社会人基礎力|主体性を鍛える:六大煩悩に無縁なヒト

八識 ゲンキポリタン大学
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六大煩悩(貪・瞋・癡・慢・疑・悪見)に無縁なヒトでなければ、本当の意味で社会人基礎力があるとはいえません。と、いうか、「なれません」と思うのは間違いでしょうか。執着まみれのヒトは客観的な判断ができない上、利他の動機で動けないからです。利己の動機は強いと思われがちですが実際には利他の動機の方が断然強いのです。良い例が、会社勤めしているより、独立したら意欲的になると思われがちですが実際は逆です。諦めが先に来るからです。

ゲンキポリタンは煩悩を焼き尽くす対策として<般若の呼吸>を推奨しています。

呼吸で煩悩が焼き尽くす?と疑問に感じると思いますが、逆に「それしかない」と言い切ります。
なぜならヒトは人間である前に動物だからです。主体性を鍛えるには、厳しい環境をサバイバルしたホモサピエンス(Homo sapiens)特有の本来のエネルギーで、もっとも厄介な煩悩の仕組みを突破、自分の内側にある「し合わせ」の仕組みを発見したいものですね。

社会人基礎力|
主体性を鍛える:六大煩悩に無縁なヒト

六大煩悩(貪・瞋・痴・慢・疑・悪見)

六大煩悩とは、根本苦(我愛・我癡・我慢・我見)から生じた「貪・瞋・癡・慢・疑・悪見」の6種類の煩悩のことです。煩悩を焼き尽くす智慧も、人生脚本を書くメカニズムも、外側に見られる力では想像できないものですが、現実には見えないけれど人生脚本を書き、煩悩に苦しんでいます。
この問題を主体的に解決する力を鍛えることは、社会人基礎力に大きな影響を及ぼすだけでなく、期待されるリーダーシップにつながります。では、「し合わせ」の仕組みに入る扉を開きます。

人生脚本の基礎〜我愛・我癡・我慢・我見

シナリオを読む

ヒトは1.5〜6歳までに人生脚本を書きますが、潜在意識にあるので、一般には死ぬまで気がつきません。人生脚本には起承転結があり、結には目的があります。ヒトの一生とは、1.5歳までに書かれた人生脚本の結(目的)を達成するために生きることです。
ここでは1.5歳の幼児にそんなことができるはずがないという疑問の種明かしをします。

我癡(がち)

十二縁起

我癡(がち)は人生脚本の土台であり、一切の煩悩が起るいちばんの根本です。
我癡は愚かさであり、真理を知らないことです。つまり「無明」も同じです。

私たちが迷い苦しむ様子をお釈迦様は12に分けて説かれました。すなわち十二縁起です。十二因縁ともいいます。
十二縁起は無明(無知)からはじまり、名色六処老死の12個。これを学び知ると迷いを起こすしくみがよくわかります。十二縁起の無明(無知)愛(渇愛、根源的欲望)取(執着)有(迷いの存在)生(生まれ)老死(苦)の六つに人生脚本の起承転結が読み取れます。つまり無知から渇愛が生じて、執着になり、迷いを作り出し、生存してやがて老いて死ぬというものです。

なにも分からない無知から、目に触れたもの、耳に触れたものに、欲望を持ち、それが更に執着になり、迷いの存在となって、生を営み、やがて老いて死ぬのです。一番注目すべきポイントは、私たちが迷いや苦しみを引き起こす、そもそもの原因は「なにも分からない無知から、目に触れたもの、耳に触れたものに、欲望を持ち、それが更に執着になる」というプロセスです。


「大人は幼児になにが解るのか」と考えますが、現実は反対です。つまり防衛本能が超敏感な1.5歳までだからこそ書き上げられる脚本(=人生に対する構え)なのです。
その一番の原因は、超敏感なのに、無明、無知であるということです。根本は無明なのです。

我見(がけん)

十二縁起をゴエスする

我見とは、自分だけの偏った見方や狭い考えです。自身の存在のなかに実体的な我があると考え執着すること。 あらゆる存在に本質として実体的なものがあると執着する法執 (ほっしゅう) とともに仏教では排斥される。 我見,我想,人我想ともいわれる。 一般には自分の意見に固執することです。

では、なにを知らないのでしょう。諸行無常であり、無我であるという真理を知らないことです。
そして一人一宇宙の世界に生きているということを知りません。

諸行無常つまり一切は無常であるのにいつも有り続けると誤解して、さらに自分という孤立したものはないにも関わらず、自分という独立したものがあると誤解する。見たもの、触れたもの、嗅いだものを自分のものにしたい、もっと増やしたいと貪り瞋り癡れる(むさぼりいかりしれる)ことで、自ら苦しみを創造するのみならず、ますます囚われ執着に絡め取られます。

