土佐のまほろばと三法印

200年ゴエス
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約1300年前の律令時代、現在の高知県南国(なんこく)市には国府が置かれ、土佐の政治経済の中心地「土佐のまほろば」と呼ばれて栄えていました。「土佐のまほろば」は、平安時代前期から中期にかけての貴族・歌人であった紀貫之(きのつらゆき)の『土佐日記』に登場します。

『古今和歌集』選者のリーダーであり『土佐日記』作者にして三十六歌仙の一人であった紀貫之は、国司(古代から中世の日本で、地方行政単位である国を支配する行政官として中央から派遣された官吏)として土佐に赴任しますが、土佐の風景や人柄の美しさに感嘆したのです。
905(延喜5)年に成立した、初の勅撰和歌集「古今和歌集」。編纂に携わったのは紀貫之、紀友則(きのとものり)、凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)、壬生忠岑(みぶのただみね)の四人ですが、リーダーであったのは一番歌の才能もあったのが紀貫之でした。国司として土佐に赴任しましたが、人のあり方へのこだわりが強かったことがわかります。

紀貫之に射抜かれた小っぽけな自分には「土佐のまほろば」は、生きる苦を楽にする創造工房です。

土佐のまほろば


この「まほろば」という言葉は、万葉集や古事記に出てくる「周囲を山々で囲まれた、実り豊かな土地で美しく住み良いところ」という意味です

大阪出身の作家司馬遼太郎氏は、「北のまほろば」として、青森県を生涯愛しましたが、温暖な高知と違い雪に囲まれた青森は厳しい自然の地です。
司馬さんは、青森県民のことを”人間の蒸留酒“のような人々と称しました。
住みやすいとは単に風光明媚というわけではなく、安心安全に、そこに暮らすひとの生きる苦を楽にするにふさわしいルールが自然と一体となって創造する智慧が働いていることを教えてくれます。

紀貫之が「まほろば」と詠い、自然を慈しみ、智慧を働かせて共に生きる土佐南国市にも言えることです。奈良の大仏さんと共に、国家鎮護のため国府内に創建された土佐国分寺(四国霊場八十八カ所、二十九番霊場)は、いまもまほろばの地で、地元ならびお遍路の方に愛されています。

三法印

智慧の始まりとはなんでしょう。「三法印」です。
三法印とは「諸行無常」、「諸法無我」、「涅槃寂静」の三つで、仏教の根本です。(『一切皆苦』を足すと『四法印』になります。)
過去の震災、元旦の震災、政治のトラブル、芸能の破廉恥など、つい後ろ向きの、厭世的な気分になりがちですが、いまを生きる私たちは、龍が空に舞い上がるように、スマイルの魔法を信じて「諸行無常」の理法を前向きに、明るく、積極的に解釈しなければいけません。

「まほろば」という言葉はいまでは「ウェルビーイング」に通じますが、日常的に使う言葉ではありませんが、「まほろば」「三法印」の意味を知って、「し合わせ」に暮らしたいと思いませんか。

紀貫之邸(国司館跡)

住所 南国市比江
案内

南国I.Cから南へ約2km、JR後免駅から北へ約4km、国府小学校前から東へ約300m

お問い合わせ先 088-880-6569(南国市生涯学習課)
土佐のまほろば」の風景には、悠久の時の流れを今に伝える歴史の町・南国市を更に「魅力ある地域」として活性化・発展させることを目指し、風景の特徴ごとに7つのエリアを展開し、様々な道づくり・風景づくりに取り組んでいます。その範囲は、国道32号、県道45号線(南国インター線)を中心とした国分川周辺と南国市北部地区におよびます。
 

国府小学校の東300mの南側に48代目の国司、紀貫之邸跡があります。邸跡では高浜虚子の句碑等もあり、この邸跡の南一帯が土佐の国衙(こくが)跡です。国司館跡に身をおいて、司馬遼太郎氏のように、日本とはなにか、日本人とはなにかを自分の頭ではなくハートで哲学するのも素敵です。

