「十牛図」3枚目の絵「見牛(けんぎゅう)」では、ふと顔をあげてみると牛の姿が目に入ります。
しかし、牛はまだ一部しか見えません。
まだ一部しか見えないのが「見牛」のポイントです。
牛に「気づく」
「禅」では「気づき」がとても重要です。
「気づき」は行動の動機付けになるからです。
禅、仏教で伝えようとする「気づき」は、生きることのあれこれは頭で理解すればよしとするものではなく、行動で触れることが目的なのです。
悟りとは、気づいたことを「行動」(実践)することです。
つまり人生の智慧とは、表面的なことではなく、行動の底辺にあるものです。
しかし、みんなが気づくわけではありません。
そこで「公案」という気づかせることを目的とした質問を投げかけます。
そこにいる=気づきの瞬間=いまここに
「十牛図」3枚目の絵「見牛」の問いは、「なにが牛を見るのか」です。
ふと顔をあげてみると、牛の姿が目に入った瞬間を想像してみてください。
牛の姿が一部ですが目に入った瞬間、そこにいると思います。
つまり次の5枚目の絵「得牛」の瞬間になります。
「見牛」と「得牛」は、ほぼ同時に起こったと言えるのではないでしょうか。
つまり「見牛」の気づきが「得牛」という行動に駆り立てました。
もし「見牛」の気づきあっても、気づきで止まっていたら行動に進みません。
私たちは、知っただけで、終わっているケースってないでしょうか?
「それは知ってます」とは自慢気に言うけど、行動しない人って多いですよね。
得牛できない人です。
牛は、自分です。
見牛の段階で、全体像に近づけば近づくほど、修行を積めば積むほど、遠くにぼんやりと見えていた本来の自己が「いまここ」にはっきりとします。
まとめ
「十牛図」見牛の本質は、そこにいると知った瞬間、心の底では「いまここ」にいることになります。気づいた自分を知ることにあります。
そこに見牛の意味があり、同時に得牛に発展します。
もし見牛しても、得牛に発展しないのなら、見牛の価値はなくなってしまいます。
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