PAC交流

200年ゴエス
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すべての子どもは生まれたときから劣等感をもち、そのまま大人になることが多い。その原因は、 子どもの器官が未熟であったり、子どもが親に対して依存的、従属的な立場におかれている、などの 事実によるものである。人間の発達と活動を推し進める動機は、この生来の劣等感をなんとか克服し て、親〈他者)よりも優れた立場に立ちたいという優越への努力〈権力への意志)であると考えられ る。と説明したのは、オーストリアの精神科医、精神分析学者、心理学者。ジークムント・フロイトおよびカール・グスタフ・ユングと並んで現代のパーソナリティ理論や心理療法を確立したアルフレッド・アドラーの言葉です。

ひとは誰にでも、自我の状態として「三つの心」があり、それを互いに使い分けながら、PAC交流しています。

PACとは三つの心である親ParentのP、大人AdultのA、こどもChildのCです

  • 親の心 (Parent)
  • 大人の心 (Adult)
  • こどもの心 (Child)
三宝院沙門

こんにちは。愛が溢れる200年婚のために、歩き遍路であるべきようわを愉しむFP.アセットドクター、ゲンキポリタン三宝院沙門です。人生脚本がなぜ作られて本人の一生を支配するのか、なぜに迫って解放される方法を提案します。今回は交流分析で有名なPAC分析に迫ります。

PAC交流、三つの自我、5つの心

あなたにも3つの心があるように、交流される相手にも「三つの自我」があります。しかも「三つの自我」の強弱はひとりひとり違います。親あるいは育ててぃれたヒトのスタイルがPACには深く関係しているからです。

たとえば従順で抑える気持ちが強い子ども心を持ったヒトは、厳格な父親の心を持ったヒトとの関係性が高いからです。反対に保護的な母親の気持ちの強いヒトとの関係性が強いと無邪気な自由の子どもの心が強いヒトの性格のヒトになっているでしょう。

PACには、そのヒト特有の癖があります。
癖はライフスタイルとして他者との交流を通じて深まり、関係性で発揮されます。

  • 自分はOK,他人もOK(自己肯定、他者肯定)
  • 自分はOK,他人はNO(自己肯定、他者否定)
  • 自分はNO,他人はOK(自己否定、他者肯定)
  • 自分はNO,他人もNO(自己否定、他者否定)

ライフスタイルになった癖は、交流に影響し、ネガティブな交流が増えていくと孤立を強めて、無形資産の育成にマイナスの作用となります、具体的にはライフシフト(ワークシフト)に芳しくない影響を及ぼし、人生脚本にも悪影響を与えます。
幸福は投資したら複利で増えていくものである。アルフレッド・アドラーの言葉が反映されなくなってしまうので注意したいところです。
同じことは、アインシュタイン博士も言ってましたね。

事例で読み解くPAC交流分析

交流分析では人はすべて「一つの私」を持つとしており. それらを自我状態と呼びます。「感情および忠汚さらにはそれらに凶述した一連の行動式を総合した一つのシステム」と定義されています。すべての人には、次の三つの自我状態が備わっています。

三つの自我(心)とはPACのことです。

  • 親の心であるParentのP
  • 大人の心であるAdultのA
  • こどもの心であるChildのCです。

毎年多忙な決算期ごとに胃潰瘍の再発をくり返す四十三歳の課長山田太郎は、職場でスーパーマンといわれるほどの働き手でした。残業をしても、ほとんど仕事は自分で片づけるというタイプです。また、部下の面倒見もよく、信望も厚かった。

ところが入院すると、まるで人が変わってしまいました。充分に歩ける状態なのに車椅子を要求したり、やたらにナスコールを押し、深夜にまでナースコールで頼むことといえば「枕元のちり紙をとってくれ」などという類なのでした。
また、ときどき見舞いにくる奥さんには、食事をスプーンで口元まで運んでもらうという程の甘えん坊だった。しかんな赤子のような態度が‘患者の入院生全弘を支配しているかというとしてそうではありません。たとえば部下たちが見舞に来ると態度も一変しました。こまごまと仕事上の説明をはじめときどきアドバイスが飛びす。数分前まで見られたような甘えた子供っぽさ. 全く見られないのです。
山田太郎氏は、にわかに職責にふさわしい態度に戻っていたのです。一方で看護師さんたちには世話のやける患者とての山田太郎氏幼いわがままな子どもとて振舞っているように思えたのです。同時に部下と接する彼の態度はっかりた指導者といえるものだったのです。またかについて質するときわめて専的な意見を語るので、看護師から見れば自分たちや家庭に対する「パワハラ」ではないのかの疑う意見が出始めたのです。

