誰も言わなかった禅「十牛図」三の見牛(けんぎゅう)

見牛 十牛図
この記事は約9分で読めます。
誰も言わなかった禅「十牛図」二の見跡(けんせき)
「十牛図」見跡の本質は、「いまの自分」が存在することに気づいた状態です。気づけば行動する。禅の鉄則です。「いまの自分(=本当の自分)」に自分らしさの良さを体感するには、具体的な行動が必要です。空想と想像で書かれた人生脚本の支配から解放、執着から離れるにが、いまの自分が書いたライフプランを掲げて達成に邁進する必要があります。具体的な行動を通じて「いまの自分」の良さを解ることができます。

十牛図(じゅうぎゅうず)は,十牛禅図(じゅうぎゅうぜんず)牧牛図ともいい、10枚の図と詩で表したもの約900年前,中国北宋時代の臨済宗楊岐派の禅僧・廓庵(かくあん)和尚によって書かれた「悟り」に至る禅の入門書として使用されています。
十牛図では、真の自己を尋ねる旅を、牛を探してゆく道として表しています。

1,尋牛 (じんぎゅう) ・・・・・・・・・・牛を探しに旅に出る  
2.見跡 (けんせき) ・・・・・・・・・・・牛の足跡を見つける  
3.見牛 (けんぎゅう) ・・・・・・・・・・ようやく牛を見つける  
4.得牛 (とくぎゅう) ・・・・・・・・・・野生の牛はすぐに暴れ出す  
5.牧牛 (ぼくぎゅう) ・・・・・・・・・・暴れる牛をいかに飼い馴らすか  
6.騎牛帰家 (きぎゅうきか) ・・・・・・・牛に乗って故郷に帰る  
7.忘牛存人 (ぼうぎゅうそんにん) ・・・・ 飼い馴らした牛は忘れてしまっていい  
8.人牛倶忘 (じんぎゅうぐぼう) ・・・・・人も牛もいないゼロの世界  
9.返本還源 (へんぽんげんげん) ・・・・・無の世界から有の世界へ還る  
10.入鄽垂手 (にってんすいしゅ) ・・・・・町に出て人々のために働く

10枚の絵とそれぞれ漢文の「序(じょ)」と、漢詩の「頌(じゅ)」があります。
漢詩の「頌(じゅ)」は、廓庵師遠(かくあんしおん)禅師が作り、漢文の「序(じょ)」は、慈遠(じおん)禅師がのちに付けました。  

  声より得入し、見処源に逢う。

「十牛図」3枚目の絵「見牛(けんぎゅう)」には、上の詞がついています。
音に誘われ、ふと顔をあげれば目の前に牛がいる。
ちなみに江戸中期の名僧、白隠禅師(1686~1769)は悟りを開いた瞬間は、遠い寺の鐘が宇宙を揺るがすような音に聞こえた時だという。
しかし、牛はまだ一部しか見えません。まだ一部しか見えないのが「見牛」のポイントです。

三宝院沙門
三宝院沙門

何が何でも愛する人を応援するために生きて、生きて、生き抜いて、働き、愛することをやり遂げて、あとは「地獄で待ってるぜ」と言い残して天国で待っててやろうとするゲンキポリタン三宝院沙門のZEN入門です。200年婚を突き抜けるゲンキポリタン三宝院沙門が、3倍とんがる!モチベーションで歩き遍路とライフシフトで『あるべきようわ』を愉しみ、

が、「十牛図」を解説します。

牛に「気づく」エゴを手放す

見牛

「禅」では「気づき」がとても重要です。
「気づき」は行動の動機付けになるからです。

禅、仏教で伝えようとする「気づき」は、生きることのあれこれは頭で理解すればよしとするものではなく、行動で触れることが目的なのです。
気づきのレベルがあがるほど、自分への信頼のレベルもアップします。

悟りとは、気づいたことを「行動」(実践)することです。


人生の智慧とは、表面的なことではなく、行動の底辺にあるものです。

しかし、みんなが気づくわけではありません。
そこで「公案」という気づかせることを目的とした質問を投げかけます。

公案とは、禅宗で、悟りを得るために与えて工夫をさせる問題。
自分に気づいたのは自分の①霊体・②物質体・③感情体・④精神体のでどれでしょう?どちらにせよ、エゴを手放さないと自分にアクセスできません。自分の行動がエゴに支配されている限り、過去に束縛され、過去の傷を忘れるために必要なことを知っているので、本当の自分に会いたいと望んでも叶えないことを認識することを阻害するので、見跡、見牛どまりなのです。過去に縛り付け未来に不安を与えて創造から遠ざけます。

エゴを捨てて、愛に出会う


一部しか見えないのが「見牛」のポイントだと先述しましたが、なぜだかわかりますか?自分の感情や精神に対してハートで理解している人はほとんどいないのが現実だからです。もしあなたが他者に優位に立つことを捨て去ってハートで行動すれば、つまり自分の感情は自分の責任だと引き受けて行動すれば牛はその姿をよりあなたの脳裏に鮮明に映し出すでしょう。
 
あるがままの自分に気づくとは、エゴが覆い隠している弱くて醜い情けない自分に気づくことです。心を癒すには、①霊体・②物質体・③感情体・④精神体のそれぞれが纏っているエゴを手放さないとできないのです。
仏教に「放下著(ほうげじゃく)」という言葉があります。煩悩妄想はいうに及ばず、仏や悟りまでも捨て去る、すべての執着を捨て去れ、すべてを放下せよ!という意味です。
 
