「十牛図」5枚目の「牧牛」は正しい周活(ルーティンワーク)で「なりきる」をなりきる。

「十牛図」牧牛(ぼくぎゅう) 十牛図

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ここに幸あり

私たちは、いまより少しでもいい暮らしがしたいと望んでいます。

離婚して子育てをするママは切実で、誰かに頼りたいと思います。
意中の彼とつきあいたい思う女性は思いを伝えきれず、彼が他の女性と交際することに嫉妬します。
成功したいと考える男性は、ビジネスをうまく立ち上げて軌道に乗せた男性を羨望の眼差しで見て、妬みからこき下ろします。

人は願えば願うほど苛立ち、自分を見失います。
本来、エネルギーになるはずの力が、自分に牙を剥き、自分を痛めつけます。

この現象は、自分の守るために備わった機能がストレスから自分に牙を剥く体内の出来事と酷似しています。

つまり、人には「優しい暮らし」が向いているのです。
室町時代に中国から伝わった「十牛図」は、本当の優しさとはなにか、どうすれば実現可能になるのかを教えてくれます。

「十牛図」第5の図「牧牛」は、牛を捕らえた牧人が牛を手なずける様子が描かれています。

「十牛図」〜「牧牛」に真実の優しさを探ります。

人は不安から真実に目を背けて暮らしている

世人

私たちは誰も、死というリアルな問題から目を逸らし、永遠に死ないような気分で暮らしています。

みなし健康人は、いたわりの気持ちを持たなければと思いながらも、潜在する不安を煽る老人、病人に無意識で良い感情を持ちません。

そのような人を、真実だからといって、鞭で叩くようなことは決して良い結果にはなりません。

世人という言葉があります。

ダスマンあるいは世人

『存在と時間』はハイデガー

ダス・マン(ドイツ語:Das Man)、訳して「世人」とは、「存在と時間」で有名なマルティン・ハイデッガーによる概念を翻訳した言葉。

人間というのは個としての死が必然であるということを自覚せざるを得ない能力を持っており、主体的に生きることが運命付けられている存在であるにもかかわらず、このことを考えずに紛らわして過ごしている人間のことを言う。

社会において生きる人間というのは、他者とは道具的に出会うということが多く、これは仕事中の他者と仕事相手として出会うということである。ここでは他者は自らの便宜のためであり、自らも他者の便宜のために道具的に存在しているということである。

人々はこのような公共的な世界での生活に埋没し、気晴らしを楽しみ、時間を潰しながら生きているわけであるが、ハイデッガーはこのような生き方は本来の人間らしくない生き方であり、これを頽落つまり堕落であると表現し、このような生き方をしている人々のことをダス・マンと表現した。人間ならば誰であってもかまわないという生き方が暗示されている。

                                         出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

このような事実をほとんどの人は、実際には認識しているので、「世界でただひとり、愛しています」などと口走ることができるのです。

蝋燭のように

蝋燭のように自分を燃え尽くす

しかし、そうであるから、そこにある矛盾を受け入れて、出会う人を「特別な存在」と認識し「一期一会」を愛おしみ丁寧であれと、蝋燭のように、周りを明るく暖かくして、自らを燃やし尽くす在り方もあるのではないでしょうか。

怒り(刺激)の褒美が罪悪感(刺激)。罪悪感の褒美が怒り。

怒り

多くは、意識しているわけではありませんが、日常では、刺激を求め、意識から排除しようとします。

そうすると刺激が強いほど、役割を達成できます。
喜怒哀楽のなかでも「怒り」は最も強い刺激が強いので、「怒り」が好んで使われるようになり、癖になり、習慣になります。

怒りは「自己否定」「他者否定」と親和性があるので、使えば使うほど、どちらも強くなり、負のループは蟻地獄になります。

日常的に「怒り」が使われると、DV、虐待になります。
怒れば怒るほど麻痺してくるので、罪悪感も乏しくなります。
怒りの褒美が罪悪感になります。罪悪感の褒美が怒りになります。