交流分析では、人間のさまざまな悩みや、対人関係のトラブルは、私たちがこれら三つの状態があることに気づいていないこと、あるいはそれらのバランスが大きく崩れていること、したがってそれらを使い分けて自己コントロールする手段を身につけていないことが原因で、起こるものと考えます。

親の自我状態P:親のベアレントの略

 分の父親・母親 あるいはその分を育ててくれた人たちの感情生活、行動、思考、一連の行動様式を取り入れた(知らずに真似している部分です。
山田太郎氏のように、仕事中毒といわれたヒトの例でいうと仕事中心といわれるほど働いた‘、部下の世話をやいたりしている姿がそれです。

大人の自我状態A:アダルトの略

これは、私たちの人格の中で、物ごとを自分で冷静に判断して行動する、いわばコンピュータような働きです。仕事に関して、専門的な考えを述べたり、実際、有能な力を発揮するとき、Aが働いています。

子どもの自我状態C:チャイルドの略

自分の幼い頃にしたのと同じように、今ここで行動したり、感じたりしている状態です。山田太郎の例でいうと、病人として、奥さんや看護師さんに甘えている状態がそれです。

  • 親の心 (Parent)
  • 大人の心 (Adult)
  • こどもの心 (Child)

三つの心は物心ついた頃から生涯持ち続けます。


さらに親の自我、こどもの自我には2つずつあります。
親の自我には、厳格な父親の心と保護的な母親の心
子どもの自我には、自由で無邪気な子どもの心と、自分を抑えた従順な子どもの心があります。2つの側面があり、従順なこどもには傷ついたこどもと支配するこどもがいます。

その結果、3つの自我は、以下のように5つの自我になります。これらは親との関係性のなかで強弱のバランスになって表れます。

交流分析では、人間のさまざまな悩みや、対人関係のトラブルは、私たちがこれら三つの自我状態(5つの心)があることに気づいていないこと、あるいはそれらのバランスが大きく崩れていること、したがってそれらを使い分けて自己コントロールする手段を身につけていないことが原因で、起こるものと考えます。

ある人には、必ずといっていいほど人間関係をこじらせる癖があります。こういうヒトとの会話は、 もっともらしい話題で始まりますが、最後に、きまってどちらかが不愉快な気分で結末を迎えることになります。そこで、経過をよく観察してみると. やりとりの裏に何か別の動機や目的が 潜んでいることがわかります。

この例でいうと、母親は、もともと「私はどんなことがあっても、自 分の考えを曲げるげるつもりはないのよ」あるいは「私を変えようと思うなら、やってみるがいいわ。 絶対にあなたの苦う通りにはなりませんから」といった、頑固な態度の持ち主で‘ 買えないこと証明しないと気がすまないのです。 私は、これまで人間同士の交流の中に見られる、このような奇妙な心の癖に関わってきました。くり返し人間関係をこじらせるパターンを、欧米では「ゲーム」と呼ばれるように認識されています。この言梨は、日常会話でも広く使われてレます。

欧米人が、人間関係に関してゲームいうときには、なぜかやめられない‘おかしな対人関係の儀式を意味します。「誰かかがいやな感じを抱いたり、何らかの意味でで傷つけられたりして終る一連の交流」と定義する人もいます。ゲームを演じる人は‘ 楽しい気持の代りに怒り、憂うつ、疲労感、自己嫌慈、悲しみ といった不快な感情けを何度も何度も自分に招くというわけです。

「私はダメな人間だ」とか 「先生は役に立たない」 、あるいは「あの子はどうしょうもない」と心の中で自他否定を訴えながら、イヤな気分 にどっぷりと浸かり. ゲームという名前を付けるのはそこに一定のルールがあり、皮肉ないい方をすれば、不快感をまるで楽しんでいるかのように、いつまでもそうとしないからなのです。

人間関係の中に起こる、このような悪循環を分析し、その成り立ちゃからくり、さらに は、そこから脱却してよりよい人間関係を営む方法などについても、考えてゆきたいと思います。ゲームという言葉は、専門用語としては、交流分析ではお馴染みのものでこれには相手を陥れてやろうとする意図的な策略をはじめ、コンプレックス や性格防衛(不安による心の破綻を防ぐための心のからくりが性格的なものとして固定化したもの)に基づ く不適応な行動まで、さまざまな交流が、とくに区別されることなく含まれていました。