禅の逸話に「放下著(ほうげじゃく)」に因んだお話があります。
本来無一物」=(全てに対する執着を捨て切った)お悟りを自負する弟子の厳陽尊者は、師匠である趙州和尚に尋ねました。「私は全てを捨てて、もはや拘泥する何ものをも、もっておりません。この先どんな修行をすれば良いのでしょう?」と。すると師匠は間髪入れず「捨て去ってしまえ!」。弟子は納得のゆかず「一体何を?」。最後には「その、なにもない、との意識をどこまでも担いで行け!」と一喝されたのです。
とかく過去への未練やプライド、培ってきた思い込み、先入観、苦手意識が楔(くさび)となり、言い訳となって、新たな自分への脱皮を妨げ、自分で自分を苦しめてしまう私達はエゴの塊です。
 
自分に対峙しようとすれば、エゴがぶら下がっている自分を切り離さないと本当の自分に出会えないのです。

エゴを断ち切らないと人生を楽しむことは未来永劫できないのです。
生きることは愛に他なりません。

自分を愛したければ人生を体験することです。

 

そこにいる=気づきの瞬間=いまここに

miushi「十牛図」3枚目の絵「見牛」の問いは、「なにが牛を見るのか」です。
なにが。。。私が本当の私を見ている、

ふと顔をあげてみると、牛の姿が目に入った瞬間を想像してみてください。

牛の姿が一部ですが目に入った瞬間、そこにいると思います。

そこにいると思った瞬間、心の底では「いまここ」にいることになります。

つまり次の5枚目の絵「得牛」の瞬間になります。

「見牛」と「得牛」は、ほぼ同時に起こったと言えるのではないでしょうか。

「いまここに!」と反応できた心が牛を見たのです。

つまり「見牛」の気づきが「得牛」という行動に駆り立てました。
もし「見牛」の気づきあっても、気づきで止まっていたら行動に進みません。

私たちは、知っただけで、終わっているケースってないでしょうか?
「それは身体が知ってます」とは自慢気に言うけど、行動しない人って多いですよね。
得牛できない人です。

 第三図「見牛」(けんぎゅう)は、牛の足跡をたどってきた牧人がついに牛の尻尾を発見した瞬間を描いています。自分の追い求めていたものが、決して幻想ではなく、確かな実在として目の前に現れて来たのです。仕事であれ、恋愛であれ、本気で物事に取り組んだことのない人間には、この喜びは到底分からない。

牛は、自分です。
見牛の段階で、全体像に近づけば近づくほど、修行を積めば積むほど、遠くにぼんやりと見えていた本来の自己が「いまここ」にはっきりとします。

目的がはっきりすると、強いる生き方ではなく、手放す生き方に変わります。

牛の足跡を追ううちに、ついに牛を見つけました。
仕事を続けるうちに、最初の壁もしくは修羅場に当たります。
これはさらなる成長のために乗り越えるべき“何か”です。

たとえばライフプラン、ライフシフトの経験を通じて私は成長するのかと質問を続けることです。

「十牛図」見牛の本質は、そこにいると知った瞬間、心の底では「いまここ」にいることになります。気づいた自分を知ることにあります。

気づけば行動する。禅の鉄則です。
人生脚本に支配されている自分に気づくことは、人生脚本から解放される自分を実践することです。人生の成功とは何か?何が幸せなのか?無分別智に答えはあります。

そこに見牛の意味があり、同時に得牛に発展します。
もし見牛しても、得牛に発展しないのなら、見牛の価値はなくなってしまいます。

真理

自分を愛する

責任を引き受けることは、決断し行動して結果を引き受けることです。それが生きることです。

自分を愛するとは、いろんな経験を通じて学ぶことを自分に許すことです。それが万人に通じる愛の法則です。

まとめ

悟りに至る10のステップ

気づき」は、知ることでも、理解するものでもなく、行動で気づくことなの愛の法則を知った上で、人生を生きるとはどういうことなのか。それを理解しない限り、牛の全体を見ることとはできません。十牛図は真に生きること、愛することために気づくことが目的なのです。

真に生きること、愛することがなければ、「十牛図」をいくらこねくり縄しても意味を為さないのです。しかし三枚目の絵「見牛」で牛の全体像は見ることはできなかったにしろ、真に生きること、愛への理解があれば、あと少しで牛は姿を見せます。この「見牛」は見逃されやすいのですがとても重要な絵です。
「十牛図」は人生や愛への思い違いを気づかせ、限りなくなく、とても素晴らしい十枚の絵なのです。

 
いきいきゴエスのファイナンシャルプランニング
100年ライフお金のゴエス|マインドフルネスなライフプランの手順
お客様を決して孤立させないのが、マインドフルネスなファイナンシャルプランニングの特長です。FP(ファイナンシャルプランナー)は、資産の最大化を目的とする投資アドバイザーとは異なっています。人生100年時代を生きるライフプランの伴走者です。お客様と協働するライフプラン7つの手順をご紹介します。

ゲンキポリタン大学

般若のゴエス

「ゲンキポリタン大学」では、「社会人基礎力」をコアに<人生100年時代の曼荼羅>を描くように、ライフシフトをバックアップするさまざまな講座を、さまざまな方を対象に、さまざまな形態で開催しています。

「社会人基礎力」(全6回)

GTD®勉強会

カウンセリング

マインドフルネス 不器用女子の好き避けライフ ライフスキル2.0
アサーティブ ライフプラン&ライフシフト 整理収納(整理・整頓・清掃・清潔・習慣のゴエス)

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました