業師・じゅごうし)によって、髪を剃り落としていただき、衣(ころも)、袈裟(けさ)、坐具、応量器(食器、鉢盂・ほう)などの、僧侶が僧侶として生きていくために必要な最低限のものをいただきます。
そして、お釈迦さま以来、歴代の祖師たちが伝えてきた「戒法」と「血脈」とを受けて、正式に僧侶の仲間入りをします。
曹洞宗では特に、道元禅師や瑩山禅師が撰述された、『出家略作法』を重んじて儀式を行っています。
道元から4代目にあたる太祖・常済大師瑩山(けいざん)禅師がその後、大衆教化につとめ、現在、永平寺・総持寺の両大本山をはじめ、約15,000寺、僧侶20,000人、1,000.00,000の檀信徒を有す日本最大の寺院数を誇る巨大教団となっています。
永平寺の影響か、近くの町に住む方々は老いも若きも男女問わず礼儀正しく優しく親切。
福井名物のお蕎麦も他では食べられない絶品です。
「南無妙法蓮華経」と題目を唱えれば、悟りが得られると説いた日蓮宗
開祖の名前を宗派にしているのは、日蓮宗ただ一つです。
法華宗とも称する日蓮宗は、鎌倉時代中期に日蓮大聖人によって興されました。
かつては天台法華宗に対し、日蓮法華宗とも称しました。
日蓮は、鎌倉仏教の他の祖師たち同様に、鎌倉時代をすでに末法、すなわちお釈迦様以外に悟りに入っている人はいないとみなしていました。
諸経の王とされる妙法蓮華経(法華経)こそが釈迦の本懐にして最勝の教義と説き、その最高無上の経典である妙法蓮華経(法華経)を専ら読経すなわち「南無妙法蓮華経」と唱えます。
日蓮は太陽のような温かい人になってほしいという母の願いから、幼名を「善日麿」といい、12歳で、千葉県鴨川市にある天台宗清澄寺(現:日蓮宗大本山/日蓮宗四霊場のひとつ)に入り、16歳で出家します。
お釈迦様はひとりなのに宗派がいくつもあることに疑問を持った蓮長(日蓮)は厳しい修行を重ねます。
21歳から比叡山、園城寺、高野山などで11年間、修行したあと、清澄寺に戻り『法華経』こそ、お釈迦様の教えを伝える心のよりどころとなる唯一の経典であると、名を日蓮と変えて1253年立教開宗します。
清澄寺を退出し幕府のあった鎌倉にて辻説法を開始。
本尊に向かって「南無妙法蓮華経」と題目を唱えれば、悟りがおのずから得られると説きました。
しかし、法華経に書かれている予言通り、法華経を広めようとする行者は難にあうという言葉通り、「伊豆の法難」「小松原の法難」「松葉谷の法難」など数多くの難にあいました。
天変地異、疫病、飢え、日照り、渇水、干ばつに苦しむ庶民を見て「法華経信仰によって国土の安穏をはからなければならない」と説きました。
妙法蓮華経(法華経)を中心とすれば(「立正」)国家も国民も安泰となる(「安国」)と主張した「立正安国論」を当時の執権北条時頼に提出します。
その内容に激昂した浄土宗の宗徒による日蓮襲撃事件を招いた上に、禅宗を信じていた時頼からも「(鎌倉幕府への)政治批判」と見なされて、翌年日蓮は伊豆に流罪となります。(伊豆の法難)
1268年(文永5年)蒙古から幕府へ国書が届き、他国からの侵略の危機が現実となります。
日蓮は執権北条時宗、平頼綱、建長寺蘭渓道隆、極楽寺良観などに書状を送り、他宗派との公場対決を迫りますが、極楽寺良観、念阿弥陀仏等が連名で幕府に日蓮を訴え捕らえられます。
50歳で「佐渡へ流罪」になった日蓮は2年半後の1274年に赦免となり、戻ると幕府は丁重に扱います。
幕府評定所へ呼び出され、蒙古来襲の予見を聞かれるとともに、妙法蓮華経(法華経)を立てよという平頼綱に別れを告げ、寄進された身延山に久遠寺(日蓮宗総本山)を開山します。
身延山に隠棲した日蓮の予言から僅か5か月後、蒙古襲来(文永の役)が起こります。
没後に皇室から日蓮大菩薩(後光厳天皇、1358年)と立正大師(大正天皇、1922年)の諡号を追贈されました。