四苦
苦しみの根本原因は、無常であることを知らない、自分という孤立したものはないことを知らない、無我というように、つまり自分とは便利上、言葉としてあるだけで、実体はなく、総てのものは互いに寄り添い助け合い、相互に関わり合いながら縁起の上に存在していることを知らない無知にあります。これが無明であり、無明から生じた我癡といいます。

縁起の連鎖の上にあるので、無常であり続けますが、いつも同じではないのに、常に変わらないと錯覚しているのが我です。真理は、違います、無常であり、無我であり、思うがままにならないのです。この思い違いが大きいほど、自分を苦しめる原因になっているのです。

マインドフルネスで知る諸法無我と十二縁起
「十二縁起」とは12の因果関係を説明したもので、誕生に至るプロセスからはじまり死に至ります。12の縁起(原因と結果をつなぐ縁)の過程で「執着心」が生まれる因果があります。これを避けるのが教育です。教育とは育むことを教えることで、自分で自分を育めることを教えて、そのチャンスとヒントを与えてあげることです。すなわち「諸法無...
刹那滅といいますが、これは脈拍のことです。一生、23億回23億回の生死を繰り返していること、つまり常に変化していることを「刹那滅」と呼んでいます。23億回は人間が一生の間に止まることなく打つ脈拍の回数ですが、通常は1分間に60〜70回未満です。1分間に75回以上あると早死にすると言われています。不整脈になると75回から80回、80回から85回と、5回ずつ上昇するごとに、脳卒中や心筋梗塞などで死に至るリスクが17%ずつ上昇します。原因のトップは自律神経の乱れです。

これを整えるのが般若の呼吸です。呼吸で重要なのは息を吸うことより息を吐くことです。1回吐くごとに放下著(ほうげじゃく)するのです。「放下著」の「放下」とは手放す、投げ捨てるという意味で、「著」は助辞です。 「放下著」は「すべてを投げ捨ててしまえ」という意味です。すべてとは「仏も智慧も執着も間違った認識もみんな」という意味です。

般若の呼吸とは放下著する呼吸です。

肺呼吸と細胞呼吸|般若の呼吸
呼吸はマネジメントの基本です。 呼吸には3つの呼吸と細胞呼吸があります。 生きるための呼吸である<脳幹>での呼吸・・・・・・・・代謝性呼吸 意識的な呼吸である<大脳皮質>で行う呼吸・・・・・・・随意...

我慢

」は「自慢・慢心」の「慢」です。「自」と「他」を分けた上で、自分を他より優れていると思うことです。

一般に我慢というと、辛抱することと思われていますが、『広辞苑』で調べても、一番には「自分をえらく思い、他を軽んずること。「高慢」という意味があり、二番目に「我意を張り他に従わないこと。「強情。」という意味があって、三番目にやっと「耐え忍ぶこと。忍耐。」という意味が載っています。

慢というのは、自分を他人と比較して、心の高ぶることをいうようです。
慢心
というものは誰にもあるものなので、奢りにならないように注意したいですね。

七慢という言葉があります。

  • 慢=自分より劣ったものに対して、自分の方がすぐれていると思う。
  • 過慢=自分と対等のものに対して、潜在的に自分の方がいいと考えている。
    自分よりすぐれたものに対して、あれくらいは大丈夫と思う。
  • 慢過慢=(まんかまん)自分よりすぐれたものに対して自分の方がすぐれていると思いこむ。
  • 我慢=自分にこだわって、自分の方が相手よりすぐれていると思い上がる。
  • 増上慢=(ぞうじょうまん)まだ分かっていないことを、さも分かっているかのようにふるまう。若くして悟りを得たと思った江戸中期の名僧、白隠禅師は、戦国武将・真田幸村の甥である正受老人から鼻っ柱をへし折られたことで大成への道が開かれました。
  • 卑慢=自分よりはるかにすぐれた者に対して、たいしたことはないと思う。
  • 邪慢=自分に全く徳がないのに、徳があると思いこむ。

の七つです。

幼児には特有の「万能感」があります。「万能感」とは、精神分析で「全能感」と呼ばれるものです。自分は万能で何でもできる。不可能なことはないという思い込みです。「万能感」とは本来は保護者にケアされることを誤解した「子供の心」で、肥大化することで、現実認識能力が低下し、物事の適切な処理ができなくなります。