「あなたはゲームを演じているようですね。馬鹿馬鹿しいとは思い ませんか」といった類の指摘をしたものでした。ところが、ごく一部の方がたを除いては、私の真意 は伝わりませんでした。とくに、患者さんの場合、症状がなかなかとれなかったり、再発をくり返す ようなとき、「そろそろゲl ムをやめなくては:::」などと言うと、相手はこれを「あなたは病気の中 に逃げこんでいるのです」と嫌味でも言われたように受け取るものです。たしかに、医療の場でも、 あるいは家庭でも、問題となる人の背後には、症状や行動を通して相手を操作したいという、無意識 のからくりが働いているかもしれません。

しかし、人生脚本をそうした人びとの性格的な弱さ、あるいは、 さしあたってどうしょうもない環境上の問題から生じる無意識的な反応であることも、少なくありません。そこで、意図的な謀略とこうした不可抗力的な状態とを、よく区別して相手に接することが大切になってきます。 しかも未解決であるがゆえにあなたの人生舞台でくり返し演じられるのです。

私たち「いきいきゴエス協会」では企業や組織がどのような自我状態にあるのかをアンケート調査し分析、結果をレポートさせていただいていますが、その特徴は採用段階に面接にあると考えています。

その理由は採用決定権のあるヒトの生活的特徴が色濃く反映されているかです。それはエゴグラムにはっきり表れます。エゴグラムを参考に自我状態をさらにこまかく分類し、それぞれの性質を記したものです。これを参考にして、相手の行動を観察し、その自我状態を図式化、あるいはグラフにすると、カウンセリングや看護の上で相手のどの面に働きかけるのがよいかヒントが得られ、具体的な援助の計画を立てるのに役立ています。

 

自我と自我の3つのコミュニケーション

自分や周りの人とコミュニケーションするときは、お互い無意識に三つの心(人格)を使った言葉のキャッチボールでコミュニケーションしています。

三つの心(人格)の強弱は、同一の個人内でも固定されておらず、様々な影響を受けて変化し続けます。

しかも状況や相手で、三つの強弱のバランスは変わります。


大人になったからといって、こどもの心がなくなるワケではありません。
人によっては大人の心より、こどもの心の方が強いひともいます。

50才の人でもこどものようにハシャイだりします。
15才でも厳格な親のような心が強くなることもあります。

5才の女の子でも、年下の幼児といるときには、母親からの優しさで面倒を見ることもあれば、父親のような厳格な人格で臨むこともあります。

年齢に関係なく3つの心、つまり人格を使い分けています。

たとえば社長秘書をしている女性の場合、仕事中は大人の心(Adult)を中心にビジネスライクにテキパキと仕事を進めますが、恋人とデイトしているときは母性的な心が色濃く出るかと思えば、こどもの心(Child)を使って甘えることもあります。

しかし、その甘えは、実家で母親に甘えるこどもの心(Child)とはまた違います。

それぞれの場面にふさわしい自分、つまり親の心(Parent)、大人の心(Adult)、こどもの心(Child)を使い分けています。

自分が使い分けるように、相手も使い分けています。

両者が使い分けながらコミュニケーションしますが、相手から投げかけられた心(人格)にふさわしい心を投げ返すことで、両者はスムーズな交流を可能にしています。

これを平行的交流といいます。

しかし、状況にふさわしくないキヤッチボールになると不快感が生じることがあります。大人の理性的な心を相手の大人の理性的な人格に投げ込んだときに、こどもの自分奔放な人格が返って来たら、予想しない反応に驚きます。

次のような交流の場合は、どれも交叉していないので爽やかです。
(図:気持ちのいい交流)

気持ちの良い交流(平行的交流)

仮面的交流・交叉的交流

 

「では、この資料、明日までにお読みください」(大人→大人)

「了解しました。今日中に拝読させていただきます。

 資料作り大変だったでしょう。ありがとうございます。」(大人→大人)

「こちらこそ恐縮です。お忙しいのに、時間を作っていただきありがとうございます。よろしくお願いします。」(大人→大人)

では、この場合はどうでしょう。

「では、この資料、明日までにお読みください」(大人→大人)

