明恵上人・恋慕の行方/恐怖と罪悪感を超えて

世界遺産・高山寺 200年ゴエス
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鳥獣戯画で有名な京都栂尾山に佇む・世界遺産「高山寺」を興した明恵上人はあったこともないお釈迦様しかも仏像に恋慕し「あるべきようは」に生涯こだわり続けました。9歳で両親を亡くし見捨てられる恐怖心を釈尊の仏像に癒され、木彫りの狗児(子犬)に両親の生まれ変わりを感じ、そのプロセスで罪悪感から耳をそぎ落とし痛みに耐えながらお経を唱え続けたといいます。

三宝院沙門
三宝院沙門

こんにちは。毎日がひなまつりの200年婚のために、3倍とんがる!モチベーションで歩き遍路で『あるべきようわ』を愉しむFP.アセットドクター、ゲンキポリタン三宝院沙門です。

望むことと信じることの違い

あるべきようわ。

『恋慕のプロ』の矜持
本当に恋愛経験のある方なら解るだろうと思いますが、朝から夜までずっと相手のことを考えたり、もっと相手を知りたい、仲良くしたいと思います。喉が渇いてとてつもなく心苦しいほどに、お釈迦様に会いたくて会いたくて、お釈迦様への思いと更なる信仰心が生じる。恋慕とはそういうものであり、信じる、信仰心とはそういうものです。これが望むと信じる違いです。

恋慕とは一般に異性に対して使う表現だと思いますが、必ずしも特定した言葉ではなく「愛は愛」であり、愛の状態を表現したものです。

ある時、旅に出た明恵は、旅先から普段拝んでいる釈迦如来の仏像に対して手紙を送ります。
わずかな期間だと思ってあなた(釈迦如来)の元から離れていますが、いったいどうしていらっしゃるでしょうか。私(明恵)が山に帰れない間は、私の代わりにあなたのお世話は性憲(弟子)に頼んでいますので心配しないでください。早く帰ってあなたに会いたいと思っています。普賢菩薩も私と同じ考えだと思っています。あなたのことをとても恋しく思っています。大聖慈父釈迦牟尼如来御宝前

本当に恋愛経験のある方なら解るだろうと思いますが、朝から夜までずっと相手のことを考えたり、もっと相手を知りたい、会いたい、顔が見たい、仲良くしたいと思う。喉が渇いてとてつもなく心苦しいほどに、お釈迦様に会いたくて会いたくて、お釈迦様への思いと更なる信仰心が生じる。恋慕とはそういうものであり、信じる、信仰心とはそういうものです。
これが望むと信じる違いです。

明恵(みょうえ)は、鎌倉時代前期の華厳宗。法諱は高弁(こうべん)。明恵上人・栂尾(とがのお)上人とも呼ばれました。父は平重国。母は湯浅宗重の四女。現在の和歌山県有田川町出身。華厳宗中興の祖と称されます。

治承4年(1180年)、9歳にして両親を失い、翌年、高雄山神護寺に文覚の弟子で叔父の上覚に師事(のち、文覚にも師事)、華厳五教章倶舎頌を読んだ。文治4年(1188年)に出家、東大寺具足戒を受けます。法諱は成弁(のちに高弁に改名)。仁和寺真言密教を実尊や興然に、東大寺の尊勝院で華厳宗倶舎宗の教学を景雅や聖詮に、悉曇を尊印に、禅を栄西に学び、将来を嘱望されました。20歳前後の明恵は入門書の類を数多く筆写しています。

目に見えない世界

善財童子

善財童子

善知識を訪ねる途中、善財童子が善知識について確かめた言葉です。

善知識を訪ねる途中、善財童子が善知識について確かめた言葉です。

善知識を訪ねる途中、善財童子が善知識について確かめた言葉です。
善知識は夜空に輝く月のようなものである。清らかな教えという光明を放って、私たちのさまざまな迷いの熱悩を冷まし取り除いてくれる。

明恵は、1173年に紀州に生まれた鎌倉時代の僧侶です。幼いころに両親を亡くし、仏門に入ったことから、お釈迦様を父と崇め、「仏眼仏母」の仏画を母と慕い続けました。
僧侶は、頭を剃って粗末な法衣を着用していますが、そうすることに誇りと慢心が潜んでいることに、お釈迦様(釈尊)に対する尊敬の思い、憧れから自分を許せなくなり、右耳を削ぎ落とし「無耳法師」と名乗ったという過激な経歴の持ち主でもありました。純真に一途にもっと釈迦如来に近づきたい願いから耳を切ることを決断したのです。本当に純真に一途だったからでしょうか?そうではないと思います。超意識がそうさせたのではないでしょうか。

そして、その痛みに耐えながら仏眼仏母尊の宝前で釈迦如来に祈っていると眼前に文殊菩薩が現れるという体験をします。超意識からの返答です。罪悪感を持ち続けることはあなたのために良くないですよ。というメッセージです。

