こんにちは。あなたの願いを実らせるゲンキポリタン三宝院沙門です。です。人間関係に悩む方は多いですが、大丈夫、目先の解決策に振り回されず、急がば回れ、根本解決をしたら人生はかわります。
自分を変えることは難しいといいますが、渡る世間は嘘だらけ。
答えはすでにあなたが、知っています。周活・週活・終活。
すべてのルーティンの基準は、7つの関係にあります。
この7つの基準を、整えるだけで変わり始めます。
ヒトとの関係は、なんといっても「距離」の取り方です。
距離は固定したモノではなく、愛を忘れずに自在であることから。
好きと愛と人間関係
人間関係の基本は好き嫌いです。
野菜に好き嫌いがあるように、ヒトに対しても好き嫌いがあるのは仕方がありません。
食べ物に好き嫌いがあってはいけないといいますが、偏食を治すように自然体で好き嫌いは治していけばいいでしょう。
但し、嫌いだからと、粗末に扱うことは間違っています。
ヒトとの関係は距離は見えないので、ヒトだけでなく、見えないモノへの気遣いを忘れない訓練が人間関係の距離の取り方に役立ちます。つまり「自分中心に考えない」ことです。察するとは、目の前の対象になりきることです。アイロンがけをしているならアイロンになりきる。電話をしているなら電話になりきる。つまりどんなことでも、急になりきれません。日頃の訓練の賜物で、自然になりきれる力が身につきます。他者になりきれる力がついて自分になりきれるようになります。
なりきれる力がつくほど、<自我>が弱まるので、愛する力がつきます。
嫌いな食べ物でも粗末に扱わなくなります。たとえば禅では分け隔てせずに食べますが、分け隔てせずに<慈悲・慈愛>をもって接するようにします。
<愛すること>と<好き>は同じではありません。どちらが多いか。
好きなヒトより、愛するヒトの方が断然上回ります。嫌いな人でも愛する(慈悲・慈愛)からです。
蛇や虫が嫌いなヒトにとって、好きになるのは困難です。
でも嫌いだから殺生して良いというのはエゴでしかありません。
愛する(慈悲・慈愛)とは痛みや悲しみが想像できるということです。
同じ愛するでも、好きなヒトを愛する場合では、違いが生じるのは自然です。
好きなヒトを愛する瞬間は一瞬でもその体験は生涯を変えるほどずっと残ります。
好きなヒトに対する愛の感情も、痛みや悲しみを想像できるからです。
愛おしいという感情を抱くと、守ってあげたいという相手への愛情が自身も確認できます。
愛おしい、大切にしたいという思いは相手にも伝わり、結果として自分も愛されるというポジティブなループが生まれます。お互いに愛おしい気持ちを深めることで、絆がより強くなります。愛おしい思いは、自分も相手から愛される人になりたいと思い、努力することで、相手だけでなく他の人からも愛される「愛されやすい人」になります。このように<慈悲・慈愛>とは全く違いますね。
エゴにならない好きは愛しているからです。
エゴになる好きはエゴでしかないのです。自分への関心は強いが相手への関心は低い。愛がない。愛していないのです。
自分は嫌われることを気にしない人は自分を認めているので、基本的に好きです。
「自分はOK」なので、<自他肯定>のライフスタイルになる可能性があります。
人に嫌われたくない好かれたいと思うのは自分で自分を認めていないので<自他否定>になる可能性があります。「自分はOK、他者はNO」というスタイルの実態は虚勢からの「自分はOK」が多く「自分はNO」である場合が多いです。
好かれたいからあるがままの自分を抑えているなら、自分で自分が好きになるように自分を成長させている方が素敵です。
