誰も言わなかった禅「十牛図」⑥騎牛帰家(きぎゅうきか)

「十牛図」騎牛帰家(きぎゅうきか) 十牛図
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三宝院沙門
三宝院沙門

こんにちわ。3倍とんがる!モチベーションで歩き遍路で『十牛図』を突き抜けるFP.アセットドクター、ゲンキポリタン三宝院沙門です。もっと自由に幸せになれることを知っていただだけることを広めたいと精進しています。

愛の規範はオープンハートが鉄則です。熱意に溢れるだけでなく、時には忍耐強く、精力的に愛して自己実現ができる能力を示してあげましょう。よりよく生きたい人にとって、禅の公案は「気づきの宝庫」です。人を許すことはポジティブな態度を引き寄せます。

「十牛図」⑥の「騎牛帰家」は、渾身の力で捕獲させまいと抵抗した牧牛の背中に持って家路へついた牧人は想曲の音色を楽しみながら、二人三脚の道中です。本来の自己を自分のものにできた安堵でしょうか。身も心も安らかに自由を深く観察する余裕を感じる絵になっています。これが本来の人間の姿です。努力せずとも仏性が花開き部仏性に任せておくと車の自動運転さながらに信じていればいいのです。これが悟りの正体です。

「十牛図」⑥騎牛帰家

騎牛帰家

「十牛図」は真の自分を見つける禅の教科書に留まらず人生の教科書です。
十牛図では、真の自己を尋ねる旅を、牛を探してゆく道として表しています。

1,尋牛 (じんぎゅう) ・・・・・・・・・・牛を探しに旅に出る  
2.見跡 (けんせき) ・・・・・・・・・・・牛の足跡を見つける  
3.見牛 (けんぎゅう) ・・・・・・・・・・ようやく牛を見つける  
4.得牛 (とくぎゅう) ・・・・・・・・・・野生の牛はすぐに暴れ出す  
5.牧牛 (ぼくぎゅう) ・・・・・・・・・・暴れる牛をいかに飼い馴らすか  
6.騎牛帰家 (きぎゅうきか) ・・・・・・・牛に乗って故郷に帰る  
7.忘牛存人 (ぼうぎゅうそんにん) ・・・・ 飼い馴らした牛は忘れてしまっていい  
8.人牛倶忘 (じんぎゅうぐぼう) ・・・・・人も牛もいないゼロの世界  
9.返本還源 (へんぽんげんげん) ・・・・・無の世界から有の世界へ還る  
10.入鄽垂手 (にってんすいしゅ) ・・・・・町に出て人々のために働く

『十牛図』は、中国の宋の時代の禅の入門書と言われています。
10枚の絵とそれぞれ漢文の「序(じょ)」と、漢詩の「頌(じゅ)」があります。
漢詩の「頌(じゅ)」は、廓庵師遠(かくあんしおん)禅師が作り、漢文の「序(じょ)」は、慈遠(じおん)禅師がのちに付けました。 


干戈(かんか)已(すで)に罷(や)み、得失還(ま)た空ず。樵子(しょうし)の村歌を唱え、児童の野曲を吹く。
身を牛上に横たえ、目に雲霄(うんしょう)を視る。
呼喚(こかん)すれども回(かえ)らず、撈籠(ろうろう)すれども住(とど)まらず。


牛に騎って迤邐(いり)として家に還らんと欲す
羌(きょう)笛(てき)声声(せいせい)晩(ばん)霞(か)を送る
一拍一歌限り無き意
知音何ぞ必ずしも唇(しん)牙(げ)を鼓(こ)せん
 
干戈已に罷み、得失還た空ず。
分別心との戦いも終わった、もう牛を捕まえるの逃がすのということも忘れた。
私たちは修行で一度は空の世界に、無の世界に行かなければならない。
そこには世界も無い、自分もない、何も無い、無いということも無い。
しかし、その悟りに尻すえていてはいけない。この世界に還ってくる。
空を見る前とは違うけれども、この世界に還らなければいけない。
一度、空を見て還った世界は、世界でないものを世界という世界です。
 
樵子の村歌を唱え、児童の野曲を吹く。
樵は歌い、村の子供は笛を吹く。
実にのんびりしたものです。もう悟りも迷いもない。有るも無いもない。生死も、善悪も、自他もない。
 
身を牛上に横たえ、目に雲霄を視る。
牛の背中に横たわり、そこには青空だけが見える。
後は牛が家まで連れて帰ってくれます。本分の家郷まで。
 
呼喚すれども回らず、撈籠すれども住まらず。
呼び戻す事も、とどめる事もできない。
臨済は言っています。途中にあって家舎を離れず。修行途中であるが、そこが本分の故郷である。
これは分かりますね。衆生本来仏ですから。
しかし、家舎を離れて、途中にあらず。本分にもいない。途中にもいない。悟りの世界にも戻らない。
そんなところに、留まっていない。もちろん道に迷ってもいない。
天を飛ぶような境地です。
 