清澄寺、久遠寺、池上本門寺、誕生寺は日蓮宗四霊場と言われています。
日蓮聖人入滅後、教団は六老僧を中心にして拡大。
師弟の繋がりによって浜門流(日昭)、池上門流(日朗)、四条門流(日像)、六条門流(日静)、身延門流(日向)、富士門流(日興)、中山門流(日常)などの門流に別れ、互いに異なった秘伝・法門を相続し、時には門流の対立から分派もみられました 。
お葬式の場合には「日蓮宗」だけではなく「派」も伝える必要があります。
尚、法華経は釈尊が記述したものではありません。
釈尊は経典を残していません。その弟子たちが釈尊の偉大さを伝えるために口伝で伝えることから始まったと考えます。
三帰依
釈尊の出発点は、「一切皆苦(人生は思い通りにならない)」から始まります。苦しみの原因を「諸行無常(すべてはうつり変わるもの )」で、「諸法無我(すべては繋がりの中で変化している)」という真理、つまり物事は安定しない関係性にあると考えています。
なので現象に一喜一憂しないで、自らのあり方で苦しみから解放されると教えています。
これが「涅槃寂静(仏教が目指す”さとり”です。)」。
仏教とは仏様を拝むことではなく、仏になることを教えています。
そうすると人によっては「仏教は必要なのか」という疑問に発展します。
それは人それぞの見方であり、因果関係の解釈、俯瞰の仕方になります。
自分的には哲学だと思っています。巷にあふれる自己啓発のルーツですね。
私はブッダ(仏)に帰依します。
私はダンマ(法)に帰依します。
私はサンガ(僧)に帰依します。
帰依とは・・・
優れたものに帰投し、伏依すること。
また帰命(きみょう)ともいい、自己の身心を捧(ささ)げて信順すること。
絶対の信をもってよりどころとすること。
信仰と同意で、仏・法・僧の三宝に帰依することを三帰依といい、これは仏教徒の信仰を示すもっとも基本的なものとなっている。
浄土真宗では帰依の「帰」を帰投と解して、阿弥陀仏(あみだぶつ)の願力に帰投し依憑(えひょう)することであるとし、これが信心にほかならないとしている。「日本大百科全集(ニッポニカ)より」
律宗と何都六宗
先述したように、奈良時代、私度僧(自分で出家を宣言した僧侶)が多かったため、伝戒師を普及させようとしたが聖武天皇は伝戒師にふさわしい僧侶を捜していました。
聖武天皇は中国(唐)に求め、日本に戒律がないことを知った唐の鑑真上人が数人の僧を日本に送り込もうとしましたが、海に阻まれうまくいきません。遂に自ら訪日することを決心し、自身も5回の挫折を乗り越え、失明にもめげず6回目に念願を果たします。
こうして鑑真上人は日本で律宗を開き日本に戒律ができます。
律宗は、戒律の研究と実践を行った宗派です。
中国では古く東晋代から戒律を修めなければ正式な僧にはなれなかったため、研究が行われていました。
日本でも仏教伝来した初期の段階で戒律が伝えられていましたが、不完全で戒律の意義が十分に理解されないまま、一部の寺院における研究に留まり、授戒の儀式も行われていなかたったのです。
鑑真上人は弟子の命を失くし、自らも命かけて日本に到着した後、東大寺に戒壇を開き、聖武天皇や称徳天皇を筆頭に日本で初めて戒律を授けたのです。その後も唐招提寺を本拠として戒律研究に専念し、南都六宗の一つとして今日まで続いています。
南都六宗(なんとろくしゅう)とは、奈良時代、平城京を中心に栄えた日本仏教の6つの宗派の総称で、奈良仏教(ならぶっきょう)とも言います。
•三論宗(さんろんしゅう、中論・十二門論・百論)
•成実宗(じょうじつしゅう、成実論)
•法相宗(ほっそうしゅう、唯識)
•倶舎宗(くしゃしゅう、説一切有部)
•華厳宗(けごんしゅう、華厳経)
•律宗(りっしゅう、四分律)