と大人の人格から相手の大人の人格に投げ込んだはずが、

「何、言ってるのよ、こんないい天気なのに、明日はドライブしたいわ、ねえ行こうよ」(こども→こども)

と、こどもの人格からこちらのこどもの人格に返ってきたら受け答えにとまどいます。
それでも、この場合、違和感があっても、こじれることはありません。

大人→大人、こども→こどもというように平行的交流が続いているからです。

図:気持ちのいい交流

次のような交流の場合は爽やかです。(図:気持ちのいい交流)

「また誘ってくれますか?」(こども→親)

「いいですよ、今度来たときはご一緒しましょう」(親→こども)

こどもの心から、親の心に投げかけて、親の心からこどもの心に投げ返してくると、両者の関係は温かい交流になります。平行的交流の良い例です。

これが、次のような交流になると一変します。(図:こじれる交流)

「今度来たときはご一緒しましょう」(親→こども)

「いまはそれどころではないでしょう」(親→こども)


親の心から、子どもの心に投げかけて、親の心から子どもの心に投げ返してくると交叉します。交叉する交流は感情を害し、こじれる交流になります。

このように世の中には予め暗黙のルールがあります。
投げかけたストロークをしっかり受けとめて同じストロークで返すことで感情の行き違いを防ぎ気持ちのいい交流ができます。(図:気持ちのいい交流)

話すことも大事ですが、それ以上に相手の言葉を聴くスキルがじぶん力を高めていることが判ります。

 しかし、「親しき仲にも礼儀あり」と言うように、親しくなるほど、ルールの適用が曖昧になります。「親しき仲にも礼儀あり」が守られないのが人間くさいところです。

ビジネスシーンで、よく目にするクレームは、お客さまが親の心から、子どもの心に投げかけてきます。それに対して大人の心から相手の大人の心に投げ返すのが一般的ですが、やはり交叉してしまうので、いい感情を持つことができません。
(図2)

お客さま:随分待たすじゃないか、しっかりしろよ。早くしろ。(親→こども)

スタッフ:申し訳ございません。ご迷惑をおかけしています。今後注意します。(大人→大人)

こういう場合にお客さま同様に親の心から、こどもの心に投げ返すと、明らかに交叉しますので、火に油を注ぐような感情的な行動の応酬となります。

お客さま:随分待たすじゃないか、しっかりしろよ。早くしろ。(親→こども)

スタッフ:申し訳ございません。これでも早くしてるんですよ。(親→こども)

(前ページの図:こじれる交流のパターン)

 図2

      

 図3


同じクレームでも図3のように、親→大人、大人→大人と返すと交叉しません。

お客さま:随分待たされたけれど、スピーディに処理してくださいね。(親→大人)

スタッフ:申し訳ございません。ご迷惑をおかけしています。今後注意します。(大人→大人)

同じ注意をするにしても、感情的にならず、相手を見下すこともなく、大人としての自律の心と尊厳をもって注意した場合は気持ちよく展開します。

表面に表れるPAC交流パターンには次の3つがあります。

  • 平行的交流
  • 交叉的交流
  • 仮面的交流

仮面的な交流とは、表に出した言葉や態度とは裏腹に別の心情を持って交流を図るものです。

感情的になって乱暴な態度をとった後、冷静になって「先ほどは申し訳ありませんでした」と謝罪します。(大人→大人)

しかし、実際は心の中で“私はダメな人間です。処罰してください。” (こども→親)と考えていました。

これは、図2の大人→大人が表に出た態度で、こども→親が相手には見えない状態です。
このように表の交流と裏で起こっている交流が違う場合があります。
これが仮面的交流です。

平行になるコミュニケーションを心がけたいものですが、表面にでない交流パターンは他にも相互的交流、人格的交流、人間的交流、作為的交流、共感的交流、相補的交流、風刺的交流、功利的交流、防衛的交流などがあり、防衛的交流にはさらにいくつものパターンが内包されています。

交流分析について、「こじれる人間関係~ドラマ的交流分析(杉田峰康 著)創元社刊」に詳しく紹介されています。

さらに同著では、ひとはPAC交流とは別にドラマ的交流について記述されています。

基本的な4つの交流パターン

「人間関係(人と交流する)の構え」には、次の4パターンがあります。

  • 自分はOK,他人もOK(自己肯定、他者肯定)
  • 自分はOK,他人はNO(自己肯定、他者否定)
  • 自分はNO,他人はOK(自己否定、他者肯定)
  • 自分はNO,他人もNO(自己否定、他者否定)