第一の法印、諸行無常と土佐のまほろば

すべての現象は仮の現われであり、常住のものではなく、私たちど同様に「まほろば」も、いつかは必ず変化するか、消滅するものであることを見きわめて、真実に目を向けましょう。自然現象によってライフラインが破壊されたといっても、そこから創造ははじまります。「諸行無常」について歪んだ解釈をしないようにしたいものです。

現代の土佐は、「まほろば」にこだわり、いまに生き返らそうと頑張っています。いまに蘇らせる意味はどこにあるのでしょう。生きる苦を楽にするためではないでしょうか。

人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける・・・

紀貫之は、百人一首でこう読みました。その意味はこんな感じです。

さて、どうだろう。他の人の心はよく分かりませんが、昔なじみの この里の梅の花は、昔のままの香りを匂わせていることですよ。
草葉の露が朝日に消えるのは、無に帰してしまったのではなく、水蒸気となって空に上ったのです。その水蒸気は、また、雨となって地上に降り、田畑を潤し、水力となり電気を起こすエネルギー源となります。

蒸発したのは、死滅したのではなく、形を変えたに過ぎない。新生の準備をしているに過ぎないのです。

われわれの住む宇宙というものは、ひとの無数の細胞も含めて、常に無数の衰滅と創造が繰り返され、それらが大きく調和している生きた世界に暮らしていることを忘れないようにしたいものです。
今日もニコニコ。ハッピースマイル。土佐のまほろばに幸あれ。
 

第二の法印、諸法無我と土佐のまほろば

われわれの住む宇宙は、常に無数の衰滅と創造が繰り返され、それらが大きく調和している生きた世界、つまりわたしたちが直接触れているのは、宇宙の万物万象が織りなすひとつにすぎないのです。諸法無我の真理に深くコミットメントできればできるほど、いまを美しく楽しく過ごせます。

三法印」第二の法印「諸法無我」は、われわれ人間は、孤立してそれだけで存在するもの「我」ではなく、多くのものが相互依存の関係の上で存在しているものだと説いています。すべての万物万象はつながっている。そのことがはっきりわかればわかるほど大切なひととの別れる苦しみという誤解から解放されます。

まことにわれわれは、みずから生きているようですけれども、実は目に見えぬ多くのものに生かされているのです。

人間ばかりでなく、ありとあらゆる生物・無生物ひとつとして「独立した我」というものを持ったものはないのです。この諸法無我という教えを、人生の上に、どう生かさねばならないのか。それは、能登半島地震をはじめ癌などの病による生死に自ら明らかでありましょう。

自分の食べる物・着る物・住む家、その他身辺のすべてのものが、無数の多くの人々によってつくられ、運ばれ、供給されたものであることを思い、また逆に、自分のはたらきが無数の多くの人々に必ず影響を及ぼすものであることを深く考えなければなりません。

自分の社会生活は、必ずほかの人々の社会生活とつながり合っており、そのつながり合いは、あたかも無数の網を四方八方・上下左右にくまなく張り巡らしたように複雑窮まるものであることを、常に認識しておきましょう。

 

所有する我などないのだ。死などない。

ただ宇宙があるのだと認識していれば、自分が、わがままな力を加えて、その網を無理に引っ張ったり、かき回したりすれば、大なり小なり、その網の目はもつれ、あるいは破れて、世の中全体の総合的な活動のバランスに多少とも崩れが生じ、その流れに停滞が起こり、混乱に陥るという自戒の心を持たなければなりません。


われわれの身体を例にとっても、人間の肉体は酸素・水素・炭素・窒素といった三十種の元素から成り立っていますが、それらはみな、なんらかの形で地球上の生物・無生物から供給を受け、なんらかの形で、それを返しているのです。

たとえば人間は植物が吐き出してくれる酸素を吸って生きており、植物は、人間その他の動物が吐き出してくれる炭酸ガスを取り入れ、炭水化物に変えることによって、成長します。


この宇宙のすべてのものごとは、縁起によって生じ、存在しており、永遠不変の存在「我」は無いという真理が「諸法無我」に凝縮されています。

「我」というそれだけで、他となんの関係もなく生じたり、存在したりするものはないのです。すなわち、この世のすべてが、相互依存の関係にある「つながり」なのだから、身近な人が亡くなったということで、悲しまなくてもよいのです。

