誰も言わなかった禅「十牛図」七の忘牛存人(ぼうぎゅうぞんじん)

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「十牛図」七番目の絵は「忘牛存人(ぼうぎゅうぞんじん/ぼうぎゅうそんにん)」です。

「忘牛存人(ぼうぎゅうぞんじん/ぼうぎゅうそんにん)」とは、もうすっかり牛のことも忘れて、ただあるだけの状態です。

牛がいなくなったことで、牛を探し、追いかけたことからはじまった「十牛図」のストーリーなのに、これでいいのでしょうか?

何か深い訳がありそうですね。

誰も言わなかった「十牛図」七番目の絵「忘牛存人(ぼうぎゅうぞんじん/ぼうぎゅうそんにん)」を解きます。

牛はどこに行ったのか?


無我と言う言葉をよく聞きますね。

「無我」というと、「無我の境地」「無我夢中」が浮かびやすいのではないかと思います。

多くの人が「私というものがある」と考えているのは間違いで、私というものはないというのが無我です。無我は仏教とは何かを解くキーワードになる言葉です。

一体どういうことなのでしょうか?

牛は本来の自分でしたね。その牛とひとつになって、家に帰ってきました。
いまここにいるは自分と一体になった自分です。
だから牛が見えなくても大丈夫です。

無我とはなにか?

さて、いまここにいる自分(いのち)は様々な縁があって生かされています。

縁がなければ自分(いのち)はありません。
縁には良い縁もあれば悪い縁もあります。
縁からは誰も抜けだすことはできません。

あなたが花子と暮らしたいと思っても、花子には花子の縁があり、縁の都合で暮らせないこともあります。もちろん暮らせることもあります。すべては縁なのです。
諦めなさい、努力をしても無理だということではありません。

現に逃げ出した牛に気づき、「得牛」を成し遂げ「牧人」になり、牛を飼いならしたのは努力という原因を自分が作った結果です。努力が縁を作ったのです。

いまここにいるのも、努力があってこそなのです。

もし誰かが牛を知らないかとやってきたらどうしますか?

私、私。私のもの

もし誰かが牛を知らないかとやってきたら、あれは私の牛(本当の自分)だ。と反論するでしょう。
ダメだ、あの牛は私のものだ
同じように、
これはみんな私のもの、
これも私の家、
これも私のお金、
これは私の身分、
これは私の仕事、
これは私の妻(夫)、
これは私の子供、
これは私の身体
と思っています。
ダメだ、これは私のものだ
と放しません。

しかし、世界は諸行無常ですから、縁も思うようには続きません。
努力をしたことも、なにごとも、続かないのです。
続かないことを続くようにしようとすると「執着」が生まれます。

努力して、私のものになったのに、ずっと私のものであってほしいのに、思い通りにならない。
怒りが生じて、苦しむことになります。
私があると思っていることが原因になって、さまざまな問題が起きて、悩み苦しむことになります。

無我は、ただ私はいないということではなく、私のものも、実体となるものはなにもないということなのです。

だから忘牛存人(ぼうぎゅうぞんじん/ぼうぎゅうそんにん)」とは、ただあるだけなのです。
禅では気づいて、悟ることが重要です。
気づけば、悟ることができる。
悟るとは行動することです。
本当の自分に気づき、得牛、騎牛帰家で家に帰ってきました。
たっぷり行動していまここにいます。

これ以上、なにがあるのでしょう。

つまり忘牛存人(ぼうぎゅうぞんじん/ぼうぎゅうそんにん)」では、厳しい修行のすえに得た悟りさえ、消えているのです。これが無我の状態です。

本来の自分とは、牛ではなかった!

本来の自分は牛だと思っていましたが、家に帰ってみたら、
さらに、本来の自分はここにいないことことに気づいたのです。

悟ったことさえ気にしない、何ものにもとらわれない本来の自己になれるからです

「この世にあるものはすべて因縁で生まれてきただから体はない」というのが本来の自己とは、縁のなかにいる自分です。

重要なのが、無形資産と呼ばれる4つの資産です。

無形資産

無形資産とは、生産性資産・活力資産・変身資産にパートナー資産を付け加えたものです。
これら4つの無形資産は、金融資産と相互依存の関係で育っていきます。

そこで疑問が起こると思います。
これらは「私そのものではないのか?」

私のことですが、持続可能な社会をキープするために必要な資産です。

ウイルスが世界に恐怖をばらまき、この先、なんども、災害と併せて。私たちは大きな変化を経験するに違いないでしょう。

そこでは不条理を解決するのは、「大宇宙」の発想です。つまり一人一宇宙の連帯と絆です。

人は誰も、一人一宇宙で入ることも出ることもできないけれど、繋がることができます。
近未来に置いて、人間が存在できるのかどうかすら解らない時代に、それぞれの一人一宇宙を堅固にしておく必要があります。