人との交流パターンの違いが、「生きる構え」・・・人生脚本に根ざしています。

この内、問題を乗り越え、ストレスの少ない暮らしをしながら、自分に幸福をもたらすのは、「自分はOK,他人もOK(自己肯定、他者肯定)」だけです。

つまり、自分を否定的に捉えている人は、自分はダメな人間であることを確認する脚本を無意識に持っていてそれを人生をまるごと使って確かめるのです。
自分に用意した「人生脚本」を忠実に生きるために、「人間関係(人と交流する)の構
え」を使って、「コミュニケーション・パターン」を日々繰り返し続けています。

たとえば「自分は誰からも愛されない」脚本を自分に用意した人は、日常的に「自己否定・他者否定」の構えで、支配的人格を使ってコミュニケーションします。交叉的あるいは仮面的コミュニケーションを多用するので、家族や周囲の人はいい気持ちがしません。これを一生かけて繰り返していくことで、より重大なトラブルを作り出し、最後には、「自分は誰からも愛されない」を実現するのです。

周りの人は客観的に観て、「あんなことしていたら損なのに」と思いますが、論理を超えた行動が繰り返されます。
もしあなたが生きづらさを感じたなら、警告であり、変わるチャンスなのです。

ひとはPAC交流の基礎となる基本的な4つの交流パターンを持っています。

  • 自分はOK,他人もOK(自己肯定、他者受容)
  • 自分はOK,他人はNO(自己肯定、他者否定)
  • 自分はNO,他人はOK(自己否定、他者肯定)
  • 自分はNO,他人もNO(自己否定、他者否定)

励ましができる人の基本的な交流パターンは、「自分はOK,他人もOK」です。

自分も周りの人もそのまま肯定して受け入れることができます。
「自分はNO,他人もNO」の人は励ましが苦手でオープンな交流が苦手です。

人は誰しも以上の4つのどれかを基本的な交流パターンとして持っていますが、この交流パターンの上に三つの心を乗せた交流します。

ですから、「自分はOK,他人もOK」の構えのひとは平行する交流を自然に行えますが、「自分はNO,他人もNO」の構えのひとは平行する交流が苦手なため、どうしても交叉させてしまいがちで、特に親しいひとの間では顕著です。

そのため、構えはさらに複雑化する一方、より明確な構えが出来上がっていきます。

基本交流パターン+PAC交流パターン=人生の構え

 人生の構えにおいて人は、自分と周囲の人を巻き込んで、犠牲者、加害者、支配者などの役割をそれぞれ設定し、ドラマのようにストーリーのある展開と関係を無意識に作り上げます。

 
 ストーリーのある展開には、目的があり、その目的が達成されるように、仕掛け、役者(役割)、平行的交流、交叉的交流、主役の登場(加害者と犠牲者)、混乱、結末(破綻)と進んでいき、目的(破綻)が達成される手はずになっています。

目的が破綻になっているのは、展開のプロセスに交叉的交流が含まれているからです。

交叉的交流が物語のクライマックスに待ち受けています。


アクション映画には正義のヒーローが登場しますが、悪者がいないとストーリーが成立しません。それと同じく破綻のストーリーにつきあう相性のよいひとが存在しないと、ストーリーは作れません。

たとえば好きなタレントはと聞くと、それぞれに答えが返ってきます。

惹かれる理由は自分でも分からず言葉で説明できないことが多いものですが、人の背景にある「生きる構え」から発信するそれぞれのオーラを嗅ぎ付けて接近しているのです。

類は類を呼ぶと言います。見た目は全く類が違うようでも、内面的に同類あるいはプラスとマイナスの関係にあります。

 DV (ドメスティック・バイオレンスdomestic violence)とは、同居関係にある配偶者内縁関係両親兄弟親戚などの家族から受ける家庭内暴力のことですが、親を選べないこどもの場合は仕方がないとして、配偶者の場合は選べます。

つまり相性が合うから選んでいるといえます。

 以前はそんなことはなかったとよく聞きますが、その兆候は性格の一端として以前からもあったのが一般的です。配偶者として選ばない人は、惹かれるものがなく交際もしていないわけです。
 この段階の人間関係は、なぜか惹かれる、惹かれないという無意識のレベルですが、無意識も意識の内なので、惹かれないひとはDV性も含めて惹かれていないのです。

