誰も言わなかった禅「十牛図」八の人牛倶忘(じんぎゅうぐぼう/にんぎゅうぐぼう

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「十牛図」の八「人牛倶忘(じんぎゅうぐぼう/にんぎゅうぐぼう」は、禅ではおなじみの空、円相になっています。

円相には「必要がものは全部あり、無駄なものはなにひとつない」という意味があります。

「十牛図」の七では、牛がいなくなって牧人だけでした。

「十牛図」の八では「人牛倶忘(じんぎゅうぐぼう」では、牧人もいなくなりました!
どうしたんでしょう?

  • 頑張っているので望む結果が出せないでいる方
  • 思うようにいかず疲れたと感じている方
  • これから何かを始めようとしている方
  • 変化を恐れている方

円相

牛のことを忘れたばかりか、ここには牧人の姿さえ見えません
あるのは、真っ白な円かつだけです

「人牛倶忘(じんぎゅうぐぼう/にんぎゅうぐぼう」は、人も牛も忘れられたという意味で、空白の円があるだけ。

空白の円は、禅のシンボリックな表現で「円相」といいます。

禅語「円相」の意味は「必要なものは全部あり、無駄なものはなにひとつない」・・・・空(くう)です。

つまり人も、牛も必要がない・・・・ということになりますね?

つまり「この世にあるものはすべて因縁で成り立っているだから体はない」・・・これが空!

空(くう)とは何か

空とはなんでしょう。
なりきれば(自分は)消えてしまいます。

まどろんでいた牧人は、「真の自己になりきった」ことで、「真の自己」も空になりきって、ひとまずめでたしです。

まどろむ・・・つまりこれが瞑想状態です。すべては縁でできている。あるがままの自分とは、縁でできた自分だから縁があるだけで実体はない。目先のことに囚われず、ゆったりと自然に生きるとよい・・・だから牛は消えたのです。

もし、まどろんでいた牧人が「おれは真の自己になりきった」と自慢気に語れば、その瞬間、牛も見失い、いちばん最初の絵である「尋牛」の図に戻ってしまいます

「この世にあるものはすべて因縁で成り立っているだから体はない」・・・それが空です。
自我(=自意識)がない状態。

つまり自我があるうちは、執着が生まれ、迷いが生まれる危険な可能性があります。

「人牛倶忘」の状態は、執着も迷いも生まれない状態であると示唆しています。

誰もが望みながら具体的にイメージできなくて、どこか別の場所にあると探している。
でもこんなに近くにあったんだという話ですよね。疲れない生き方、楽しい生き方の極意です。

「人牛倶忘」は、ライフプラン ステップ7の段階

この「人牛倶忘」の状態を、ライフプラン ステップ7の段階に置いています。

マインドフルネスなライフプランは、は次のステップで行います。

  1. ステップ1.お客様との関係確立とその明確化
  2. ステップ2.お客様データの収集と目標の明確化
  3. ステップ3.お客様のファイナンス状態の分析
  4. ステップ4.対策とプランの検討・立案と提示
  5. ステップ5.プラン実行への決意表明
  6. ステップ6.プランの実行援助
  7. ステップ7.プランの定期的見直し

「人牛倶忘」の状態を、ライフプラン ステップ7の段階に置いてあるのは、執着も迷いも生まれない状態にするからです。

ライフプランを意識するようでは、気負いがあり疲れます。
日常生活として顔を洗うように習慣化されたものなら、淡々と過ごせます。

しかし世の中は諸行無常、変わらないものはありません。
ライフプランも見直しが必要になります。

定期的な見直しは健康診断をするように行います。すべては平常心なのです。

日常生活にビルトインされたライフプランは意識することなく、暮らしに溶け込みます。

まとめ

「人牛倶忘」の状態は、気負いもなく。執着も迷いも生まれない状態です。
もはや感情的な人生脚本もなく。日常生活を淡々とルーチンワークで繰り返すだけです。

ルーチンワーク(習慣化された生活)を退屈に感じるのは、刺激を自分の外に求めるからですが、もうそんな無駄なことをしなくても、やりがいも生きがいも自分のうちに全部揃っています。

ルーチンワークの先によろこびのゴールがあり、エンドレスにワンダフルな人生があります。

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