コスモポリタン日本版の廃刊が決まったようで残念ですね、コスモポリタンとは、国籍などにはこだわらない全世界を自国と考えている人。世界主義者。では、ゲンキポリタンとは、ゲンキ(活力)にこだわるポジティブな元気主義者。自由で豊かなライフシフトに欠かせない活力資産です。
禅語に「脚下照顧(きゃっかしょうこ)」と言って、「足下を照らし顧みよ。」という意味の言葉があります、他に対して理屈を言う前に自分 の足もとをよく見て、自己を反省しなさいという意味です。 転じて、「履き物をきちん とそろえましょう。という意味です。
右足が疲れたら、左足、足が疲れたら肩で歩く。こんにちは、歩き遍路をするFP、三宝院沙門です。
瞑想を一日の中心にする
自分自身を主体として生きるなら、目覚める自分、眠りにつく自分は。もっともたいせつなことをするためのものにしたい。ほとんどのヒトは仕事のために、あるいは学校に行くために起床するが、本当にそれでいいのか。疑問からはじめてみませんか?まず仕事や勉強の定義を疑ってることからはじめてみるのがいいかも知れないようです。子供ならプラモデルを作るために起きるだろう。大谷翔平さんならた昨日より早く走るためかもしれない。アインシュタイン博士なら、計算するためかも知れない。アインシュタイン博士の名言のひとつ「誰かのために生きることにのみ、生きる価値がある」なら愛するひとのために目覚めることが目覚める理由になる。「ゴミを捨てるために目覚める」ヒトがいたら素敵なことなのだ。仕事のために目覚める原点はそこかもしれない。
無字の公案を気にすることなく、常識を疑わなかった自分に悔しい。瞑想は一刻も早く解決をしてくれる手段です。クールヘッド・ウォームハートを鍛える瞑想は神聖な好奇心を自覚する時間になります。
夢見る仏は心身脱落
禅でいう夢は、一般人の夢と少し違って、六大煩悩をはじめ、108もあるといわれるすべての煩悩を放下著した後に立ち上がってくる夢です。「不立文字(ふりゅうもんじ)・教外別伝(きょうげべつでん)」という考えにあります。「直指人心」「見性成仏」も似たようなことを説いています。密教が説いたように文字や言葉で伝えられない教えを伝えられるようになりたいのが夢ということでしょうか。まずなにより自分がそのレベルに到達することが先になります。四国八十八ヶ所霊場歩き遍路をはじめたのもそれがきっかけです。
「土佐のまほろば」というように、約1300年前の律令時代、高知県南国市(なんこくし)には国府が置かれ、土佐の政治経済の中心地「土佐のまほろば」と呼ばれて栄えていました。この「まほろば」という言葉は、万葉集や古事記に出てくる「周囲を山々で囲まれた、実り豊かな土地で美しく住み良いところ」という意味です。南国市には29番札所「土佐国分寺」と32番札所「禅師峰寺」が建立されました。
開基したのは奈良東大寺の大仏造立に奔走した行基上人。
悠久の時の流れを今に伝える歴史の町を同行二人でひとり歩いていると、いろんなヒトから声をかけられるので、寂しくありません。お接待さんの本心・本性・仏心・仏性にも触れ、文字や言葉で伝えられない魅力に触れて、こんなところで暮らしたいと自然と想わずにいられなくなる浅はかさを思い知らされます。まだまだ「身塵脱落(しんじんだつらく)」心は塵(煩悩)だらけの状態のようで、気づいただけ儲け物のお遍路の一幕であります。それにしてもなにゆえの心身脱落。「身心脱落」は、自分の身も心も執着がなくなって、非常に自由な解脱の境地に達すること「即心即仏」心はそのまま仏。つまり心は仏陀つまり真理の実践者をめざす。
即心即仏
即心即仏とは、「心はそのまま仏である」という意味で、仏とは悟りの開いたヒトである「ブッダ」をさします。即心即仏は唐の時代の高僧・馬祖道一(ぱそどういつ)の言葉です。弟子の「心とは何ですか」という問いに答えたものです。
即心即仏は即身即仏と全く違うのでご用心ください。心とは赤ん坊のように無垢な心のことで、煩悩の手垢のついた心とは次元の違うものです。