つまり磁気のように惹きつけあう要素があって配偶者を選んでいます。

それと同じように破綻のストーリーの役割を担うために参加してきます。

破綻のストーリーはたくさんありますが、次のような一例があります。

▼ 事例「私を捕まえてくれ」

  • 目的     捕まって自己否定の構えを自己認識して、さらに傾向を強くする
  • 仕掛け    規則違反、ルール無視、盗み、暴走、浮気など
  •        捕まえられるためになにか手がかりを残す
  • 参加者(カモ) 管理者、教師、警官、親、配偶者など
  • 平行的交流  相手(こども、配偶者、従業員など)の言いなりになっている間
  • 交叉的交流  犯罪の発覚、犯罪者の怒り、感情の行動化、自己認識の動き
  • 混乱     なぜ、わざわざ捕まるようなことをするのか?(説明がつかない)
  • 結末     無念(自己肯定の失敗)、安堵感(自己処罰による罪悪感からの解放)
  • この事例は、件数的に非常に多いもので、特に10代の若者に多発します。

親離れなどの問題を抱え自己認識の欲求が高くなり、万引き、窃盗などこの種の犯罪は後を絶ちません。

 当事者が(広義の)罪の意識に苛まれ、自分を認識するために起こしている破綻ストーリーで、処罰欲求に支配された行動への対処は、心理療養士のようなプロフェッショナルにとっても非常な困難を強いられます。治療するほど悪くなることも多いものです。


自己認識、より確かな自分を獲得したいがための行動の反面、自己否定感が強いため、処罰されることを求めてしまうのです。処罰されることで安堵感を獲得しています。

わざわざ手がかりとなる証拠を残しているのは、処罰されることで罪の意識から解放されるメカニズムが働いているからです。

このストーリーの参加者として名をつらねるひとをカモというのは、心理的、物質的に搾取される役割を演じてしまうからです。

もちろん本人は意識していませんが、主役の目的と相性が合うのです。

相性が合わない人は、参加機会があっても参加意欲がないので、参加することがありません。

ギャンブルに参加して勝つことは稀です。

勝ったにしても儲けたお金で事業を始めて成功したという話も聞きません。

どっちにしてもワリの合わないことなので、理性的なひとなら参加意欲が湧きません。

つまり熱心にギャンブルに励んでいるひとは自己処罰が目的と考えられることもできます。

▼ 事例「泥棒に追い銭」

これは、銭的に何度も被告を受けなが‘続われると、またお金を与えてしま、おかしな癖のある人の流です

  • 目的     大損をして自分の愚かさを嘆く
  • 仕掛け    困っています。助けてください。遊興にお金を使い果たす
  • 参加者(カモ) 暖かい交流を求めているひと、自然なこどもを取り戻したい
  • 平行的交流  債権者がお金を都合したり、真面目に働いている間
  • 交叉的交流  催促するなど、返済を迫ったとき
  • 混乱     泣き落とし、加害者と被害者の入れ替わり、周囲の批判
  • 結末     損失、(またやられた!)自己嫌悪、尻拭い
  • この事例は、主演級がふたり揃って演じることの多いストーリーです。

遊興に明け暮れお金の無心を繰り返す部下に、心入れ替えて頑張ってくれたらと親心が働いて、ついつい言いなりにお金を貸し続けるものの、結局は何も変わらず、お金だけが消えたというストーリーです。

私は以前、この関係を聞いたときに、カモの役をしている社長に「あなたは言いなりにお金を貸しているが、彼が変わる可能性は99%ないと断言する。他のひとが社長の立場だったら解雇していますよ。こんな関係には絶対にならない。」と忠告したものです。しかし社長は懲りもせず続けました。
結局、会社は倒産しましたが、部下であった彼にも責任を免れることができません。

 社長が言いなりになった遠因は、幼くして孤児になり、田畑の野菜を引き抜いて空腹を満たしながら独学で苦労を重ねて、地域の名士になるほど頑張った裏に、満たされなかったこども心があったのです。

暖かい父のぬくもりを部下に投影して自分が父親役を果たすことで満たそうとしていたのです。

私が「他のひとが社長の立場だったら解雇していますよ。」と言ったのは、満たされなかったこども心で判断しないひとならこんなスキは与えないという意味です。

問題ある部下がその心中を真に理解して、社長の望みを具現化したなら、両者ともにWIN-WINの関係で幸福感に満たされたわけですが、目的が自己否定にある限り悲劇的な結末しかなかったのです。