ありのままの自分が好きになれないのなら、嫌われたら良いのです。
ありのままでない自分を好きになってもらっても、お互いになにが楽しいもでしょう。
人生はポジティブに楽しむための場所であって、嫌なことをする場所ではありません。
接客の仕事をしていて、イヤイヤ笑顔で接客していたら、お客さまには必ず伝わります。
親しい友人関係になれば、さらに伝わるでしょう。
ヒトはヒトに好かれるために生きている訳ではありませんが、ヒトを傷つけていいわけではありません。他者を傷つけることで嫌われるとしたら、愛がない、想像力がないからです。
好かれないより、愛せないのは決して好ましい状態ではありません。
愛せないのは利己主義の状態にあるからです。
ヒトを愛せず、動物や植物も愛せない人が良い人生を過ごせるだろうか。出来ないと思います。
人を蹴落としたって良いんだと考える人が蹴落とした後にどうなるか。考えてみてください。
どちらも観念的で血が通った言葉に感じないのは、一般に話し言葉で使われないからです。
<慈悲>と<慈愛>の違いは仏教的とキリスト教的の違いです。
仏教で<慈愛>という言葉は使いません。逆にキリスト教の場合<慈悲>は使いません。
仏教で<慈悲>という言葉を使う理由は、<愛>には欲望を伴う精神的・感情的・肉体的な反応の意味があるからです。「私はあなたを愛する」と言った場合、<私とあなた>というように二元論が存在することを認識するのを避けるためと考えられています。
キリスト教で<慈愛>という言葉を使う理由は、<慈愛>とは救い主イエス・キリストが持っておられる純粋な愛、完全な愛のことです
慈愛=Charity=慈善というように言葉の意味で受け取り方も違っていきますが、慈愛はキリストから与えられる自主的な愛を示すことになります。
私たちはひとつの人間社会に暮らしているので、その中で協力が生じます。
もし、自主的に協力し合わなければ、外からの力が必要になります。警察や軍隊、法律や武器です。しかし、みんなが優しく思いやり、自利利他の精神を共有していれば、警察や銃も武器も必要がないのです。最良の安全は心を開くことです。
ライフスタイルを整える
豊かで自由なライフスタイル
上の図のように、ヒトはライフステージを誕生から死に向かって歩みます。
ライフステージは、豊かで自由なライフシフトが出来ると、充実したものになります。
ライフシフトをよりよいものしようとするプロセスが結果より大切なのです。
どのように充実すれば豊かなのかは、個人により違いますが、より良いライフスタイルは、他者とも深く関係しています。自分だけが良ければ良い場合、対人関係で恵まれることはないので、内包してある全てで、あるいは一部で機能しなくなります。
特にライフステージで思わぬクライマックスを迎えます。
なぜなら、ライフステージは、あなたがライフスタイルを使って、無意識で描いた人生脚本だからです。あなたの「人生」の作者はあなたです。本来、「縁」は転がるものですが、転がらないようにしるのも、自分が望まぬ方に転がしてしまうのも、自分なのです。
潜在意識が描いた人生脚本は、顕在意識で願う人生より断然強いのです。
ライフスタイルがあなたの人生を決定づける
ヒトは、ライフスタイルに以下の5つを内包していて、それぞれに相互依存の関係にあります。
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- ライフスキル
- ライフデザイン
- ライフプラン
- ライフシフト
- ライフステージ
