禅の教科書「十牛図」五番目の絵は「牧牛(ぼくぎゅう)」です。
牧牛は暴れる牛を綱と鞭で少しずつ手なずけながら帰途を進んで行きます。
牛はとうとう牧人の根気に負けておとなしくなっていきます。
もう牛は暴れて逃げだそうとは考えないようです。
「牧牛(ぼくぎゅう)」の問いは、牛を飼いならすとはどういうことか?では一緒に答えを見つけましょう。
十牛図「牧人」
「牧牛(ぼくぎゅう)」は十牛図、五番目の絵です。
「牧人」では捕獲した牛が思い通りになってくれず悪戦苦闘しながら家路を急ぐ姿が描かれています。つまり牛を捕獲したために悩んでいる姿が描かれているのです。
牧牛がヤマ場という理由は、ここで停滞して潰れてしまう人たち、ここをすり抜ける人たちに分かれるからです。
ヤマ場である⑤「牧牛」の前は、①尋牛 ②見跡 ③見牛 ④得牛
後には ⑥騎牛帰家 ⑦忘牛在人 ⑧人牛倶忘 ⑨返本還源 ⑩入鄽垂手(にってんすいしゅ)があります。
「牧牛」以前は牛を探して苦労している絵ですが、「牧牛」を最後に牛は登場しなくなります。
縁起と一人一宇宙
仏教には、他との関係が縁となって生起する「縁起」という言葉があります。
「縁起」とは、全ての現象は、原因や条件が相互に関係しあって成立していて独立自存のものではないという考えです。
なので条件や原因がなくなれば自ずから結果もなくなるというわけです。
牧牛の前の絵は「得牛」ですが、牛を得たことが縁となって悩みが生じたことが「牧牛」に描かれています。
思い通りにならない苦しみ
同じことは、私たちも経験しています。
たとえば、彼女ができたことで、いままでなかった悩みが生じたということはありませんか?
結婚したことによって自由がなくなったというもそうですよね。
なぜ、求めていたことが手に入ったのに、思い通りにならないのでしょう。
すべては自他が対立した状態で、誰も出ることも入ることもできない、広大で涯しない闇の「一人一宇宙」に住んでいるからです。
「相縛」と「麁重縛」
私たちは相互依存で成り立っている実社会で、我欲、我執といった顕在意識にある「煩悩」なら気づくことができますが、どっぷりつかった言語やイメージ、思いに束縛されて誤解と錯覚で、無益な喜びや苦しみを生み出す「相縛(そうばく)」という拘束に気づくのは大変難しく困難を極めます。
さらに、省みても省みても、潜在意識で自他を分別する「麁重縛(そじゆうばく)」という拘束になると、ほとんど気づくことができないまま、生涯を終えることも少なくありません。
唯識の教え
「相縛」「麁重縛」は、西遊記でおなじみの玄奘三蔵法師がインドから持ち帰った「唯識」の教えで、法師の死後、弟子によって「法相宗」として大成、日本には飛鳥時代に伝来、法相宗大本山である薬師寺、興福寺を通じて広く伝えられました。
私の牛ではなく、牛の私になる
ほぼすべての人が抱えている悩みを解決するために、お釈迦様(ブッダ)は出家され、生涯を捧げられました。それをまとめたものが仏教です。
「牧牛」の牧人も捕獲した牛が思い通りにならなくて苦しんでいます。
「牧牛」の問いは「牛を飼いならすとはどういうことか」です。
牛は本当の自分です。自分が自分(牛)を飼いならすことができないのは思い通りにならないものを思い通りにしようとするからです。
人間が一人一宇宙なら、牛も一人一宇宙です。
飼いならすにはあなたならどうしますか?
私の牛ではなく、牛の私になれば良いのです。
私の妻ではなく、妻の私。私の子どもではなく、子どもの私になる。
しかも主体性を失わない。
矛盾している課題を解決する方法は、無分別智です。
牛と私、あなたとわたし、表と裏というように。二分化しないのです。
なりきって、なりきる
なりきるのです。
なりきり、なりきり、なりきるのです。
掃除をするとき、箒になりきる。洗濯をするとき、水になりきる。
妻と話すとき、妻になりきる。
「災難にあう時節には災難にあうがよく候。死ぬる時節には死ぬがよく候。これは災難をのがるる妙法にて候」(良寛)
自分なんかどうなってもいい。
般若の心で無我になる。
「うらをみせ おもてを見せて ちるもみじ」(良寛)
まとめ
この世は思い通りにならない苦に満ちています。
代表的な四苦が、生・老・病・死(しょう・ろう・びょう・し)です。
さらに四つの苦を加えて四苦八苦・・・・避けようのない苦痛です。
求不得苦・・・欲しくても手に入らない苦しみです。手に入っても次々と湧いて出てくる苦しみ。
自と他に分別せず、思い通りにならないことを受容すると道も開けてきます。
そのプロセスを牧牛の後の ⑥騎牛帰家 ⑦忘牛在人 ⑧人牛倶忘 ⑨返本還源 ⑩入鄽垂手(にってんすいしゅ)に学べます。
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