当時はまだ寺院ごとに特定宗派を奉じる寺院は少なく、次第に密教の影響を受けていきます。現存するのは、法相宗、華厳宗、律宗の三宗のみです。聖武天皇が総力を挙げて建立した東大寺は華厳宗の総本山とされています。
鑑真上人が日本に伝えた四分律(しぶんりつ、しぶりつ、梵語:Dharmagupta-vinaya)とは、仏教の上座部の一派である法蔵部(曇無徳部)に伝承されてきた律で、中国でも最も影響力を持ったもので、十誦律、五分律、摩訶僧祇律と共に、「四大広律」と呼ばれています。
平安時代の宗祖、最澄や空海は四分律を支持せず、空海は『十誦律』を重んじました。
しかし最澄が延暦寺に独自の戒壇を設置したのに対して、空海は受戒については南都六宗と同様、東大寺にて行ないました。最澄や空海には態度に違いがみられます。
このため、戒律に関する考え方が分散化して律宗は衰退。また、受戒そのものは東大寺・延暦寺を中心に盛んに行われたものの、いつしか官僧の資格をえるためのものとなり内容は形骸化していったのです。
小乗仏教VS大乗仏教
そもそもの原因は根本分裂にあります。
根本分裂とは1つであった釈尊の弟子たちの集団が、大衆部仏教(北伝仏教)と上座部仏教(南伝仏教)の2つの教団に分裂した事件です。
釈迦の没後200年ほど後、「律」の解釈で意見が対立し、教団は保守的な上座部と進歩的な大衆部とに根本分裂しました。また別の意見として根本分裂は上座部と大衆部と分別説部に分かれたと言う説もありますが、どちらの説が正しいのか不明。
分裂の原因は上座部仏教(南伝仏教)がいう十事問題であるとする説。
十事とは従来の教団の規則(戒律)を緩和した十の除外例であり,この中には〈金銀を蓄えてもよい〉という条項も入っています。
実際に托鉢などに出ると食事だけでなく金銭を布施されることがあり、この布施を認めるかどうかが大きな問題となり、これを認める現実派は、多人数であったので「大衆部」と呼ばれ、この除外例を認めない厳格なグループは少人数で長老上座が多かったので「上座部」と名づけられたのです。
もうひとつが、大衆部仏教(北伝仏教)のいう五事の問題が原因であったという説。五事とは、修行者の達する究極の境地である阿羅漢(アルハット、arhat)の内容を低くみなす5つの見解のこと。この五事を認めたのが「大衆部」となり、反対したのが「上座部」となった。これをいわゆる大天五事(だいてんのごじ)といいます。
つまり、「上座部」が理想にこだわり厳格。「大衆部」は現実的で柔軟という相違があるようです。
上座部仏教(南伝仏教)はチベット仏教に継承されています。
上座部仏教(南伝仏教)とは、小乗仏教のことで、小乗仏教とは大乗仏教側がつけた蔑称です。小乗仏教が大乗仏教以前にないことから、大乗仏教とは大衆部仏教(北伝仏教)を下地にしたものではないかと想像します。
大乗仏教の発祥した背景にはさまざまな説が唱えられていて、いまもって不明です。しかし部派仏教への批判的見地から起こった側面が強いのは間違いなさそうです。
大乗仏教、顕教、密教
小乗仏教(上座部仏教)では修行をしたわずかな人しか救われず、一般の人々は救われません。しかし釈尊は「すべての人々を救いたかった」という理念のもとに誕生したのが大乗仏教(だいじょうぶっきょう)です。
日本に伝えられた仏教は、すべて大乗仏教を基本にしています。
大乗とは、大きな乗り物ならたくさん乗れるので、多くの人、すなわちすべての人々を救う事を目的とします。
大乗仏教の仏とは、宇宙そのもののことであり、宇宙の真理が仏陀にあり、仏陀そのものなのです。
しかし仏陀には姿・形がなく、そのままでは教えを説く際に抽象的にならざるを得ないので難易度が高くなります。
そこで仏陀が人間である釈迦になって現世に現れたと考えらてれます。
釈迦、釈尊、仏陀。名前は違いますが同一人物で立場で違う呼び方をされています。
さらに大乗仏教には、「顕教(けんぎょう)」と「密教(みっきょう)」があります。
