「十牛図」第3図は「見牛(けんぎゅう)」です。
牛を探していた牧人が、牛の足跡を追いかけて、牛の尻尾を発見した状態が描かれています。
牧人は、とうとう探し求めている牛を発見しました。
牛は前方の岩の向こうに尻尾を出して隠れています。
牛が驚いて逃げ出さないように、牧人は足をしのばせて牛に近づいていきます。
「見牛(けんぎゅう)」は、「十牛図」を学ぶ人に対し、「なにが牛を見るのか」という問いを投げかけています。
「なにが牛を見るのか」って、日本語として、なにかへんですよね。
目で見るのでしょうか?心で見るのでしょうか?
あるいは両方で見るのでしょうか?
「なにが牛を見るのか」という問いについて、最適な答えを一緒に学びましょう。
自分探しのバイブル「十牛図」
自分探しをする人生200年時代のエクスプローラーに「十牛図」はうってつけのバイブルです。
「見牛(けんぎゅう)」は、人生200年時代を生きる若者にとって、とても重大なメッセージを投げかけています。
また現在すでに高齢期にある人にとっては、「なぜ自分は怒りっぽいのか」・・・その解答にもなっています。
あるいは、従業員の退職率が高い職場のリーダーへの解決策にもなっています。
「見牛(けんぎゅう)は、マインドフルネス瞑想している人にとっても、瞑想の対象をワイドに広げあり方を学ぶ、貴重な絵です。
自己マスタリーを高めて人生を変える動機付けにもなるので、大いにお楽しみください。
「十牛図」はエクスプローラーのバイブル
十牛図は「どう在るべきか」を教えているので、人生200年時代のエクスプローラー期に学ぶと人間力の基礎としていちばん効果を発揮します。
「見牛(けんぎゅう)」は、「十牛図」を学ぶ人に対し、「なにが牛を見るのか」という問いを投げかけています。
答えはこうです。
身体(目)と心に分けるのではなく、統一された状態で、「いま、ここ、この瞬間」に「なりきって」見るのです。
つまり無我の状態です。
とても奇異に感じるかもしれませんが、実際に自分が懸命に牛を探し求めていたら、自分のことは忘れてしまいます。
もし牛を探すことに集中できずに、自分はこれからどうなるのかと不安になっていたら、自分のことで頭がいっぱいになります。
無我の状態では、子どものように自分は忘れてしまっています。
200年の計はエクスプローラー期にあり
人生200年の計は、エクスプローラー期にあります。
かっての大量輸送社会と違い、一人ひとりがけもの道を歩む200年時代の個人に必要なのは、コアバリューです。
人としてのあり方、人間力をエクスプローラー期に見つけることができるでしょうか?年齢にすれば「社会人になる前」までです。
人生200年時代ですから、もう少し遅くまでかかっても良いとしても、それだけライフシフターとして出遅れることになります。
言葉で語れない世界
「二諦(にたい)」といって「世俗諦(せぞくたい)」と「勝義諦(しょうぎたい)」があります。
世俗諦(せぞくたい)は俗諦とも言われ、言葉が通用する表面的な真理を指します。
勝義諦(しょうぎたい)は真諦とも呼ばれ、言葉で語れない真理のことです。
人は言葉で考え、説明しようとしますが、コミュニケーションが難しいだけで、実際には言葉より先に真実を掴んでいるものです。
つまり空(くう)の世界・・・「あるようでもなく、ないようでもない」分けることができない世界にいるのです。
分別できない世界とは、ああだ、こうだと考えることのない世界です。
牛を見つけた牧人になったつもりで捉えてみましょう。
「ああ、牛が元気そうでいてくれてありがたい。」
生命の仕組みに感謝するばかりではないでしょうか。
見牛:対象になりきって観察する
無我は皆苦、無常と並んで仏教の根本教理で、以下の四つに要約されます。
諸行無常(しよぎようむじょう)・・・・・・すべてはうつり変わるもの
一切皆苦(いっさいかいく)・・・・人生は思い通りにならない
諸法無我(しょほうむが)・・・・すべては繋がりの中で変化している
涅槃寂静(ねはんじゃくじよう)・・・死んだ後の世界。静かで何もない。
これら教理の基本を一般に四法印あるいは三宝院と呼んでいます。三宝院の場合は、四つの内から「一切皆苦(いつさいかいく)」を外します。
無我とは、非我とも言われ、あらゆる事物は現象として生成しているだけであって、それ自体を根拠づける不変的な実体は存在しないという意味の仏教用語です。
私は存在していないのでしょうか?
「諸法無我」とは、どういう意味なのでしょう?
全てのものごとは影響を及ぼし合う因果関係によって成り立っていて、他と関係なしに独立して存在するものなどない、という真理です。
自分のいのちも、自分の財産も、全て自分のもののように思いますが、実はそうではありません。
世の中のあらゆるものは、全てがお互いに影響を与え合って存在しています。
自然環境と同じように、絶妙なバランスのうえに成り立っているのです。
六識と潜在意識
自分という存在すら主体的な自己として実在するものではなく、五識と言われる眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)の前五識と第六識である意識、さらに深層心理と言われる根本心と自我執着心の合計八識からなる身体ネットワークの相互依存の関係のなかで”生かされている”存在なのです。
自分とは思い込みでしかなく、いまこここの瞬間にある自分とは、「諸法無我」すべては繋がりの中で変化している対象のことなのです。
つまり読書しているなら読書する行為そのものが自分であり、スポーツしているならスポーツする行為そのものが自分なのです。
このように、自分とはすべては繋がりの中で変化している対象そのものなのです。
「十牛図」三番目の絵「見牛」とは、牛の尻尾が見えた状態で、牛の姿の全部が見えたわけではなく、牛(=本当の自分)がなにかに気づいた状態と言えます。
牛(=本当の自分)を見たのは、なりきって、なりきって、なりきって観察することを心がけている八識なのです。
まとめ
牧人がどうしても再会したかった牛の尻尾を見つけたときの喜びを想像してみてください。
・・・牛を見る日を信じて、子供のように、オリンピアンのように、期待に心身を投げ込んで、ただなりきり、なりきり、なりきって「いま、ここ、この瞬間を生きる」・・・
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