私たちは目に見える世界だけを信じる傾向がありますが、実際には目に見えない世界があります。誰でも日夜コミュニケーションを取ろうと苦慮しています。超意識は言語を超えて察知しています。ところが目に見えない世界のことは言語化するのが難しいので抑圧されたままになります。抑圧されたことはわだかまりになり心の底に沈んだままになるのでコミュニケーションが従来のように率直にできなくなります。

心を浄化して本当に愛することができるようになるには、わだかまりを心の中から捨てなければなりません。それをするにはネガティブな感情が起こる度に自覚して、心の中から捨てる作業をしなければ罪悪感に変わって沈殿します。
「考え」はほとんど役に立たず「行動」だけが道を開きます。

明恵の研ぎ澄まされた感性は、蟻や虫、犬や鳥、お百姓さんに到るまで皆仏心を備えた尊いものとして、犬が橫になっているそばを通るときでも尊い人に対するかのように丁寧に頭を下げて身をかがめて通ったといいます。またあるときに坐禅していると、後ろの竹藪で小鳥が襲われているから助けるようにと侍者に告げ、侍者が裏に行ってみると、果たして鷹が雀を襲っていたので追い払ってあげたというのです。そのような配慮は虫に及んだといいます。
あらゆる生きものは釈尊の心を纏っていると感じたのでしょう。あるいは生まれ変わりかも知れないと感じたのでしょう。

釈迦への思慕の念が深い明恵は『大唐天竺里程記』(だいとうてんじくりていき)をつくり、天竺(インド)へ渡って仏跡を巡礼しようと企画しますが、春日明神の神託のため、これを断念しました。明恵はまた、これに先だつ建仁2年(1202年)にもインドに渡ろうとしましたが、このときは病気のため断念。

明恵は若いころから、唐天竺(から・てんじく)に渡ってみたいと心から望んでいました。釈尊への並々ならない思いが慕りに募ったのである。信仰心によるものとは限らない。今では死語に近いが「恋闕(れんけつ)」という言葉がある。 天皇に対して忠誠心以上の情熱で恋い焦がれることを示す言葉だ。男の子ならではの心情だ。たとえば健さんやスティーブ・マックィーンに憧れて、本気で「会いたい」と思い続けたのに似ています。

健さん スティーブ・マックィーン

こういう仏教者は日本仏教史上でもめずらしい。唐天竺に渡りたい僧は少なくないが、彼の地に渡って経典を勧請したいというのでもなく、地歩やキャリアを築きたいというのではなく、過去の聖地の空気を浴びたいというのでもない。ひたすら永遠のアイドルとしての釈尊に出会ってみたいという恋闕です。

恐れと罪悪感

明恵上人の行為からは恐れと罪悪感という人間をもっとも強力に支配する二つの感情を感じることができます。

これらの感情は個人の考え方から生じます。本人が強烈に感じる一方で、他の人にはまったくどうでもいいと思っていることは少なくありません。

たとえば私の場合、近所に住む大きな犬が子供だった私を見かけると猛スピードで走ってきてなんども噛み付かれたことがありました。子供だった私には耐え難い現実の恐怖でしたが、同じく近所に暮らす大人たちにはなんともなかったのです。さらに犬好きな人には不思議に思えたでしょう。

人間は思考によって目に見えない世界にイメージを作ります。イメージはやがて目に見える世界に物として具現化することで現実になります。
この仕組みが理解できると、泥棒に入られることを恐る人が現実に盗まれ。暴行されることを恐る人が襲われるのか、ガンに冒されることえ恐る人がガンを告知されるのか。納得できるようになります。思い込みが創造した無意識が思いを物質化するのです。これを理解することは脅威です。恐れは恐るほど実体化するのです。納得の先に克服の方法が見出せるのです。
 

幼いときに、親に見捨てられる思いをして不安を感じた子どもは、ひどく恐るようになります。さらに成人し、恋人から捨てられる恐怖を感じ続けた人は無意識に捨てられる恐怖を感じるようになります。思い込みは成長しても意識化してコントロールできるようになるまで、無意識のうちに支配し続けます。

恐れは巧妙な感情で私たちの心に蓄積します。トラブルや病気は自分が恐怖を実現するもっとも身近な戦略なのです。恐れを思い浮かべると<恐れの祭典>ができるほど、身近な行為を片っ端から恐れに創造できます。
食中毒をはじめ不眠症、動物への恐怖、盗難、交通事故、火災、肥満、激ヤセ、エレベーター、エスカレーター、階段など移動手段の事故、私たちは恐れと共存しながら恐怖の中に暮らしていることが解ります。

実際に5歳のときに父親から見捨てられた子どもは成人したとき、自ら最愛の恋人に見捨てられる行為を繰り返し、一生を台無しにしてしまいました。見捨てた恋人は不思議で仕方なかったといいます。全て偶然なようで偶然でない気がしてならなかったといいます。
彼女の場合、自分で描いた無意識のストーリーが顕在意識の裏側で進行していたのです。男性は自分が勉強不足であったために愛の法則に反したことを詫び続けています。
心理学の分野では男性以上に女性は恐れに囚われやすい傾向が顕著だと結論が出ています。