以上の5つを整えて、達成することで、ライフスタイルを、自分なりにより優れたスタイルに仕上げることができます。
ライフスタイルは、ライフスキル、ライフデザイン、ライフプラン、ライフシフト、ライフステージを内包していて、これらを磨けば磨くほどライフスタイルも、磨かれます。
自利利他
ライフスタイルは、人権に深く関係していて、自分にも、他者にも、アサーティブ(積極的自己表現)を奨励します。同様にノンアサーティブも個人の自由であると認めます。自利利他の考えです。
「自利利他」とは、自らの成長により得た功徳を、自分が受け取るとともに、他者の利益をはかる」という意味。COVID‑19の蔓延で世界的にマスク着用を通じて『利他主義』が広まりました。
つまり相互依存の関係にあるのは、他者とも相互依存の関係にあり、その最小単位の宇宙が、パートナーとの状態といえます。
ジョン・グレイ博士の著書「ベストパートナーになるために」で次のような一節があります。
『女性が「受け入れる」ことに臆病になるように、男性もまた「与える」ことに臆病になる。』
両者がもっとも恐れているのは、潜在的に自分の能力が劣っているという誤った確信を抱いているからだといいます。
恐怖心からアサーティブになれず、想いが強いほど断念する可能性が高くなります。ライフスタイルにも同じことがいえます。劣等感から<自分はOK、あなたもOK>以外のライフスタイルをとってしまっているのです。そのため成功、目的達成、能力向上こそが人生最大のテーマになってしまうのです。失敗を恐れ、自分は認められる存在になろうと、より多くの努力と活気が必要になり自我執着心を強めてしまうのです。
これを跳ね返すために、自我執着心をなくすことです。思い切った「放下著」が功をそうします。禅語「放下著」とは、わがままやプライド、余計な心配事などを放下(ほうげ)してごらんなさい、思い切って全部捨てたら楽になるという提案です。
そこで<分かち愛>をコンセプトにした『お粥さんプロジェクト』はシェアを大切にする一方、物は最小限度にする
本当の自分と嘘の自分の見分け方
元来、女性たちにとって、人生でもっとも大切な根本原理はコミュニケーションです。自分の思いを誰かに伝え、分かち合うことのほうが目的や成功を達成するよりもはるかに大切だと思っています。とりわけ、最愛の異性と四六時中、時と場所を共有し、話し合い、心を通じ合わせてお互いの関係を確認することが、「し合わせ」に満ち足りた人生を実感できる最大の源です。
黙っていても彼女たちはそうするので、<分かち愛>をコンセプトにした『お粥さんプロジェクト』は男性が200年を自由で豊かに幸福に生きるプロジェクトです。
DO<BE。つまり「する」より「ある」の方が重要なのです。
男性は歴史的にDO>BE、あるよりすることを重視する生き物です。
スティーブ・ジョブズ氏はビル・ゲイツ氏のやり方には尊敬もしたが、あり方をひどく嫌いました。
ジョブズ氏はやることは人にまかせ、どう<ある>べきかを追求しました。そのため無理難題を要求すると誤解されました?ゲイツ氏は<する>ことに意欲的で自身がプログラムを書き、起業しました。ライバルであっても全くタイプは違っのです。
パートナーシップで目標を達成しょうという意味は広い。両輪が必要ですが、異性間のパートナーシップを従来型の男性優位型であれば、すでにバランスが取れなくなっていることは出生率が示している。そもそもの会社型ビジネスマンのあり方が200年時代に適応しなくなっています。
本当の自分と嘘の自分の見分け方
「本当の自分」というものは存在するのだろうか?
「本当の自分」とは、そもそもどういう自分のことをさすのか?