「よい人生」を送るための条件について、これまで漠然といだいていた常識の多くを聞い直す必要に迫られています。サイバーアタック、サイバーセキュリティ標準の遵守など変化に目を閉ざすのは大切な人たちの未来を危険にさらし、社会を持続不可能にすることでしかありません。

精神的な幸福と経済的な豊かさを得られる働き方を見つけることは、将来の自分と大切な人たちにあなたが贈れる素晴らしいプレゼントだ。未来について考えて行動することを後回しにし、手遅れになるのは避けなければなりません。

そのためにはひとりひとりがライフプランを策定し、もともとのいのちを守ることは、いのちへの慈愛、共感なのです。

まとめ

「十牛図」七番目の「忘牛存人(ぼうぎゅうぞんじん/ぼうぎゅうそんにん)」は。悟ったことさえ気にしない、何ものにもとらわれない、執着のない、本来の自己になれたことを表しています。

気づけば、悟ることができる。
その悟りさえ気にならない一体となった状態は、慈愛(共感)そのものです。

誰も言わなかった禅「十牛図」はじまりの尋牛(じんぎゅう)
「十牛図」最初の絵「尋牛」の本質は、「いまの自分」がいないことに気づいた自分を知ることにあります。気づけば行動する。禅の鉄則です。「いまの自分(=本当の自分)」がいないのは、人生脚本に支配されているからです。人生脚本に支配から解放されるには、いまの自分が書いた人生脚本(=ライフプラン)に乗り換えることです。
誰も言わなかった禅「十牛図」二の見跡(けんせき)
「十牛図」見跡の本質は、「いまの自分」が存在することに気づいた状態です。気づけば行動する。禅の鉄則です。「いまの自分(=本当の自分)」に自分らしさの良さを体感するには、具体的な行動が必要です。空想と想像で書かれた人生脚本の支配から解放、執着から離れるにが、いまの自分が書いたライフプランを掲げて達成に邁進する必要があります。具体的な行動を通じて「いまの自分」の良さを解ることができます。
誰も言わなかった禅「十牛図」三の見牛(けんぎゅう)
「十牛図」見牛の本質は、そこにいると知った瞬間、心の底では「いまここ」にいることになります。気づいた自分を知ることにあります。 気づけば行動する。禅の鉄則です。人生脚本に支配されている自分に気づくことは。人生脚本から解放される自分を実践することです。
誰も言わなかった禅「十牛図」四の得牛(とくぎゅう)
十牛図・尋牛は、いなくなった自分に気づいた絵でした。見跡は、どこに自分はいるんだと探す絵でした。見牛で、そこ隠れている自分を発見しました。4枚目の得牛は、隠れていた自分を捕獲します。捕獲できるかどうかは自分の腕次第なのです。人生最大の公案をあなたがどう気づくか、「得牛」の絵は問いています。
誰も言わなかった禅「十牛図」五の牧牛(ぼくぎゅう)
十牛図、5枚目の牧牛(ぼくぎゅう)は、暴れる牛を手なづけながら家に帰る道中です。暴れるには原因があります。全ての物事は原因があって結果があります、因果の法則で成り立っています。ラケット、認知の歪み、人生脚本にも、十二縁起という原因があります。 十二縁起には成長する手順と因果関係が説明されています。
誰も言わなかった禅「十牛図」六の騎牛帰家(きぎゅうきか)
誰も言わなかった十牛図6枚目「騎牛帰家(きぎゅうきか)」は、本来の自己とそれを求める自己が一体になったので、牛の背中にまたがることで、自分の目線が高くなり遠くまで見えるようになったことを意味します。認知の歪み、ラケット、人生脚本から解放されたのです。内面から湧き出る仏性で共感を悟れるのです。
誰も言わなかった禅「十牛図」七の忘牛存人(ぼうぎゅうぞんじん)
「十牛図」七番目の「忘牛存人(ぼうぎゅうぞんじん/ぼうぎゅうそんにん)」は。悟ったことさえ気にしない、何ものにもとらわれない本来の自己になれたことを表しています。気づけば、悟ることができる。その悟りさえ気にならない一体となった状態は、執着のない、慈愛(共感)そのものです。

 

 

 

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