天気の良い日に大空に向かってスマイルで手をふれば会話もできるのです。シンクロニシティ(つながり)ができるように法印が曇らないように磨いておきたいものです。

第三の法印、涅槃寂静と土佐のまほろば

第三の法印、涅槃寂静は、言葉にするならシーンと静まり返った状態です。活動が停止したように誤解されますが、しかし、それは一部の特殊な信仰者の理想であって、人間みんなが、そんな状態を望むようになったら、この社会は成り立ちはしないのです。まず第一の段階として、諸行無常の悟りによって世のわずらいに引きずり回されぬ心の安定を得た、つまり、解脱を完成した静安の状態を、涅槃寂静の境地であると考えなければなりません。
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しかし、諸行無常の理法もダイナミックに受け止めなければならないのと同じように、現代人の涅槃寂静は、単なる「静安」にとどまってはならないのです。心身が動きを止めた時の安らぎ、これも確かに安らぎです。激しい活動があれば、そのあとにはかならずこうした安らぎが必要です。活動と休息がある快いリズムをもって繰り返されるのが、人間の健康な生活であるといっていいでしょう。
それにしても単に静安ばかりを人生の幸福として追い求めるとしたら、これは明らかな考え違いというべきです。諸行無常であり、かつ諸法無我、つまり、流動があればこそ生命があるのです。
鉱物のように、運動しないものは、死んだものです。他からの力が加わらないかぎり、いつまでも動かずにいるのですから、普通の意味では、生命のない死んだものといってもいいでしょう。
もし人間が、心身の静安を人生の第一義として、それを追い求めるならば、つまりは鉱物のような状態を望むことであって、人間に生まれてきた意義をなげうってしまうことになるでしょう。真実の恋と同じように、ほんとうの涅槃は無数の創造が調和するところにあります。私たちは全て繋がっています。わがままを押し通しなら、繋がりに破損が生じます。人間が求めるほんとうの安らぎとは、どんなものでしょうか。
 
異なったものが繋がるには、コツがあります。それは、動きの中にある調和です。ノアの箱舟の話を思い出してください。能登の人々を救うために一次避難、二次避難、と段階的に重ねていくのは、奇跡的と賛辞されたJALの避難行動に通じるものです。そこには激しい恋のように沈着な行動とは裏腹に「絶対に助ける」という揺らがぬ決意があったからです。涅槃寂静とはそういうことなのです。
三法印とは、絶対的に安らぎを得る方法なのです。少女たちが寂しさからホストや地下アイドルに狂い身を崩すのは調和を考えない行動の末であり、そこには間違った自己主張「我」があります。
違った音色を出すいくつもの楽器が高低の違った、強弱の違った音を同時に出して、それがピタリと調和しているオーケストラの心地よい世界、それが涅槃です。
ひとりひとりの人間が、自分にある才能、性格、職業を支えるあり方に応じて、一人一宇宙であるけれど、繋がっている大宇宙を形成するのだと「自分を、他人を、社会全体を、しあわせにするものごと」を絶えず創造していくならば、創造の働きによって天地の真理によって大きなやすらぎが調和されます。
すべてはつながっている。相互依存の関係にあるのだから、すべてはよくなる、という希望を持つ必要があります。様々な体験をしていますが、それは私たちに、自分自身についての何かをを教えようとしているのです。

そして私たちが自分自身について多くを学べば学ぶほど、より多くの光を、つまりより多くの暖かさと愛を、得ることができるのです。希望を持てないと精神体のレベルでは「手放す」困難を感じて心地よく生きることができなくなります。肉体のレベルでは、背中の真ん中あたりが痛くなり排泄器官や性的器官にトラブルが生じます。

 
希望と信頼はワンセットです。自分を信頼できればどんな人にも自分を率直に表現できます。その体験から学ぶほどに周りの人から信頼されるようになります。この仕組みから誰に対してもどんなことでも打ち明けることが可能になることに気づくことができるはずです。