普通なら「バカもん、真面目に働け」で終わってしまう話ですが、互いの甘さを感じ取って「惹かれ合った」わけです。

社長もまた自己否定に苛まれながら努力をしてきたわけで、倒産という悲劇はストーリーの結末として最初から用意されていたと言えます。

交叉的交流が起こるのは、自分または他者を否定する意識が働いているからです。

つまり否定を表面化するために用意周到に準備したストーリーといえます。

まったくもって勿体ない話で、もっと建設的なことにエネルギーを注いだ方がマシですが、思うようにいかないのが切ないですね。

それにしても、破綻のストーリーは一体どのようにして準備されるのか、不思議に思われるかも知れませんが、種を明かせば簡単です。
たいていモデルが身近にいます。親の人生の再現などがそうです。

多少役者が入れ替わってもドラマに必要な役割を身近なひとがこなしています。
感覚的にしっくりするのでしょうね。

実に巧みに意図を感じさせずに、同じようなストーリーが組み立てられます。

私は、鮭をあるいはペンギンを思い出します。

海で育った鮭たちは、約束守るかのように、決まって北国の生まれた川めざして冷たい流れをさかのぼります。

生命の神秘を感じますが、ひとが無意識に創り上げるストーリーは、これに似ているような気がしてなりません。

 こどもの頃の真実は大人になったいまも真実ではありません。

それが分かっていたら、破綻のストーリーは捨てて、自己実現のストーリーを手にしたほうが楽しいわけです。

 破綻のストーリーを避ける人が、自分はOK,他人もOK(自己肯定、他者受容)のひとなのです。
そして私たちは何としてでもよりよい自分のストーリーを描くべきです。

それは自分ひとりでは済まないことだからです。

 それには「自分はOK,他人もOK」の構えに創り直すことです。

創り直す手順は簡単です。

なにも考えずに「自分はOK,他人もOK」と思い込めばいいのです。

思い込むか、思い込まない、思い込めないは自分の選択です。

思い込んだら、後は一直線で「自分はOK,他人もOK」、だからできるまでやり抜いて自己実現しましょうが最適なのです。

ストーリーの創り直しは、「自分はOK,他人もOK」を旗印に、じぶん力再生から始め、自分の成長をやり直します。
親や身近な誰かの人生をなぞるのではなく新たに自分に最適な物語を作り直すのです。


 つまり、三つの心を味方にして最大化にベクトルを合わせ「じぶん力」を使い、ライフスキルの章で説明した「7つのゴールデンルール」を実行することで作り直します。

ゴールデンルールへの取り組みは、じぶんストーリーの書き換え作業のはじまりです。

モチベーションを引き出す人は、親、大人、こども、三つの人格からマイナス面は使わないように注意して、良い面を使おうとします。

親(父・母)の心からは、

  • 相手に対する尊敬と信頼でモチベーションを引き出すことができます。(信頼)
  • 具体的
  • プロセス重視

大人の心からは、

  • 目的志向(集中力)
  • 聴き上手(対等感)
  • 大局で考える(楽しく我慢ができる)


こどもの心からは、

  • ユーモア

統合された心からは

  • 楽観的(ポジティブ)

モチベーションを上手に引き出すことができる人は、自分と他者の間に価値観、意見などの違いがあることを認めることができます。
自分も周りの人も同じように尊重した上で、三つの心を状況と人に応じ、適切に使い分けながらコミュニケーションができるスキルを身につけています

人生の方程式

人生の方程式はとてもシンプルです。精進ー阻害要因(障害)=成果(結末)です。
ほとんどの場合。阻害要因となっているのは自分自身であり、自分が正しく対処すれば望む結果に近いものが得られます。

ブッダは、「四諦」と言う避けがたい苦しみをアプローチして、その解決方法であり「八正道」も提案されました。およそ2500年前です。以来多くのヒトがその教えを広めようとしてきましたが、時代は進むほどの教えと離れるばかりです。

ゲンキポリタン大学


「ゲンキポリタン大学」では、「社会人基礎力」をコアに<人生100年時代の曼荼羅>を描くように、ライフシフトをバックアップするさまざまな講座を、さまざまな方を対象に、さまざまな形態で開催しています。ご都合に合わせた形態をお選びください。

「社会人基礎力」(全6回)

GTD®勉強会

 

 

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