牛に騎って迤邐として家に還らんと欲す
牛の背中に乗ってぶらぶらと家に帰る。
もう一番苦しい修行も通り越しました。悟後の修行で苦労する事もない。
 
羌笛声声晩霞を送る
えびすの笛の音が聞こえ、夕雲はながれる。
後は牛の好きにさせればいい。故郷はすぐそこです。
 
一拍一歌限り無き意
拍子や歌にこもる深い情感。
何を見ても見たものと一体、何を聞いても音は自分。日常がすべて自他不二の境涯です。
 
知音何ぞ必ずしも唇牙を鼓せん
分かる人には、何の言葉もいらない。
牛は好きな道を通りながら、道に迷う事はありません。危険な道も通りません。赤信号では止まります。無分別にありながらきちんと分別している。ここまで来れば、もはや言葉も概念を弄することもありません

 

生と死の図像学: アジアにおける生と死のコスモロジー (明治大学人文科学研究所叢書) 

「十牛図」第六図は「騎牛帰家(きぎゅうきか)」には次のような詞が付いています。

騎牛帰家: 騎(牧人)は牛に乗って、家へ帰る。

牧人は、なぜ楽しそうに歌を歌ったり、笛を吹いたりしながら、のんびりと家に帰って行くのか。
『十牛図』の説くところでは、牧人も牧牛も、もともと同じものです。
だから、やっとの思いで牧牛を捕獲して、手なずけても、「元に戻った」にすぎないのです。
それでも牧人が満足しているのは、誰に言われるでもなく、自からが牧牛を探しはじめたからです。
自分の足で歩き回り、大変な思いをしてきたことは自分だけの財産なのです。
ここが重要な点ですが、満足に値するかどうかは、何ごとにも、人の捉え方というのがあります。
「元に戻った」ことと、「何もしなかった」ことは決して同じではないという教えです。

たとえば愛する者が死に直面していて、その状態からなんとか救い出そうと「あらゆる手を打ってもダメだった」として「何もしなかった」ことは見た目の結果は同じですが、両者には明らかな違いがあります。
人間の行いには見えないことがあるのです。

自己と自己との戦いは終わり、得失の問題はなくなりました。
牧牛はおとなしくなり、逃げようとしなくなりました。牧牛の背に乗ると遠くまで見渡せ、牧人は想曲の音色を楽しみながら、家路をたどります。ついに本来の自己を自分のものにできました。自分の内面を深く観察する余絡もあります身も心も軽く、安らかで、自由な境地です。牧人は牛の背に乗って、家に帰ります。

牧牛が自然に家へと導いてくれるのです。本来の自己とそれを求める自己が体になったため、求めようと努力しなくても、いまこの瞬間を自分を生きれば仏性は自然に深まっていくのです。

私たちは旅行に出かける時、行く先を知っています。交通手段も同様に知っています。細かいことは知らなくても大丈夫です。あとはわかるものです。同じように人生の目的はどうでしょう。幸福・愛・安心・安全ではありませんか。あとは旅行に出かける時の要領と同じです。本来の自己とそれを求める自己が体になると求めようと努力しなくても、求めることはすべて自然に実現できるようになっていきます。
大事なことは自分を生きることだけなのです。自分を生きるとは、人生の目的を生きることです。

ハッピーブッダ

中国の禅宗の開祖は達磨、正しくは菩提達磨とよばれ、インド人ともルシャャ人ともいわれますが、達磨は六正紀初めに中国に入ります釈迦から千年もあとですから、中国にはすでに多くの仏教の宗派がありましたが、禅のすぐれた教えは迎えられ、今日にいたる基礎を築きます

達磨は悟りを得るにはつの方法と、四つの修行法があると教えていて、『二入四行論』として知られています。悟りへの道のりにはつの方法があり、経典(理論)から学ぶ「理入」(りにゅう)と、修行(実践)で悟る「行入」(ぎょうぎゅう)があり、この行入は四つの行からできています。「行入」には4つの実践段階(報冤行、随縁行、無所求行、称法行)があります。


『十牛図』第六図「騎牛帰家(きぎゅうきか)」では、「2つの問い」を投げかけています。

  • 牛に乗っているとはなにか
  • 笛を吹いているとはなにか。

穏やかに牧人と牧牛は歩いているように見えますが、実際には修行中なのです。
感情でいちばん根強いのが恨みで怒りは時聞がいやしますが、恨みは時間とともに根を張ります
この行が牛の背の牧人のような、ゆったりした心になるための最初の修行です。

牛に乗っているとはなにか?