現代の土佐が「まほろば」にこだわり、いまに蘇らせようとするのは、希望や信頼が生きる苦を楽にするためではないでしょうか。と先述した意味がお判りいただけたでしょうか。万物万象の世界に自分自身を投げ込んでしまえば「天地と我と同根、万物と我と一体」つまり「天地同根万物一体」が涅槃の境地なのです。
 
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南国市観光協会 TEL:088-855-3985(※平日8:30~17:15)

まとめ

まほろば」という言葉は、万葉集や古事記に出てくる「周囲を山々で囲まれた、実り豊かな土地で美しく住み良いところ」という意味です。ところが大阪出身の作家司馬遼太郎氏は、青森県を「北のまほろば」、青森県民のことを”人間の蒸留酒“のような人々と称して生涯愛しました。住み良いとは単に風光明媚というわけではなく、安心安全に、そこに暮らすひとの生きる苦を楽にするにふさわしいルールが自然と一体となって創造する智慧が働いていることを教えてくれます

自然を慈しみ、智慧を働かせて共に生きる土佐南国市にも言えることです。国家鎮護のため国府内に創建された土佐国分寺(四国霊場八十八カ所、二十九番霊場)としていまも地元ならびお遍路の方に愛されています。日本の国力が低下するいま、日本とはなにか?日本人とはなにか?「一切皆苦」の人生を楽にする哲学しましょう。社会人基礎力を面白いぐらいアップデートしましょう。
何より大切なのは自分の仕事に哲学はあるか問いかけることです。

あとがき

一般社団法人いきききごゴエス協会の酒井実です。
この度、「土佐のまほろば」に強い感銘を受けて、残る余生を一日一生で生きるための「酒井実」を改め「三宝院沙門(さんぽういんしゃもん)」と勝手に思いつきと開き直りで改名しました。

つまり戒名です。戒名は出家する際に授かるものですが、一般には人が亡くなった後につける名前だと考える方がたくさんいらっしゃるのではないでしょうか。実はこの戒名、本来であれば生前に授かっておくものです。近年では亡くなってから授かる方が多くなっていますが、誤解です。戒名は仏弟子(ぶつでし)になった証として与えられる名前のことです。有名な「四門出遊」(しもんしゅつゆう)つまり「生老病死」(しょうろうびょうし)の四つの苦しみを初めて目のあたりにした王子だったお釈迦さまが出家の動機になったお話です。お釈迦様は宗教も学ばれましたが、役たたないと悟ってご自身で「一切皆苦」を解決するために研究されました。それが仏教で、悟りを開いた人の意味で仏陀(Buddha)と呼ばれています。但しBuddhaは固有の名詞でないので釈尊と呼ばれたりもします。釈尊を仏教の開祖として宗教化されましたが、宗教化には反対でした。自分亡き後リーダーを立てるなと言い残されています。

しかし命がけで辿りついた釈尊の真理を弟子たちはひとりでも多くのヒトを介して後世に伝えずにいられなかったのでしょう。戒名は釈尊の教えを実践を通して学ぶ決意表明です。読んで字の如く戒めを覚悟したことを表しています。戒名には一定のルールがありますが、釈尊の教えである「自灯明・法灯明」に則って無視しています。

故人に戒名を授けてもらう理由は、出家していない人も迷うことなく極楽浄土へ行くためです。仏教では、戒名(宗派によっては「法名」)を授けてもらい戒名で葬儀を行うと、迷うことなく極楽浄土に導かれると考えられています。

『慈悲=精励』というと、こいつ何を言ってるのかと思われますが、精励するから迷わず生きていける。つまり精励はゾンビを回避する功徳なのです。良い事例が大谷さんです。大谷さんは確かに立派な人物だけど、思う一方で「ストイック」だと禁欲生活には難を示す。ところが違うんです。大谷さんほどの自由人は稀有な存在なのです。「沙門は欲望を遍知して、つねに自由人なり。」沙門とは釈尊が出家された当時、インドの宗教者あるいは思想家を二分していた一つのグループの呼称で何かに属さないグループの総称です。ひたすら「ざんげ」してヒトがしあわせに生活するにはどうしたらいいのか、拝み続けていくしかありません。

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