「十牛図」5枚目の絵「牧牛(ぼくぎゅう)」では、牧人は暴れる牛を手なずけながら帰途につきます。
ここでいう手なずけるとは、煩悩を無分別智の炎で焼き尽くすことを指しているようです。
人生脚本に染み込んだ煩悩
全ての物事は原因があって結果があります、因果の法則によって成り立っています。
手なずけるには原因を知って、不安を取り除くのが鉄則です。
顕在意識、潜在意識に蓄積された煩悩にも原因があります。
いっぱい原因があるので、何から手をつけていいのか解らなくなります。
牛(=本当の自分)が落ち着いたなら、手なずける必要はありません。
手懐けなければならないとは、自分を捉えたけど、まだまだ落ち着いていない、手綱を緩めたら、どこに行ってしまうかわからない状態です。
さあ、どうするか?
腕の見せ所です。
気づきが深まれば行動になる
煩悩の原因はひとことで言えば「生への不安」
子どもにとって愛されることは生の保証みたいなものです。
ラケットは愛されているかを確認するもの、
自分がつらい状況にあると見せつけて、どうしてくれるか確認するのがラケットの狙い。
愛されている(=保護してくれる)を確信することで安心できます。
愛情がたっぷり注いでもらっていないと感じている幼児は、ラケットの手法を、そのまま人生脚本に持ち込んでしまいます。つまり習慣化してしまい基本姿勢になります。これが認知の歪みになります。認知の歪みの背景には「愛された希求があります。とっても複雑な脚本になるだけでなく、現実的な対応が希薄になります。消費社会はそこを突いてきます。
しかも脚本の結末は否定的なモノになります。たとえば「嫌われる」「見捨てられる」
そうすると100年生きて、最後に「見捨てられる」・・・・こんな恐ろしくて寂しい脚本を書きます。目的がそうなれば、それを実現するように暮らします。
たとえば「誰にも看取られずに孤独のうちに死んでいく」とか。
これを実際にやり遂げます!そのための人生脚本を書き上げから可能になります。
まず「嫌われる」「見捨てられる」ように、認知を適応させます。
すると、引っ張られた男子は「なんで先に歩いているのに譲らないといけないんだ」とつぶやきました。他の二人は「当然やろう」と状況判断をすることを説いていたように思います。
この関係がその後も続くようなら、価値観の違い(認知の違い)から、やがて友人関係は壊れると思います。
人に共感されない認知をずっと続けていると、「嫌われる」「見捨てられる」は簡単にできてしまいます。
なぜ不幸になりたがるのか
愛される、保護されることでした。
しかし目的は真逆に裏返ってしまいました。
ラケット感情を人生脚本に持ち込むために、巧妙に「歪んだ認知」という戦術を使ったからです。
思い通りにならない、思い通りにしたい
思い通りにしたい、思い通りに行くと考えているから、そうならなかった時に苦しみを感じます。
思い通りにならない苦しみが煩悩になります。
思い通りにならない煩悩は「執着」になり、ますます強くなってしまいます。
牧人は牛を手懐けながら、帰途を続けます。
家が遠いか近いか・・・・
もうすでに気づいたから牛は逃げ出しました。気づきを深めると牛は行動を変える時を迎えます。
牧人にとっては、牛の気づきが深まり行動に変わることを唯一の楽しみに歩いていきます。
煩悩を無分別智の炎で焼き尽くすときは迫ってきています。
幼児の万能感が錯覚の原因
幼児はひとりで生きていけないので、欲求を泣いたり、ラケットを使うことで、表現して大人を支配します。
そこで自分には万能の力があると錯覚します。
その万能感は期間限定で、幼児期だけに許された特権的で、いつまでも通用しません。
- 幼児期に受け入れてもらえるとストロークをもらうので安心します。
- 安心できないと、何度も、(いのちの危険を感じて)、執拗に確かめます。
幼児期にはそれが解りませんが、解らないのに、人間関係の仕方で人生脚本を書いてしまいます。
子どもにとって人間関係は生命線です。人間関係の仕方はいちばん関心の高いことです。
人間関係に不安があると、そのまま物事の事実の受け止め方、つまり認知の仕方にも影響します。
十二縁起、変えられない仕組み
成長期は、とても複雑な時期です。
成長期に不安があると人生脚本をネガティブにする原因になります。
しかし考えたことではなく、感覚でつかんだことなので、記憶にありません。記憶にないけれど感覚で記憶したことで、しかも繰り返し思い込んでいるので、どんどん強くなっています。
十二縁起
成長期はなぜ難しいのでしょう?
お釈迦様は全ての物事は原因があって結果があると説いています、
因果の法則は十二縁起にも明確に読み取れます。
- .無明(むみょう)
- 『行(ぎょう)=行為』
- 『識(しき)』
- 『名色(みょうしき)』
- 『六処(ろくしょ)』
- 『触(そく)
- 『受(じゅ)』
- 『愛(あい)』
- 『取(しゅ)』
- 『有(う)』
- 『生(しょう)』
- 『老死(ろうし)』


この因縁を変えることが難しいので、4大真理を受け入れて、だからどうすると考え、最適を行動する。最適とは執着しないことです。
執着の種になることをしない・・・そこで「無分別智」なのです。


牛は気づいたらから逃げ出したのです。すでに行動を起こした事実を受け入れて、牧人は手綱をゆるめずに信じてあげようとしています。
煩悩を焼き尽くす無分別智の炎
無分別智とは、私とあなた。施す人と受け取る人。というように分け隔てしないこと。
認知の歪みにある二分法的思考(dichotomous thinking)をしないことです。
「無分別の智慧」=「分け隔てしない智慧」と解釈できます。

思い通りにするためのラケットが通じなくて、思い通りにならないことへの執着が、人生脚本に反映されているのです。
煩悩とはこの執着です。自分が・・・自分が・・・認知の歪み(=二分法的思考)が苦しめます。
無分別智(=自分と他者という対立を捨てる)を可能にすると、慈愛(=共感)が生まれますが、自分への執着が対立する思考から自由にさせません。
牧人は、牛を叱るわけでも、服従させようともしていません。
牛の傷ついた心への共感、牛のいのちの本性を労わる気持を持ちながら帰途を続けます。
まとめ
十牛図、5枚目の牧牛(ぼくぎゅう)は、暴れる牛を手なづけながら家に帰る道中です。
暴れるには原因があります。
全ての物事は原因があって結果があります、因果の法則で成り立っています。
ラケット、認知の歪み、人生脚本にも、十二縁起という原因があります。
十二縁起の仕組みで自己執着心が生まれてしまいます。
因果関係の連鎖に気をつけましょう。






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