顕教(けんぎょう)とは、教えが言葉で顕されている(書物)ことからこう呼ばれています。
「密教(みっきょう)」は、秘密の教え(口伝)という意味から、こう呼ばれています。
20年の予定で唐に渡った空海がわずか一年で帰国したのは、恵果和尚から口伝で水を得た魚のように、覚りを得たらからです。
僅か3ヶ月で世界で唯一人「伝法阿闍梨」の位を授かります。
そして恵果和尚は仕事を終えたように帰らぬ人となります。
その後、唐では、仏教弾圧があり、密教も衰退します。
帰国した空海に比叡山延暦寺の開祖、最澄が弟子入りしたのも納得です。
一心不乱に取り組んでいると突然見えないものが見えて来る。
聞こえないものが聞こえてくるものです。
空海が真魚と名乗っていた時期に100日で100万回の真言を唱えます。
この時に覚りに達しているので、研ぎ澄まされていたと考えるのが自然ですね。
家制度と檀家制度
江戸時代は、秩序づくりが進み、文化が花開き、近代日本の礎となった特別な時代です。
戦国時代が続いた後、信長・秀吉・家康の天下統一の夢を叶える最終局面が続きます。つまり家康によって江戸幕府が開かれるまではじわじわ統一に向かっているものの、関ヶ原の決戦を見てもわかるように武将連合軍の時代が続いたのです。
これに終止符を打ったのが家康によって開かれた徳川幕府という仕組みでした。
「刀を捨てて、集まれ〜」みたいに集めて、士農工商をぶち上げ、武士には石高制を採用しサラリーマン化、戦うエネルギーの代わりに参勤交代で疲労させ謀叛のパワーを奪う。農家には庄屋を据えて、税務署の代行をさせて、年貢を管理させる。
家制度を導入して、町人(工商)には、宗派を問わないから、どこかの寺の檀家にさせる。
寺は過去帳で家族を管理し、お布施という税金を集めて、寺を寺社奉行が仕切る。こうして総管理制度を創造した。
なので、寺との関係とは仏教よりも家制度、税の仕組みが大事だったのではないかと思います。
寺との関係を強化するために、平安時代に源信がぶち上げた地獄・極楽の概念を絵にして見せて怖がらせる。
成仏したければ死後に天国に行けるように、お寺に行ってお経をあげて学びなさいとやる。
戦いによって家を焼かれずに暮らせる日々を迎えて、686年、「諸国の家ごとに仏舎を作り、仏像や経巻を置き、礼拝供養せよ」という天武天皇の勅は江戸時代になってようやく実現するのです。
宗教も落ち着きを見せるのも、天変地異、疫病、飢え、日照り、渇水、干ばつが減り、対処も秩序を以って行われるようになったからでしょう。
さて、終活を考える上でのポイントは、現代社会は「家制度」が崩壊している点です。家制度って「家督はすべて長男に譲る」と戸籍謄本に明記されるんですね。
江戸時代まで遡って我が家の戸籍謄本全部見ましたが、びっくりしましたね。
なので武士でさえ次男、三男は結婚できない。家制度はなくなりましたが、戸籍があるのは世界で日本だけといいます。
日本人の寿命は107歳まで伸びると言われています。それを睨んだ国づくりが必要だと言われています。
過去の価値観では生きていけなくなっています。一旦オールクリアして自分づくりをすることが急務です。
蘇我氏の仏教
古代豪族・蘇我氏は、日本書紀に「悪役」的イメージで登場します。
特に蘇我本宗家の4代、稲目(いなめ) – 馬子(うまこ) – 蝦夷(えみし) – 入鹿(いるか)は、推古天皇・聖徳太子を中心としたヤマト王権の中枢にあって、政治・経済・外交・文化のあらゆる面を主導、渡来人を使いこなし、鉄と馬、さらに医療を利用し、文明の力である漢字と仏教を取り込み、寺を作り倭国(古代日本)を先進国にしょうと試みた一族です。
蘇我氏は血筋を蘇我氏から独立させ、次々と氏族にして多数派を形成、大王家を凌駕する権勢をほしいままにしていました。