騎牛帰家(きぎゅうきか)

牛に乗っていることに、どんな意味があるのでしょう。

牛に乗って楽をするという意味ではありません。
牛は本当の自分でしたね。

そもそも、牧人は暴れる牛の手綱を持って、手なずけるように歩いていました。
緒に歩いてくれるようになったのが5枚目の「牧牛」でした。
手綱はゆるんでいましたが、まだまだ放せる状態ではありませんでした。

ゆるんでいますが、気をゆるめた状態ではありませんでした。
それが「騎牛帰家(きぎゅうきか)」では、牛に乗るまでになったのです。

私たちは『生きる目的』があって生きています。

人生を使って成し遂げる何か(目的)を持っています。
そこに『真の自分』がいます。

それに気づくことが真の自分に出会うことです。

逃げ出した牛はその象徴でした(①尋牛)
牛が登場するのはこの⑥騎牛帰家が最後です。

 

牧牛も牧人もそれに思巡しながら、ひとつになって家路に就いたのです。

「騎牛帰家(きぎゅうきか)」2つの意味

騎牛帰家(きぎゅうきか)

騎牛帰家(きぎゅうきか)

牛
心穏やかな牛にまたがって家に帰る・・・には2つの考えがあります。

  • ひとつは、広がり・・・・「大局をみる」

  • もうひとつが、深さ・・・・「内面をみる」

逃げ出し、捉えられないように、暴れていた牛と一緒に歩くうちに、牛の煩悩を断ち切ったので、牛は本来の仏性を持った心穏やかな牛になり、乗ることも可能になりました。

「なんのためにこの経験は必要だったのか」

本来の記憶を未来から思い出すのです。
ダメな自分が真の自己の背にまたがって笛を吹いている。欠けている自分を出発点にして、
ついに本来の自己を自分のものにできたのです。

 

自分という器は「空」です。
器に何を入れるか、判断するのは自分です。

アリストテレスプラトンの弟子であり、ソクラテス、プラトンとともに、西洋最大の哲学者の一人とされ古代ギリシアの哲学者「アリストテレス」は自然学で「自然は真空を嫌う」と言いました。つまり空いていたら、なんでも入れてしまうと言う意味です。仏教でいう「空」とは「宇宙のすべてのものごとは縁起によって存在しているのであって、絶対的存在であるとか、すべてのものごとの根源の存在であるというものはない」という意味です。

60兆のネットワーク

本来の自分とはなにか?

本来の自分とは、目的に生きたいと願う根源的ないのちそのものです。

命は、もともとは「卵子」です。「精子」とひとつになって、育って誕生します。

脈々と継承されてきた先祖代々の見えない生命力やそこにある環境に置かれ、教育を受け、60兆あると言われる細胞ネットワークの塊が人として形をなしていきます。

それらはひとつになって、生きようとします。これが根源的ないのちです。

水が湧き出る源流のふるさとがあるように、いのちにもあるのです。これが本当の自分の根源です。

一滴の水は一滴ですが、川に合流することで、いのちの根源を楽しみます。

涅槃寂静とはなにか?

涅槃寂静

牛と一体となった牧人は、牛の背に乗ると遠くまで見渡します。
遠くにある人生の輝きが見えます。涅槃寂静です。

お釈迦様はの説いた真理のひとつ涅槃寂静とはなんでしょう?

気づきのための基本として説かれた4つの真理(四法印)である「一切皆苦」「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」のひとつ。

ブッダに学ぶシステム思考「涅槃寂静」
涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)は、ゴール(=可能性)を表した言葉です。誰もが正しい原因を作れば無限の可能性を得られる。裏返せば正しい原因(真理)を無視すれば可能性を閉じることになる。共有ビジョンが顕著な事例です。

煩悩とは、サンスクリット語の「ニルヴァーナ」を音写したものです。
意味は火を吹き消した状態のことで、火は煩悩、寂は不動、静は静かなことの意です。

煩悩の吹き消された悟りの世界(=涅槃)は、静やかな安らぎの境地(寂静)であるという意味です。

牧人は、感覚で「涅槃寂静」の境地を知るときが、すぐそばに来たと予感したのです。

牛自分という器に何を入れるか、余分なモノは全部捨てないと空にならないと真の自己は入らないのです。

その状況を笛を吹いている牧人、笛の音を聞いている牧牛で表現しています。

笛を吹いているのはなにか?

遠くを見る

牧人は、身も心も軽く、安らかで自由な境地にあります。

牧人は牛の背に乗って、家に帰っていますが、綱を持たず笛を吹いています。

牛が自然に家へと導いてくれているのです!

なので牧人は分の内面を深く観察する余絡を持ちながら、想曲の音色を楽しみながら、家路をたどります。

本来の自己とそれを求める自己が体になったため、求めようと努力しなくても内面から湧き出る仏性を深めて、共感を悟ることができるようになってきたので、笛を楽しめるのです。

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まとめ

「騎牛帰家(きぎゅうきか)」牛にまたがって家に帰る・・・には2つの考えがあります。

  • ひとつは、広がり・・・・「大局をみる」
  • もうひとつが、深さ・・・・「内面をみる」

より遠くを広く世界を見るには、つまり大局を見るには自分の内面の深さが影響します。

私たちが他者や物事をみるとき、表層だけを見ているわけではありません。
表層の下にある深層の心の働きを観る事ができると、より現象への理解が深まります。

本来の自己とそれを求める自己が体になったので、牛の背中にまたがることで、自分の目線が高くなり遠くまで見えるようになりました。

つまり、認知の歪み、ラケット、人生脚本から解放されたのです。

求めようと努力しなくても内面から湧き出る仏性を深めて、共感を悟ることができるようになってきたことを表現しています。

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