「本当の自分」が、どんなものか、わかっていなければ探しようもなく、見つかるわけもありません。
たまたま自分が好きな物(こと)を見つけたから、それが「本当の自分」なのか。
もしそうなら、しばらくすると、また別の好きな物(こと)を見つけるだろう。
そうしたら「本当の自分」は変わってしまうことになります。
ボクは、誰にも似ていません。
エルヴィス・プレスリーは、デビューしたとき、ステージで身体を動かして話題になり、アメリカンドリームの体現者になりました。彼は演出ではなく、そうせずにいられなかったのです。
違うことを恐れない。それが「個性」です。
好きなことをしたから、本物の自分だったのではなく、そのようにしかできないから個性であり、個性を世界に解放したから、支持されたのです。
当時、ティーンエージャーという概念が芽生えたばかりで、多くの若者は「子ども」として抑圧されており、レコードを買うお金すら持ち合わせていませんでした。エルヴィスの音楽の言外に「自分は自分のままでいい」とメッセージを受け取り、そうすることの爽快感が、共感になり、楽しくて仕方がないと、絶大な支持を得たのです。従順な子どもでいたのが、エルヴィス・プレスリーの音楽によって、画期的に自由で無邪気な子どもに帰れたのです。
子どもたちは歴史的な繁栄は、ローンだらけの暮らしは本当の暮らしではないと皮膚で感じていたのです。その背景にはいつ原爆が落とされるかもわからない冷戦構造がありました。子どもたちは大人の代弁者で、実は大人たちが感じていたことです。
本当の自分を生きるとは、必ず死ぬという事実をしっかり受けとめて、しっかり生きる自分です。
そうすると、どうにも変えようのない内部の法則に従って生きる自分が顔を出します。
嘘の自分は、必ず死ぬという事実から逃げまくっているので、いつ自分の人生がはじまったのか、気がつかないまま、すでにはじまっているなら、死ぬことさえわからないし、生きることさえわからないまま、個人の内部の法則で動いていますが、それがどういうことさえわからない。
表向きは問題なさそうに振る舞うために「私はOK、あなたもOK」以外の「ライフスタイル」が習慣的に使われ、身についてしまいます。一旦身についた「ライフスタイル」を死ぬまで持ち続け、ライフプランやライフシフトを自分を評価する基準にしてしまいます。
そこでも「私はOK、あなたもOK」以外の「ライフスタイル」が習慣的に使われるとますます嘘だらけの人生を過ごしてしまいます。
「生きている者は絶対に死ぬ」という事実に立って、自分の人生をその手に引き戻す。嫌われても良い、自分は自分の人生を生きるんだと覚悟したとき、無形資産となる人間関係が積み上がっていきます。そのとき、ライフスタイルは、<自分はOK、あなたもOK>になっているはずです。
ライフスタイルを決めるのは自分
認知の歪み
認知とは「その人の物事の考え方、事実のとらえ方」のことです。
認知が歪んでいると、うれしいことでも悲しくとらえてしまう。それだけではありません。
より深刻なのは、自分の捉え方が正しいと信じてしまうので、単純なことが複雑になります。
認知の歪みを放置しておくと、ライフプランを破壊してしまう可能性があります。
「認知」をどう育てなおすか、対策が必要になります。
デビッド・D・バーンズによると認知の歪みには以下の10種類のパターンが存在すると提唱しています。
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- 全か無か思考(all-or-nothing thinking)
- 過度の一般化(overgeneralization)
- 心のフィルター(mental flitar)
- マイナス化思考(disqualifying the positive)
- 結論への飛躍(jumping to conclusions)
- 拡大解釈と過小評価(magnification and minimization)
- 感情的決め付け(emotional reasoning)
- すべき思考(should statements)
- レッテル貼り(labeling and mislabeling)
- 個人化(personalization)
物事に対する考え方には、想像以上に大きく個人差があります。同じ光景や場面に遭遇して、そこで何を感じるか、受け取り方は人それぞれの経験によって異なります。
こうした物事のとらえ方の違いに着目したのが、アメリカの医学博士であり、精神科医のアーロン・ベック(Aaron Temkin Beck)でうつ病の認知療法(Cognitive Therapy)の創始者です。
彼はうつ病の治療をしていた時、うつ病患者の物事のとらえ方に共通点があることに気づきました。
たとえば、誰にでもあるような小さな失敗について長く悩みつづけたり、小さな失敗が原因で他のこともすべて、ダメになると考え、何かうまくいっても、喜ぶことができず、これはまぐれだ。すぐにきっと悪いことが起きるに違いないと考えてしまうのです。