当時、中国は唐王朝が誕生した時代。唐の脅威にどう対処するかヤマト政権にとって重要な課題であり、国内の改革が急務でした。
天皇の跡継ぎをめぐって一族間で闘争が起こり存亡の危機を迎える。顛末を描いた残虐な絵画が物語るように皇極4年、クーデターが発生します。
乙巳(いっし)の変です。
乙巳の変で、蘇我氏「全滅」説が有力でした。
しかし近年の研究では、蘇我氏本宗家4代で滅び去ったわけではないことが分かっています。
その後も越前で生きたという説があります。
福井県に三国という地がありますが、越前・福井平野を流れる九頭竜川が日本海へ流れ出る場所で、海洋交易の最重要拠点です。
古代豪族・蘇我氏の飛鳥時代・奈良時代・平安時代に続いていく興亡の歴史は史学者にとって血湧き肉躍るテーマです。その正体は、未だ謎に包まれています。
蘇我蝦夷の血筋に倉山田石川麻呂(くらやまだいしかわまろ)がいて、大化改新後の政府で右大臣の地位に就いていたのをはじめ、彼の兄弟たちも、斉明朝や天智朝の要職にあったことが判明しています。
さらに天智天皇は倉山田石川麻呂の娘の遠智媛(おちのいらつめ)や姪媛(めいのいらつめ)を妃としました。彼女たちを経由して、持統天皇や元明天皇に蘇我の血は受け継がれ、さらに文武天皇や聖武天皇にもその何分の一かが受け継がれていったのです。
その手法を模擬したのが藤原鎌足です。
古代豪族・蘇我氏の飛鳥時代・奈良時代・平安時代に続いていく興亡の歴史は史学者にとって血湧き肉躍るテーマです。その正体は、未だ謎に包まれていますが、自分的には彼らにとって「仏教」は何だのかというミステリーです。受け入れを拒んだ物部氏に対して積極的に受け入れた蘇我氏。
日本仏教はここから始まり、江戸時代の檀家制度で今日に受け継がれました。
そして、いま、墓VS納骨堂VS散骨、樹木葬と混乱しています。
混乱の核心は「家制度の崩壊」であり、象徴的な出来事が「死後離婚」ではないでしょうか?
「家制度」は戦前に終わってます。
崩壊後も長きにわたり男性にとっては無意識の言い訳の温床になってきました。
酷い場合にはDVの原因にもなっています。
自民党政府は平均寿命107歳の社会を視野に入れた国づくりに舵を切りました。「家制度の崩壊」も含めてどう変わるのか、どう生きるのかは、すべての人に突きつけられた課題です。
神仏分離令
日本の仏教は6世紀に輸入されました。神道が一般的であったことから推古天皇、聖徳太子は反対せず個人(蘇我氏)に任せました。
以来、奈良仏教をはじめとして「国家仏教」としてその時々の政治と一体化してきました。
僧侶は国家公務員同然でした。
法然、親鸞、日蓮のように流罪になった者もいましたが、結果的には国家に認められました。
立場が変わったのは、明治元年の「神仏分離令」です。
「神道国教化」が起こり、そして「廃仏毀釈」が起こります。
しかし人員不足から神道国教化は遅々として進まず明治8年に「信教の自由」の方針が打つ出され事実上、挫折します。
こうして仏教は現在に至ります。
仏像の種類
仏像には さまざまな種類があります。
ランクの高い順に以下の5種類があります。
- 如来(にょらい)
- 菩薩(ぼさつ)
- 明王(みょうおう)
- 天部(てんぶ)
- 羅漢・高僧(らかん・こうそう)など
如来を頂点とした5つのグループは、ランクというより役割を担っていると考えるのが妥当です。
人に違い、差があると考えるのはお釈迦さまの考えとは思えないからです。
「如来」とは「仏陀」と同義で「悟りを開いた者」の意味があります。
「菩薩」とは悟りを開くために修行中の者を意味します。
「明王」は密教における尊格及び称号で、如来の化身とされています。
これに対し顕教では、十界を立てて本来は明王部を含みません。
密教では、自性輪身・正法輪身・教令輪身の三輪身説を立てて、その中の「明王」は教令輪身で、如来の化身とされています。
説法だけでは教化しがたい民衆を力尽くで教化します。