即心即仏だというのに、なぜお寺はあるのでしょう?私は歩き遍路をしていると、塵を集めているヒトと出会います。かなりの頻度で出会います。床磨きと併せてルーティンにされています。掃いてもいても掃いても、積もる塵のように磨いても磨いても煩悩は心に降ってきます。これが「身塵脱落(しんじんだつらく)」です。
煩悩も積もれば山になる。し合わせとは便利から離れたところにあるのが見えてきそうですね。しかも、し合わせは状態ではなく、動詞なのです。「愛している」とは喜んでしているゴミ捨てのようにね。心ととりたい行動と合わせるのがしあわせなのです。しあわせは自分で創るものなのです。「愛している」といいながら不釣り合いな行動をしているなら「嘘」ですね。
プロセスにするには時間がかかります。いまは独り身であっても、し合わせづくりのプロセスには時間がかることも計算に含めて習慣にしましょう;
自分だけのルールを作って、毎日の暮らしのなかで、ルーティンにして実践すると、これまで見えなかった新しい世界が、見えてきます。大人の世界では押し付けのルールばかりですが、自分が作ったルールで暮らすと、飛躍的に楽しい一日になります。
映り合う「し合わせ」
公案の真骨頂は「無」にあり、別名を「無字の公案」とよびます。業には善業も悪業もありますが、その善悪を取り去ったところに人間の本性があります。そこが私さえよければの我執を離れ、自分へのこだわりを捨て、無心になり、何も心にとどめない「無念」の境地に至ってこそ知る、頭で知ることのできない禅の心です。
禅は頭で理解できない世界です。つまり人間の智慧も頭を超えたものです。
無の意味が感得できて禅の道が聞け、釈迦や達磨の心と自分の心が、鏡のように映りあうのです。
「すべては無である」・・・とてもむずかしい心の段階ですが、無限大のし合わせづくりのチャンスです。
禅の教科書に10枚の絵で描かれた「十牛図」が使われますが、逆にわずか10枚の絵で禅が理解できないことを突きつけられた気がします。
修行の場で師家と一対一で向きあいながら、「無字の公案」を聞いていただく。
多くの修行者は師の前でただ「ムムム・・」と唸るだけ。他にやりょうがないのです。当然です。「公案」とはヒトの常識を打ち破る手段なのです。
当然、何度も何度も追い返されます。何で、どうしてだろうという疑問ばかり、その繰り返しばかり。のたうち回り、まったく身包み剥がされ裸になったような状態。「無」と「有」という漢字の意味を詮索すると、迷いに迷ってしまうのです。やがて「有」「無」の概念にとらわれる対立的な思考に終始する自分をこえなければだめだ、と気がつきます。
何の思い込みも差別もない、水平思考になりきる体験が「無」なのです。つまり文字や言葉では伝えられないことを体験するのです。犬や猫がなんと言ってるのか気にならなくなります。
生活禅
自分の主人公は自分です。仏でも神でも、自分で心を向けない限り、何もしてくれません。そして迷いのない自分、さらには曇りのない自分をとり戻す方法の一つが坐禅であり、瞑想です。
難しく考える必要なありません。ただ座り、ただ瞑想すればいいのです。そうしているうちに瞑想は心に小さな花を咲かせます。
「無一物中無尽蔵花あり月あり楼台あり」という禅語を思います。
一度、自己をつくしきってしまったら、そこには何もない。何もないから、いままで気づかずにいたものが、すばらしいものに思えたり、心を響かせるように聞こえたり、感じたりするものです。
赤いものを見たとき「ああ、これは赤い色だ」と頭で思ったら、本当の赤は感じない。無になれたとき、はじめて本当の赤が心にしみてくるのです。これこそが禅の真髄なのです。ゴミ捨ても同じです。「これは自分が捨てに行ったら奥さんがよろこぶだろうな」と思ったらじゃないんです。無になってやった時に、心は通じます。