こうした否定的な思い込み、決めつけを、「認知の歪み」や「認知のかたより」と呼びました。
「なぜ、うまく生きられないのか」などと考える習慣は、大事なときに限って失敗するという結果に繋がります。これを繰り返すと自分でレッテルを貼ってしまうことになりますが、よく観察していると、不適切な認知をしているケースがほとんどです。
ストレス耐性が弱く、傷つくの恐れて、防衛のために先回りをしている不適切な認知が目立ちます。認知が歪んでいると「あるがままの世界」は見えなくなり、全部が歪んで見えます。
認知の歪みについて、10項目を挙げましたが、全部に共通しているのは「自己否定感」の強さと、その影響によるストレス耐性の弱さです。<自分はOK、あなたもOK>にライフスタイルの改善が急がれます。
ライフスタイルを歪める13の禁止令
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- 実行するな
- 存在するな
- 自分自身であるな
- 自分の性であるな
- 子供であるな
- 成長するな
- 成功するな
- 重要であるな
- 所属するな
- 近づくな
- 健康であるな
- 考えるな
- 感じるな
禁止令の多くは、あなたの為に、言ってるのよという偽のメッセージとともに投げ込まれるので、受け入れないと良くないことが起こると信じてしまう場合がたいはんです。禁止令は呪縛のように、成人しても縛り続けて、自由で無邪気な子どものこころを削るように苦しめます。
禁止令を伝えたうえで、更に「おまえがそうすれば、私はそうしなくて済む」という付け足しが行われています。
「するな」に対して、次のような言葉(拮抗禁止令)が頻繁に子供に与えられ、実行を促します。
- 完璧であれ
- 他人を喜ばせよ
- 努力しろ
- 強くあれ
- 早くしろ
これらは禁止令に拮抗するという意味で拮抗禁止令と言われています。
禁止令と拮抗禁止令の間で、子供は「他人を喜ばせている限り、存在(生きていて)いい」と思うようになります。つまりやりたくないことを受け入れて暮らすことを当たり前のように感じてしまうのです。
三つの心、五つの心、私の心
禁止令の影響を強く受けている人は、ネガティブな人生脚本を持ってしまいがちです。人生脚本はドラマと同じく劇的なクライマックスがあります。
ほとんどの人は、そこで「なにがそうさせたのか?」と自省しますが、時すでに遅しの状態になります。
人生脚本とは、PACモデルの繰り返しの結果でしかないのです。繰り返ししているのが幼児期に決断した人間関係のありかたです。
上の画像で示したようにPACモデルは、親子それぞれにPAC(三つの心)があります。厳密には5つになります。
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- Parent(親的な自我状態)
- Adult(大人的な自我状態)
- Child(子ども的な自我状態
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- 厳密な親の心
- 保護的な母の心
- 大人の心
- 従順な子どもの心
- 無邪気な子どもの心
五つのこころは、ライフスタイル、禁止令とひとつになって、コミュニケーションの仕方となり、繰り返すことて、人生脚本の基礎となり、顕在意識をモノともせずに、完成に導きます。
禁止令は、両親が苦痛や不安を感じた状態で、親の「子どもの自我状態」(C)から、「子どもの自我状態」(C)に気づかずに発信するメッセージで、その子の本来の生き方を拘束し、脚本の形成に加担するものです。
一般的に「子どもの「し合わせ」を願わないものはいない」と思われがちですが、実際には児童虐待が行われます。正確に言えば子どもの「し合わせ」を願いながら、児童虐待を行っているわけです。
その原因は、両親が苦痛や不安を感じたときの行動にあります。
つまり子どもが禁止令を受け入れてしまうのは、(子どもを思う)強力な感情を伴って与えられたせいだと言えます。このため子どもはどうしてよいかわからないまま、繰り返されるメッセージをファンタジーを選択するように受け入れてしまうのです。
この段階では、子どもの人生は親の元にあるので、実害は少なくファンタジー的です。
それが懐かしい体験となるので、子どもは慣れ親しんだ感情としてなんども空想し体験してしまいます。
こうして一方で冷静で客観的なライフデザインに裏付けされたライフプランを持ちながら、禁止令を埋め込んだ人生脚本(=人間関係の仕方)は日常で繰り返されることで、実際に人生脚本通りに歩んでしまいます。
ヒトは、本来は自由で無邪気な子どもの心の持ち主です。そこに帰って人生を楽しむのが、もともとのいのちを使うあなたの役割です。
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