罪悪感は恐怖以上に人と人生を支配します。私たちは無意識に罪悪感に支配されていることに気づくことが必要です。
罪悪感は感情で実際に犯した罪とは別の物です。

たとえば明恵上人は耳を削ぎ落とす行為をしましたが、実際にお釈迦様を粗末にしたわけでもなんでもありません。頭を剃って粗末な法衣を着用してお経を唱える日々を繰り返す明恵上人は傲ることなく仏道に精進していました。悪意をもって意図的にお経を唱えたことなど一度ももなかったはずです。もし本当にお釈迦様の教えに反発したのなら誠実に謝罪すればいいことです。

しかし当時の明恵の心理状態では理性で恐怖も罪悪感に打ち克つことはできなかったでしょう。行為しなければ許せなかったと思います。自分の行為だけでなく、行為の原因になった思いも含めて、いついかなる時も自分の最良をしているので、愛はオープンハートで受け入れるものなので、謝罪を受け入れないないと愛の法則に反します。

謝罪を理性で行うことは悪いことではありませんが、時には行為で示さないと許せないのも自然なのかも知れません。

恐怖・罪悪感と対峙する明恵上人

木彫りの狗児

明恵上人も両親を亡くした不安は続きました。耳を切り落とす「決断」を断行することで、お釈迦様を父と崇め、「仏眼仏母」の仏画を母として心の安定を具現化したのです。

さらに明恵上人が動物を慈しんだことは伝記に多く語られています。幼いころ、小動物を見かけるたびに亡き両親の生まれ変わりではないかと思い、子犬を跨いでしまったあとには立ち返って拝んだという逸話も残ります。動物の中でもとくに子犬を愛し、自著『夢記』にもしばしば子犬の夢が現れます。明恵上人遺愛の彫刻「木彫りの狗児」です。こうして動かないものに囲まれて幼い頃の不安を消し去ったのです。

顕在意識に気をとられ、会ったこともない他者をマスターにして、くだらないテレビに関心を示して、ことあるごとに「どうあるべきか」と問い直すことができるのでしょうか。自分をマスターにすればこそ、それぞれの私の宇宙で潜在意識と超意識に会えるのです。

お釈迦様の遺言に潜在意識と超意識の使い方を学ぶ

潜在意識と超意識

お釈迦様は何を伝えたかったのでしょう。
最後の教えである「自灯明・法灯明」を伝えられる場面に集約されています。

弟子たちよ、おまえたちは、おのおの、自らを灯火(ともしび)とし、自らをよりどころとせよ、他を頼りとしてはならない。この法を灯火とし、よりどころとせよ、他の教えをよりどころとしてはならない。

つまり、自ら学び、追求して自分自身のマスターになりなさいということでした。

国家を守護・安定させる力があるとする思想である「鎮護国家」として導入された点を考慮すると少し違和感が残る教えですが、民主主義の現代にこそ心したい教えです。

では「自分自身とは何者か」といえば「そんなものはない」と「無我」を強調されました。私とは60兆の細胞が個々に活動しているものをネットワークでマネジメントしている物質体にすぎません。
つまり私たちは60兆のネットワークのマスターなのです。

「あるべきようわ」を実践に招く潜在意識

潜在意識と超意識

生きるとは心臓が止まるまでの活動です。
ところが阿頼耶識に貯蔵された記憶は、一個の物質体を超えて次の物質体に伝えられ精神体、 感情体は活動を続けます。
だからより良い精神体、 感情体を守り肉体を健康に維持する役目があります。

マスターには、やりたいことを続ける役割を通して、達成したい「あり方」があります。

ところが現代のマスターを生業とする連中の「あり方」はいかがでしょう、今こそ愛あるマスターとしての矜持を大切にしたいものです。

宇宙はそれぞれにヒトのニーズを満たしています。宇宙が私たちを支えてくれているという事実を自覚して感謝することです。それこそが愛あるマスターとしての矜持を大切にする「あるべきようは」であり、あり方なのです。

『恋慕のプロ』の矜持
本当に恋愛経験のある方なら解るだろうと思いますが、朝から夜までずっと相手のことを考えたり、もっと相手を知りたい、仲良くしたいと思います。喉が渇いてとてつもなく心苦しいほどに、お釈迦様に会いたくて会いたくて、お釈迦様への思いと更なる信仰心が生じる。恋慕とはそういうものであり、信じる、信仰心とはそういうものです。これが望むと信じる違いです。

まとめ

人間は思考によって目に見えない世界にイメージを作ります。イメージはやがて目に見える世界に物として具現化することで現実になります。現実はあなたが創造したものになります。

イメージをコントロールするのは<私>のマスターです。つまり<私>です。
決して他の者にさせてはいけません。お釈迦様はこの世を去る時、自灯明・法灯明>に託して逝かれました。

潜在意識と超意識で行く地獄めぐり
私たちにはこの世でやるべきことがあります。望みは実現できますが、多くのヒトはどうして達成されなのでしょう。感情では望んでも、顕在意識に属する精神が「できない」と自ら否定しているからです。ヒトは自分が信じていることにはきがつきにくいのです。精神は肉体も束縛するので様々な病気を発症して警告します。

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