ゴエス①整理②整頓③清掃④清潔⑤習慣はすべてのルーティンの源で、以下のように基準は7つの関係にあります。
お粥さんプロジェクト
『お粥さんプロジェクト』は「分かち愛(自利利他)」がコンセプトです。
最小単位は「パートナーとふたり」で、パートナーとシェアして暮らす200年婚です。
200年生きられるかどうかは知りませんが、こんにちの年金騒動は、現状が続くという想定をしてしまったのが原因です。繰り下げ支払いをしても追いつかない<人生100年時代>を想定できなかったことに起因します。すでにこの先<人生120年時代>は現実になっているし、戦争でもない限り医療の発達に支えられてますます寿命は延びるでしょう。
しかし平均寿命が何歳になっても、ヒトは生きられるのは「いま、ここ、この瞬間」に変わりはありません。『お粥さんプロジェクト』は、あるがままに暮らすことで、「いま、ここ、この瞬間」がエンドレスにワンダフルになるように調えます。
週4日勤務を実現する違いのある人のお粥さんプロジェクト
- もともとのいのちが歓ぶように
- ストレスのない暮らしをするために
- 毎日が自分らしく
- 自分であるために
- モノを少なくして
- 整理整頓を簡素化する
- 夜には片づけて
- 朝は最小限のモノで迎え
- お粥さんで毎日の日課を整え
- 無駄を最小限にして
- 衣食住、情報から生じるストレスを最小限にする暮らし方を励行
- 頭の中の「やりかけの仕事」を全部書き出して意議的に把握・実行
- 呼吸を整え
- 200年愛しても愛し足らない200年婚を愉しみ
- ライフシフトの準備を整え
- ライフプランを実践して
- エンドレスにワンダフルなあり方を子育てに反映する
「もともとのいのち」とつなぐ食事作法
禅宗の僧侶は、時計を持っていません。すべての行事は鐘、木版、雲版、魚鼓、大雷など鳴らし物の音によって行動します。食事をする場合は、雲版の音で僧堂に集まります。食事をする僧堂は雲堂、坐禅堂と呼ばれる坐禅、読経、寝室になる雲水の修行生活の場所です。
僧堂に到着した雲水が坐る場所は、入門順に定められていて、自分が坐禅する畳の前にきたら、まず合掌一礼、次に反対側にも合掌一礼。<隣位問訊(りんいもんじん)><対座問訊(たいざもんじん)>という坐るときの両隣の人への作法(挨拶)です。
居ても居なくても行う無言の作法で、 坐禅をするときも同様です。
その後「単」の上に上がって足元を整え壁に向かって坐禅をして給仕を待ちます。
「単」とは各自が坐禅する畳のことで、「坐って半畳、寝て一畳」といわれるように、畳一枚の場所が生活の場です。
食器(応量器)は自分の棚から僧堂まで運びます。魚鼓、大雷が鳴ったら、給仕の準備ができた合図です。給仕をする浄人が十分な量を給仕した時点で、手のひらを上にむけて、「適量です」と意思を伝えます。一度給仕していただいた量は残さずにいただきます。食べきれない量は最初から給仕していただかないのが作法です。食事中は坐禅の姿勢を保ちます。
禅寺では、食べることも修行です。食事の前後に「いただきます」と「ごちそうさまでした」と声に出して感謝を表すだけでなく、掘り下げてみるのも愉しみですね。
「無分別」といい分け隔てしないことを大切にしています。
すべての食べ物に差をつけず、いのちに差をつけずに同じようにありがたくいただきます。
そこには、太古の昔から続く、我が身のいのちへの感謝があります。
一つには功の多少を計り 彼の来処を量る
二つには己が徳行の 全欠を忖って供に応ず
三つには心を防ぎ過を離るることは 貪等を宗とす
四つには正に良薬を事とするは 形枯を療ぜんが為なり
五つには成道の為の故に 今此の食を受く
食材の命の尊さと、かけられた多くの手間と苦労に思いをめぐらせよう
この食事をいただくに値する正しき行いをなそうと努めているか反省しよう
むさぼり、怒り、愚かさなど過ちにつながる迷いの心を誡めていただこう
欲望を満たすためではなく健康を保つための良き薬として受け止めよう
皆で共に仏道を成すことを願い、ありがたくこの食事をいただきましょう
ながらをせずに、集中しましょう。
集中するときだと、自分に知らせましょう。
雲水たちが食事をするときに、雲版の音で僧堂に集まるように、自分だけの合図を作りましょう。
食べることは修行であるように、いのちを磨きましょう。
「洗鉢」の習慣
ご飯を食べ終わったら、後片づけをして、使った食器をきれいに洗い、次の準備をするのが大切です。そこで速やかに次の準備に入れるように「洗鉢」の習慣を取り入れましょう。
雲水はその水も桶に集めて僧堂の近くに流れる小川に還します。
鉢に残った最後の一滴も<折水の偈(せっすいのげ)>を唱えながら有り難く頂きます。
私たちは雲水ではないので、全部真似することは、ありません。
しかし、食材に感謝し、礼節を持って食事の準備をして、感謝していただく。食べ終われば負担のないように、各自が自分で食器を片づけ、次の準備をしておく。決して食事に限ったことではなく、あらゆることに通じる態度です。
毎回がそうである200年と自堕落な200年では、違いが出て当然です。食べることはすべてに通じるだけでなく、もっとも堪える作業です。なのでどんどん便利さを求めますが、求めるほどに自分力を失っています。
自分の法則
禅寺の食事の作法は、慣れるまでの雲水にとって悩みの種です。
来る日も、来る日も、朝・昼・晩の三食を通して一般社会の慣習を断ち切るのには良い洗礼です。
ヒトは自分の内部の法則によってしか動けません。
なので他人を自分の意のままに動かすことができません。
自分ですら、幼児期からの習慣で積み上げてきた、自分の内部にある法則でしか動かせないのです。
コンビニエンスを求めれば求めるほど、自分がどんどんコンビニになりきり、軽薄短小になっていきます。面倒を愉しみ、地に脚をつけた自分になればなるほど、自分の法則がしっかり確立されていきます。どうなるか。お分かりですよね。
一挙手一投足に気を配る三食を通して自分の法則、思考回路を刷新します。
「たかが」に心を配れる力が200年婚を「し合わせ」に導きます。
200年婚を「し合わせ」に導く力が、ライフスキル、ライフプラン、ライフデザイン、金融資産、無形資産を育み、自由で豊かなライフシフトを実現して、エンドレスにワンダフルなライフステージをバトンタッチする力になります。それもこれも「たかが」で始まり、「たかが」で終わります。
プロポーズしたとき、「たがか私ですよ。」と彼女はつぶやきました。
「たかが私を、自分になりきって、自分を使い切るまで、応援したいのです」と返しました。
たかが200年を一緒に過ごしたいのです。たかがボクのライフスタイルです。
食べることは「たかが」の宝庫
曹洞宗の開祖、道元禅師が著した「典座教訓」にこんな言葉があります。
「大海も一滴一滴が集まってできているのであるから、ほんのわずかのことでも他人にまかせてはならないし、また、山のように高い善根を積み重ねることにおいても、大山はひとつまみほ.どの土が績もり積もつて成ったものに外ならないのであるから、高い山のひとつまみの土ほどの小さなことでも、自分で積み重ねなければいけないのではないか」
「たかが」に気を配ることは、一滴の水を注ぐことです。それをおざなりにしたら大海も、大山もありません。食事にはこれまで気に留めなかった「たかが」がたくさんあるはずです。
食べることは「たかが」の宝庫です。
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