そのため後述の画像でわかるように忿怒(ふんぬ)といって恐ろしい形相で火炎を背負い、髪は怒りによって逆立ち、法具や装飾品は極力身に付けず、法衣は片袖を破って動き易くし、武器類を手に持った姿をしています。
忿怒の相は単なる怒りを表現したものではなく、明王は以下のような怒りを表現しています。
- 仏教に帰依しない民衆を畏怖させてでも教えに帰依させんとする気迫を表した姿
- 仏教に帰依せず、仮の快楽に心浮かれている民衆の有り様に心砕くいている姿
- 仏界を脅かす煩悩や教えを踏みにじる悪に対する護法の怒りを変現した姿
等を表現したものであり、人々の仏性を開発し悪を討つ力を持った明王ならでは様です。
ただし孔雀明王のような例外もあります。
以上3つのグループの諸尊に対して、「天部」に属する諸尊は、仏法の守護神・福徳神という意味合いが濃く、現世利益的な信仰を集めるものも多数存在しています。
如来
如来とは、大乗仏教における諸仏の尊称で「真理を悟った者」「真実から来た者」として最高位のポジションにあります。
如来は、お釈迦さまが出家後に粗末な衣一枚で宝冠、装飾品を身につけない姿です。
悟りを得て最高の境地に達したものだけに与えられる最高ランクの仏が如来です。
如来には以下の種類があります。
- 釈迦如来(しゃかにょらい)
- 阿閦如来(あしゅくにょらい)
- 阿弥陀如来(あみだにょらい)
- 薬師如来(やくしにょらい)
- 毘盧遮那如来(びるしゃなにょらい)
- 大日如来(だいにちにょらい)
- 多宝如来(たほうにょらい)
- 五智如来(ごちにょらい)如来像は 螺髪(らはつ)、光背(こうはい)、衲衣(のうえ、粗末な衣一枚)、九品印(くぽんいん)、蓮の台座(れんげざ)が特徴です。
菩薩
菩薩とは、「悟りを求める者」という意味です。
菩薩は、釈迦が出家前に釈迦族の王子だったころの豪華な衣装、宝冠、装飾品をまとった姿です。
つまり、最高の境地である「悟り」を得るために修行中の仏、修行者が「菩薩」です。
菩薩には以下の種類があります。
- 聖観音菩薩(しょうかんのんぼさつ)
- 十一面観音菩薩(じゅういちめんかんのんぼさつ)
- 千手観音菩薩(せんじゅかんのんぼさつ)
- 如意輪観音菩薩(にょいりんかんのんぼさつ)
- 不空羂索観音菩薩(ふくうけんじゃくかんのんぼさつ)
- 准胝観音菩薩(じゅんていかんのんぼさつ)
- 馬頭観音菩薩(ばとうかんのんぼさつ)
- 弥勒菩薩(みろくぼさつ)
- 地蔵菩薩(じぞうぼさつ)
- 勢至菩薩(せいしぼさつ)
- 虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)
- 普賢菩薩(ふげんぼさつ)
- 文殊菩薩(もんじゅぼさつ)
- 月光菩薩(がっこうぼさつ)
- 日光菩薩(にっこうぼさつ)菩薩像は、髻(けい)、白毫(びゃくごう)、瓔珞(ようらく)、腕釧(わんせん)、臂釧(ひせん)、天衣(てんね)が特徴です。
地蔵菩薩は地居天である忉利天(六欲天の第2の天)に在って釈迦の付属を受け、釈迦の入滅後、5億7600万年後か56億7000万年後に弥勒菩薩が出現するまでの間、現世に仏が不在となってしまう為、その間、六道すべての世界(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)に現れて衆生を救う菩薩を言われています。
日本でのはじまりは浄土信仰と関係が強く、浄土信仰が普及した平安時代以降、極楽浄土に往生の叶わない衆生は、必ず地獄へ堕ちるものという信仰が強まり、地蔵に対して、地獄における責め苦からの救済を希求するようになったようです。なので京都には5000からの地蔵が町々に祀られています。