このような人と同居していたり、育てられると、人格障害になります。

負のループが奏でる煩悩地獄です。

怒りが勝手に生まれる「周活」

怒り

本来、どの感情が強いというものでもありませんが、特定の感情が育つのは、思考回路のなかで特化して、繰り返し反復されるからです。

人は、自動生成されるマインドトーク(雑念)で困っていますが、このときに怒りが多用されると、怒りっぽい人になります。

するとますます自動生成されますが、止まらないほどに生産されると、頭のなかが「怒り」でいっぱいになります。

これは決して不思議な現象ではなく、他の細胞でも起こる現象で病気の原因になっています。

しかし、怒りが幸せにすることも、健康に寄与することもありません。病気になるだけです。

強い刺激が望みを叶えることはないのです。

怒りを日常のルーチンワークにして自動生成するのではなく、
自分で考えて、優しさを日常のルーチンワーク(周活)にしてたいですね。

人は潜在意識で、多くのことを知っている

八識

このように人は潜在意識で、とても多くのことを知っています。

裏返せば、人は潜在意識で、想像以上のことを考えている可能性があります。
つまり自分では考えたこともないストレスに苛まれている可能性があります。

仏教は、どういう呼び方をしょうが、死の問題を解決する学問です。裏返せばより善く生きるための学問です。

もう一度裏返すとより善く旅するための学問です。

結局、これとあまり大差ない旅のガイドです。

「十牛図」5枚目の絵は「牧牛」です。やっと5枚目です。まだ半分です。

でも、続けてください。「十牛図」には「あなたを幸せにする秘密」があります。

少なくともどんな悩みも解決します。

十牛之庭

十牛の庭

京都相国寺承天閣美術館には「十牛図」が描かれたお庭があります。

また、徳川家康が開いた学校のある京都市左京区一乗寺、圓光寺にも十牛の庭があります。(写真)

畳に正座して十牛之庭を心行くまで旅するのも素敵です。

桜が咲いたら、ぜひ、畳に正座して十牛之庭を心行くまで堪能してください。

春夏秋冬、それぞれ美しいので、ぜひ、お訪ねください。

「牧牛」・・・「牛を飼いならすとはなにか。」

「十牛図」牧牛(ぼくぎゅう)

「十牛図」牧牛(ぼくぎゅう)

牧人は暴れる牛を綱と釈とで徐々に手なずけます。
牛はとうとう牧人の根気強さに負けておとしくなりました。
もう牛は二度と操れることも出すこともありません。

「牧牛」では、「牛を飼いならすとはなにか。」という問いが投げかけられています。

牛を飼いならすとはなにか。

 

牧牛

「十牛図」5枚目の絵「牧牛(ぼくぎゅう)」では、牧人は暴れる牛を綱と釈とで徐々に手なずけます。

ここでいう手なずけるには、煩悩を無分別智の炎で焼き尽くすことを指しているようです。

煩悩は、健在意識にも、潜在意識にも塵として蓄積されていきます。

無分別智

潜在意識・顕在意識・

無分別智とは・・・WikiArcによると次のように説明されています。

知るものと知られるものが一つであるような智慧のこと。 ものごとを二元的、対立的に理解していこうとする分別智を超えて、生死一如、自他不二と直覚していく智慧。このように万物一如とさとるこの無分別智のことを根本智とも実智ともいい、またそれを般若(プラジュニャー)ともいう。このような無分別智の境地は、分別を本質とした言葉を超えているから不思議といわれる。
 しかし無分別智によって生死、愛憎を超えたものは、そのさとりの境地を人々に伝え導くために言葉で表現し教法として示していく。これを後得智(ごとくち)とも権智(ごんち)ともいう。
なお根本智に至る前段階を加行無分別といい、加行・根本・後得の三智とすることもある。(梯實圓『歎異抄』p.105より) WikiArcより

簡単にいえば「無分別の智慧」=「分け隔てしない智慧」と解釈できます。

仏教では「無分別」が奨励されていますが、いまの社会では「分別しなさい」と奨励されています。

先にあげた「無分別智」の説明の中でも

無分別智の境地は、分別を本質とした言葉を超えているから不思議といわれる。

とあります。

分別を良しとするのは、「善悪を識別できる能力」が奨励されるのは正しいと思いますよね。

でも、ここで「重要」なのは、善悪の分別できる能力を言葉で知っているのでも、言えることでもなく、実行している力です。
実行するときに、分け隔てが障害になっていると考えるとわかりやすいのではないでしょうか。

大切なのは「無分別智」の実行

実行力

「無分別智」を、言葉の上で善悪が解っても意味はありません。
大切なのは何が善で、何が悪かを知っていることではなく、実行することなのです。

人種差別は良くないと知っていながら、未だに黒人差別、あるいは逆差別がなくならないのはなぜでしょう。

いま、先に述べたように、DV、虐待が、社会問題になっていますが、クマは母親が子育てをします。
食糧難で、栄養失調で死んでしまう子熊が多いそうですが、子熊が生まれると、父親はひとりで近親相姦を避けるために去るそうです。
それを禁じたのは言葉でなく、生存するために身についた本能という名の無分別智ではないかと思うのです。

人は、このような知恵は、本来、身につけているものです。
言葉によってが生じた「分け隔て」で本質が解らなくなり、マインドトーク(雑念)によって、煩悩で頭がいっぱいに、自分を見失うのです。