典座教訓は、食の準備を軽く考えておられた道元禅師が教訓を得て以降、心を砕かれて説かれた生活に密着した禅の教えです。禅は、旦那さんの、あるいは奥さんの笑顔を見たくて無になって日常生活を過ごすなかで感じる自然体のよろこびなのです。
三昧
日常語になっている三昧とは禅定のことです。たとえば「無」を一心に唱え続けると自分が消え、意識も「無」となって、「自分と無が同化する」という状態に入ります。これが三味です。三昧の境地を経て、悟りの段階に入れば、鏡のようにすべての姿をありのままに映しながら、心は動かなくなります。
禅は生きたまま、その境地への方法を教えているので、時間をとてもだいじにします。時間を浪費するのは限りある人生を無駄にする罪だと考えるのです。時にとらわれてはいけない、過去の悩みも未来のもどかしきもない。あるものはいまこの瞬間のみとするのです。禅寺では朝夕に打ち鳴らす「板」に「生死事大時人を待たず無常迅速慎んで放逸することなかれ」と書かれているのです。
私たちは限られた時間の中で生きていて、生かされています。この「諸行無常」に目覚めると、人は人としての理想の生き方を健全に求めるようになると時間は比例して必要になります。美味しいものを食べたいと真に願うならプロセスに時間はかかりますが、時間を浪費することに慣れた不健全なら行列のできている店にならぶと簡単です。しかし自由で豊かなライフシフトがしたいなら健全なプロセスを踏まなければならず時間が必要です。
『「今日が最後だ」と思って真剣に取り組め』と、先人が警鐘を鳴らす。
愚鈍な人は「生あるものに老いや寿命があるのは当り前のことだ。」とわかったふりをす。真理は見ずに、また聞こえないふりで納得します。
便利を不健全だと定義したなら状況は一変するがそうもできないので、心あるものは「生死事大時人を待たず無常迅速慎んで放逸することなかれ」を守って三昧にルーティンをこなすしかなさそうです。
まとめ
自分だけのルールを暮らしに持ち込んだら景色は変わります。
無料だけど、宇宙旅行ができます。
最後までお読みいただきありがとうございます。
歩き遍路するゲンキポリタンなFP、三宝院沙門でした。
ゲンキポリタン大学
「ゲンキポリタン大学」では、「社会人基礎力」をコアに<人生100年時代の曼荼羅>を描くように、ライフシフトをバックアップするさまざまな講座を、さまざまな方を対象に、さまざまな形態で開催しています。ご都合に合わせた形態をお選びください。
「社会人基礎力」(全6回)
- 人生100年時代社会人基礎力3つの能力
- 社会人基礎力①12のの能力要素
- 社会人基礎力②前に出る力を育てる主体性と8つの基準
- 社会人基礎力③考え抜く力を育てる思考法
- 社会人基礎力④チームで働く力
- 社会人基礎力に追加された3つの視点
GTD®勉強会
- 社会人基礎力|GTD①マンダラ思考で情報をゴエスする
- 社会人基礎力|GTD②頭の中の「現実」もすべて把握する
- 社会人基礎力|GTD③アセスメントを設定して「できる」行動をリストにする
- 社会人基礎力|GTD④アセスメントのために見極める
社会人基礎力|GTD⑤マンダラ思考で整理する
社会人基礎力|GTD⑥システムをマンダラ思考で見直す - 決定版「図解」十二縁起
コラム 自我と交流分析
- 100年「し合わせ」な整え日記
- 自他肯定をライフスタイルにする『お粥さんプロジェクト』
- 人生の方程式から外れない<イマジン>3つの自我の使い方
- メンタルモデルを変える5つの心とエゴグラム
- 般若のゴエス|自分を忘れるアサーティブ・コミュニケーション
- 般若のゴエス|アサーション・コミュニケーション|率直について
- ロジカルシンキング
- ラテラルシンキング
- システム思考
関連サイト
ゲンキポリタン大学は(社)いきいきゴエス協会の運営です。
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