姿は出家僧の姿が多く、地獄・餓鬼・修羅など六道をめぐりながら、人々の苦難を身代わりとなり受け救う、代受苦の菩薩とされた。特に子どもの守護尊とされ、「子安地蔵」と呼ばれる子供を抱く地蔵菩薩もあり、また小僧姿も多いのも愛される一因になっています。
明王
明王(みょうおう)は、如来の命を受けて、いくら諭しても正しい道に向かわない人に対して、髪を逆立てて怒ったり(忿怒相)、手に持った縄で強引に相手を屈服させたりする役割の仏です。
明王は、密教系の仏像です。如来そのものが変化した仏とも言われています。
明王には以下の種類があります。
- 不動明王(ふどうみょうおう)
- 降三世明王(ごうざんぜみょうおう)
- 軍茶利明王(ぐんだりみょうおう)
- 大威徳明王(だいいとくみょうおう)
- 金剛夜叉明王(こんごうやしゃみょうおう)
- 愛染明王(あいぜんみょうおう)
- 孔雀明王(くじゃくみょうおう)
- 烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)明王像は、迦楼羅焔光(かるらえんこう)、宝剣(ほうけん)、条帛(じょうはく)、装身具(そうしんぐ)が特徴です。
天(天部)
天(天部)とは、衆生の輪廻転生において、六道(迷いのある世界)の一つ天道に住む神。
天上世界に住む鬼神(仏教に帰依した神々)を意味します。
仏教を信じる心を妨げる外敵から人々を護り、仏法を守護するという役割を持ちます。
釈迦の説教に感動し、仏教に帰依した(他教、インド神話の)神々です。
天(天部)は、如来・菩薩の領域と人間(衆生)との中間に位置します。
天(天部)には以下の種類があります。
- 梵天(ぼんてん)
- 帝釈天(たいしゃくてん)
- 持国天(じこくてん)
- 増長天(ぞうちょうてん)
- 広目天(こうもくてん)
- 多聞天(たもんてん)
- 毘沙門天(びしゃもんてん)
- 弁財天(べんざいてん)
- 吉祥天(きっしょうてん)
- 鬼子母神(きしぼじん)
- 韋駄天(いだてん)天部像は、火焔付き輪宝光(りんぽうこう)、甲冑(かっちゅう)、武具(ぶぐ)、沓(くつ)、邪鬼(じゃき)が特徴です。
羅漢・高僧
羅漢・高僧(らかん・こうそう)とは、釈迦の生前から深く仏教に帰依し、仏法を護持すると誓った弟子たち(十大弟子)や、悟りの境地に近づき尊敬を集めた高僧(十六羅漢、五百羅漢)です。
私たちは、特別な関心を抱いた人を除けば、仏像のいずれかを見て、この仏像は何を意味しているかを理解しないまま、やり過ごします。
仏像は心の様を表現しているものなので、仏の心を思い出し、その心を自分の心に止めることが大事なのではないでしょうか。
その一歩で、偶像崇拝をお釈迦様が推奨したわけではない事実にも目を向けましょう。
「人間は万物の霊長である」という言葉があります。人間の勝手な思い込みです。
人間は殺生するなら万物の霊長にならなければ、いかなる理屈をもっても、言い訳はできない。言い訳ができないことを知るとは、忿怒の相で自分を見つめ、悟りを得よ。ということ。それでもってしても言い訳はできないので、許しをえるために、ひたすら許しを乞え。
つまり「万物の霊長」をめざせ。・・・・ということではないでしょうか?
虎に身を差し出した釈尊の行いが全てを語っています。
私たちが暮らす世界は原因があるから結果があります。
その原因には因果関係があるので、原因を正そうとしても、及ばないのが常。
それを受け入れてひたすら「いま、ここ、この瞬間」を精一杯生きるのが尊い。
お釈迦様の教えは、これだけです。その後、いくつもの宗派が誕生したのは、口伝であった釈尊の教えを正しく理解したい熱情の果てであり、それぞれの解釈に伴って、偶像、仏具、戒名、供養が起こり、継承されてきたのです。
これらをどうとらえるかは、それぞれの文化ではないでしょうか?あなたの文化で、すてきな供養を実現してください。
みなさんは戒名をどのようにお考えですか?