これら言葉の嵐は、塵なり、脳を汚し、心に波を起こします。つまり煩悩であり、エゴの元になります。

  • 自と他
  • 善と悪
  • 有と無
  • 生と死
  • 好と嫌

その代表が「私」「私のもの」です。
お分かりのように「執着」が浮かび上がってきます、

「執着」は「怒り」と同じく、すればするほど、自分から遠ざけてしまいます。
私たちは言葉を使い、ああだ、こうだと言って暮らしていますが、そうすればするほど、どこまでも悩み、最悪は戦争に行き着いてしまいます。

自他対立

わたしもあなたもOK

諸悪の根源は、「自他対立」です。

いきいきゴエス協会が主宰する「ライフスキル研修」では、人間関係の仕方として以下の4つを挙げています。

  • 自己肯定・他者肯定
  • 自己肯定・他者否定
  • 自己否定・他者否定
  • 自己否定・他者否定

このうち、自他対立のないのは「自己肯定・他者肯定」だけです。
ほとんどの人は自他を分けることで、煩悩地獄をさまよっているといえます。

言葉でどうしたら良いか、知っていても、実行できないのです。
つまり「なりきれない」のです。

ところが、「なりきる」と「知っている」を混同、誤解しているため、煩悩地獄を脱出するキッカケがつかめないどころか、「問題がある」と考えないのです。

この状態を、「問題がある」と提言したのが「マインドフルネス」です。

しかし、マインドフルネスは、「宗教の強要」を避けるため、ストレス低減に留まっているもどかしさがあります。

「私」「私のもの」・・・執着から自由になる

執着から自由になる

「十牛図」5枚目の絵「牧牛(ぼくぎゅう)」では、「牛(真の自己)を手なずける」がテーマです。

「真にストレスフリー、自由になるには、煩悩を「無分別智」で焼き尽くす習慣を身につける」ようにします。
それが手なずけるという意味ではないでしょうか。

具体的には自他対立の構えをやめて、人間関係の仕方で自分の執着しない。

相手になりきることを心の羅針盤に置いておくと、人間関係はもっとラクになります。

人はそれぞれに思考回路があります。

生育環境で、出来上がった思考回路の上に知識を積んでいくので、その結果、他者と全く違う回路が強固になっていきます。
これを「こうあるべき」という物差しで見ていると、顕在意識でも潜在意識でも、ストレスがどんどん蓄積されます。

「こうあるべき」は正しい行いであっても、現実には「ありえないこと」が起こります。
「こうあるべき」観点から見たら青天の霹靂です。

でも、それが現実なのです。それを受け入れることが「自己肯定・他者肯定」です。

ヨーガとは、すべてのものを受け入れて、心に還元して、その「もの」の本質・真相を観察・思考する実践です。「阿頼耶識縁起」などの教理を発見しました。

因果応報の連鎖を防ぐ・・・「阿頼耶識縁起」から学ぶ知恵

阿頼耶識縁起

「阿頼耶識縁起」とは、難しそうですが、シンプルな話です。

  1. 種子生現行  深層的な根本心である深層の阿頼耶識のなかの種子(可能力)が原因となって、結果が現在に起こります。
  2. 現在に起こったことが「原因」となって、阿頼耶識のなかに結果としての種子を薫じ、
  3. 薫じつけられた種子は、刹那に生滅しつつ、その新たな種子が縁をえて、再び現行を生じ、その現行が種子を薫じ……と因果の連鎖がつづくことをいいます。

つまり因果応報の連鎖ですね。個人でも起こりますが、組織では頻繁に起こります。
連鎖の中に埋もれるので、本当の原因が解らず間違った打ち手をうってしまいます。

言えることは「小さな過ち」を見逃さない。細心の注意を持って間違ったことをせずに、問題が生じるのを未然に防ぐことがいちばんの対策になります。会社などで業績が悪いという場合、間違いなく「因果応報の連鎖」があります。

 

まとめ

八識

手なずけるとは、煩悩を無分別智の炎で焼き尽くすことを指しているようです。

阿頼耶識(あらやしき、梵: ālaya-vijñāna、आलयविज्ञान)は、大乗仏教の瑜伽行派独自の概念です。

個人存在の根本にある、通常は意識されることのない潜在意識のこと。

眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識の8つの識の最深層に位置するといわれています。

因果応報の連鎖、つまりループするものが負であれば苦しみになり生であれば苦は少なくなります。

小さな間違いを見逃さず身を引き締めて正しい周活(ルーティンワーク)をしたいものです。

阿頼耶識で幸せになろう

 

 

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