年齢が上がるにつれ「万能感」は打ち砕かれるのが正しい情況ですが、中には持ち続けたまま成人して困った存在になるヒトがいます。

我愛

自分忘れ

我愛。私たちは、無意識のうちに自分を愛しているものです。

江戸時代前期の臨済宗の僧。盤珪禅師(ばんけいぜんし)は「一切の迷ひは皆身のひいきゆへに、迷ひますわひの。身のひいきせぬに、迷ひは出来はしませぬわひの。」と仰っています。

一切の迷いはわが身のひいきによって起こるというのです。

わが身をかわいがるから、気にいったものを欲しがり、気に入らないものを退けようとするのです

いかに善意のようにみえても、その善意の底にもどこかに我愛があるものです。

 

我癡、我見、我慢、我愛の四つが煩悩の根本です。無知なること、無知なる故に我があると思いこみ、おごり高ぶり、我を愛して執着しているのです。

ただ煩悩だ煩悩だといって、嫌うのではなく、まずこの煩悩の根本をしっかりと認めて、その上で、解決策を考えてみましょう。

我見」のところで、以下のように説明しました。

苦しみの根本原因は、無常であることを知らない、自分という孤立したものはないことを知らない、無我というように、つまり自分とは便利上、言葉としてあるだけで、実体はなく、総てのものは互いに寄り添い助け合い、相互に関わり合いながら縁起の上に存在していることを知らない無知にあります。これが無明であり、無明から生じた我癡といいます。

無知なること、無知なる故に我があると思いこみ、おごり高ぶり、我を愛して執着しているのです。

さて、ここに解決策が提示されています。つまり我癡、我見、我慢、我愛の4つが煩悩の基本なら煩悩に苦しむ自分は、実体はなく、もともといないのだから、もともといない自分など忘れてしまえばいいのです。自分を忘れても縁起の上に存在しているので、不都合はなく、思い煩うことなく、ことに没頭できるようになります。
つまり、これこそがヒトが求めてやまない人間の「し合わせ」なのです。

自分のために良かれと思うことが自分を苦しめている理不尽に「八識」が救いの手をさし延べます。

八識と人生脚本

人生脚本を書き直す

そのやり方を教えているひとつが「八識」であり、もうひとつが「マインドフルネス」です。

八識とは、眼識(げんしき)・耳識(にしき)・鼻識(びしき)・舌識(ぜっしき)・身識(しんしき)・意識・ 末那(まなしき)・ 阿頼耶識(あらやしき)の8つの識です。文字からも解るように五感である眼識、耳識、鼻識、舌識、身識の5つを「前五識(ぜんごしき)」、前五識を統括している心が意識です。これらは顕在意識であり、末那識・阿頼耶識が無意識(潜在意識)にあるもので、潜在意識のことは心理学者フロイトが提唱しています。
阿頼耶識は無意識より深い意識になります。これら無意識のことは、海面より低い場所に位置する氷山に喩えて説明しています。

末那識とは、我癡、我見、我慢、我愛など執着心のことです。識とは蔵を意味します。つまり執着心を収めた蔵です。阿頼耶識とは、阿頼耶つまり業(カルマ)を収めた蔵です。カルマとは行為のことです。

ストレスでイライラしたときに、大食いで憂さを晴らす体験をしたことはありませんか?
大食いという行為に走らせるのは、カルマの仕業です。

私たちの阿頼耶識には日々、無数のカルマが収納されています。一回大食いしたから治るわけではないので、人生100年の間に繰り返しやってしまいます。カルマは時間をかけて蓄えられたものなので、不滅であり、ゆえにそのカルマがおさまっている阿頼耶識は、行為によって生きようとする永遠の生命なのです

つまりヒトは身体も、いのちも、心も、人生脚本も、シンクロニシティも、自分では支配できないのです。

6種類(貪・瞋・癡・慢・疑・悪見)の煩悩

貪・瞋・癡・慢・疑・悪見

貪(とん)

痴という煩悩が貪や瞋という煩悩を生み出していくのです。

その真理が分からないということなら、自と他を分け、他をさらに細分化して、全てがバラバラであると認識する「分別智」の境地に生きるていることを意味します。

「痴」という煩悩によって「自」と「他」を分けた上で、「他」を「自分のものとしたい」と思うと、「貪」(とん・むさぼり)となります。また、「自」と「他」を分けた上で、「他」を「自分のものにできない」と思うと、「」(じん・いかり)となります。

瞋(じん)

とは、人間のもつ根元的な3つの悪徳のひとつです。自分の好むものをむさぼり求める貪欲,自分の嫌いなものを憎み嫌悪する瞋恚,ものごとに的確な判断が下せずに,迷い惑う愚痴の3つで,人を毒するから三毒,あるいは三不善根などとも呼ばれます。

癡(ち)