一般社団法人ゴエス協会では、戒名について最適な意見をもっています。是非ご参考にください。
戒名
戒名とは、信者、出家者が授戒(受戒)すること。
授戒したことを名前で表します。
授戒とは、遵守すべき戒めを受けること。
戒め(いましめ)とは、規律、戒律。
出家者の場合は、戒名とはいわず法号、法名といいます。
信者の場合は、一般的には死後につけていただいていますね。
しかし、本来は生きていくために遵守すべき戒めを受けること、授戒(受戒)にあります。
「宗教なんて・・・・」と吐き捨てるように言えるほど、自分が自律しているか、気にしたいものです。気にするほど道理に叶った思考回路ができるからです。
思考回路というのは、とても大事です。
世の中には「ありえへん」と思うようなことを当たり前のようにする人がいます。
それが良いことなら、良い因果関係を作ることに貢献しますが、良くないことであれば、悪い因果関係を作ってしまい負の連鎖が止まらなくなります。
受戒が自分でできるといいですね。
つまり自律です。自律できるとは真理に近づくことです。
真理に到達するために出家します。
戒名とは在りたい自分になるための名前です。
だから自分でつけたっていいのです。
大事なのは在りたい自分になるための行動を実践することです。
戒名は誓いです。
戒名のお問い合わせはこちらから
さてさて、私は死んだらどこに行くのでしょう?
法事というのは、お坊さんにお経を唱えていただいて、生きていらっしゃる方々が、亡くなった人が極楽浄土に行けるように法要してくださるありがたい行事。
天台宗(てんだいしゅう)は極楽浄土へ引導されることを祈願すると言ってますので、あの世で成仏するようです。
ところが、弘法大師は「即身成仏」と仰っています。この世に生きている間に仏になれるということです。つまり極楽に行かなくても現世で仏になれるというもの。
浄土宗では、ありのままで往生できる、それには念仏を唱えればいい。
法然上人は「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば救われると説きました。
念仏はともかく、弘法大師に似ています。
浄土真宗の親鸞聖人は生涯、法然上人の弟子であり続けようとしたので、念仏を唱えれば往生できるとしています。
日蓮宗の日蓮聖人も、この世に生きている間に仏になれると仰っています。
なので、浄土教のように、天国と地獄がある。裁きを受けて六道を輪廻転生し続けるという説もありますが、大勢は「生きている間に仏になれる」ので、自分の場合も、頑張ったので、すでに仏の領域に達していると思っています。しかもうちは天台宗でないので、良かったと思っています。
「この世に生きている間に仏になれる」に大いに賛成です。
次はどうなるかわからない、そんなギャンブル的なのは嫌です。
お寺は仏教のことを教える教室です。
しかしお寺で、勉強したことありますか?映画の話を聞いたことは在りますが(笑)
お坊さんは、法事に忙しいし、そういうものだと思い込んでいませんか?
一番大事なのは、仏教、つまり仏陀が見つけた真理を教えることです。
なので私たちは真理をそっちのけにして、法事をはじめ形、作法にこだわっていませんか。
形を大事にするのが仏教だと・・・。
それを「形骸化」といいます。
逆なんですね。真理を理解するのが大切なのです。
故人の供養も大事ですが、真理を解らず、供養しても自分は救えません。
自分を救えない人が故人を供養できないのです。
自分を愛せない人が、好きな恋人を愛せないのと同じ仕組みです。
密教が性愛を肯定したのも、同じ理由だと思います。
つまり真理を極めることです。真理を極めて成仏できるのです。
「いまここ、この瞬間に集中する」・・・言葉ではなく(学問ではなく)、体感で覚えている。つまりその状態にいまいることが覚りなのです。仏教は学問でなく、実践なのです。
顕教に対して、密教は口伝でした。
まとめ
仏壇の普及と仏教の普及はどっちが先かご存知でしたか?
実は仏壇でした。驚きですね。
「諸国の家ごとに仏舎を作り、仏像や経巻を置き、礼拝供養せよ」という天武天皇の勅が出され、これが日本の仏壇の始まりとされています。
それから55年後、奈良時代の741年・・・第45代、聖武天皇が国を守るために「諸国に国分寺・国分尼寺を建立せよ」との詔が出されました。そのシンボリックな存在として天皇・貴族・庶民が一体となって東大寺の大仏が建立され、全国にお寺が建立されました。
ここから仏教の時代が始まり、私度僧(自分で出家を宣言した僧侶)が多数、誕生します。
そこで戒律のなかった日本に唐の鑑真上人が招かれます。
形が先で、後から中身がついてくる。日本人の特性でしょうか。
コメント