根本的な煩悩は「」(ち)です。
十二縁起では、別名「無明」のことです。真理について暗いことを言います。
大宇宙の真理とは「無分別智」です。誰も入れない、出られない一人一宇宙ではあるが、一人一宇宙の全てはひとつながりであると自ら体感している境地です。体感していることが重要です。

癡(ち)は先にのべた我癡

慢(まん)

先に述べたように「」は「自慢・慢心」の「慢」です。
「自」と「他」を分けた上で、自分を他より優れていると思うことです。

疑(ぎ)

」は真理や道理に対して疑いの気持ちを持つという心の働きです。
例えば、誠意が感じられない人に「あいつを信頼して大丈夫か?」という「疑」ではなく、「本当は原因・結果の因果の法則なんてないんじゃないか」というような本質的な疑いです。

悪見(あっけん)

最後に「悪見」です。
物事の本質を見ようとせずに、軽んじること。 自分の都合のみで判断してしまうこと。

悪見とは次の5つの間違った判断による発想の総称です。

1 身見「私という存在がある」と思ったり、「これは私のものだ」と思い込む発想
2 辺見ー極端な見解に立つこと。人間は死によって無に帰すとするのは断見、何かが残って続いてゆくとするのは常見。このような一方的な考え方を辺見という。
3 邪見原因があって、結果があるという因果の法則を否定したがる。
4 見取見上記3点のような誤った考えを真理として受け容れてこそ、悟れると思いこむこと。
5 戒禁取見(かいごんじゅけん)ー正しい立場に立てば因にならないものを因として誤って受け入れる。苦行をすれば悟れるなど、誤った真理への到達方法を信じこむ。

という、貪・瞋・癡・慢・疑・悪見の6種類の煩悩が六大煩悩です。最初の3つ「貪・瞋・癡」を「三毒」と言い、それに後半の3つ「慢・疑・悪見」を足して「六大煩悩」です。

根本苦とは

ライフステージ

根本的な苦とは生・老・病・死(しょう・ろう・びょう・し)の避けようのない四苦のことです。

  • 生苦(jāti dukkha)-しょうく。衆生(いのちあるすべての生きるもの)の生まれることに起因する苦しみ。
  • 老苦(jarāpi dukkha) – 衆生の老いていくことに起因する苦しみ。体力、気力など全てが衰退していき自由が利かなくなる。
  • 病苦(byādhipi dukkha) – 様々な病気があり、痛みや苦しみに悩まされる問題。
  • 死苦(maraṇampi dukkha)- 死ぬことへの恐怖、その先の不安などの自覚。衆生が免れることのできない死という苦しみ。また、死ぬときの苦しみ、あるいは死によって生ずるさまざまな苦しみなど。

つまり、根本苦である四苦とは、生まれ、生き、死ぬことライフステージのプロセス全般、特に死への恐れ・不安です。四苦は、避けようがないので、受け入れるしかありません。受け入れないと逆に執着から煩悩に絡め取られます。

人生を変える「自分忘れ」の呼吸

一人一宇宙

「六大煩悩」「根本苦」を駆逐するライフスタイルは、「私はOK、あなたもOK」の自他肯定の実践です。

心が平静なときは、「私はOK、あなたもOK」とも「私はあなた、あなたは私」とも、いくらでも言えます。しかし不満を持ったり、怒りを持ったりしている時にはどうでしょう。
穏やかでない時には自と他を分けて「私はOK、あなたはNO」と思い込んでいることが少なくありません。試されているときです。

そこに気づいて「私はOK、あなたもOK」と自他肯定のスタイルを貫き、さらに「自と他を分けない」「私はあなた、あなたは私」という境地に立てるかどうかが問われています。

実体のない自分と大宇宙を繋いでいるのが、呼吸です。

ヒトは自分を忘れても死にませんが、
呼吸を止めれば、60兆のネットワークは活動を停止して死にます。

マインドフルネスとは主体である対象になりきることです。

『マインドフルネス+放下著する呼吸=自分忘れ』を体験してみませんか。

人生脚本を書き直さない限り「社会人基礎力」は身につきません

社会人基礎力①|3つの能力と12の能力要素
自己マスタリーのよろこびは成長の実感です。もっと努力しておけばよかったと反省することもあると思いますが、考えるべきは、いま・ここ・この瞬間からの成長です。しかし、成長のために、具体的に何をすればよいのか分からないという方も多いでしょう。そんなときは「社会人基礎力」を見直すことで、成長への糸口を見つけるのはいかがでしょうか。

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「ゲンキポリタン大学」では、「社会人基礎力」をコアにライフシフトをバックアップするさまざまな講座を、さまざまな方を対象に、さまざまな形態で開催しています。ご都合に合わせた形態をお選びください。

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